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獣の空拳  作者: 藤田直巳
4/5

3話

「素敵な夜だね。」


女の声ーーそれは耳にするだけで、どこか奇妙な感覚を覚えさせる、不思議な声だった。

その響きには、特別に美しいものや、華やかなものはない。

しかし、聞いたものを引き込むような何かがあった。

それと同時に、その声には、理由もなく背筋を震わせるような響きが同居していた。

まるで魔力とでも言うべき力が、声に宿っている。


声を聞いた瞬間、雄一の体はまるで鎖に縛られたかのように動かなくなっていた。

体が、まるで自分のものではないかのように、言うことを聞かない。


女がこちらに近づくにつれ、周囲の空気が変わっていく。

喉の奥が乾く。

呼吸が浅い。

肌に張り付く夏の湿気が霧散し、凪いだ夜風が頬を撫でる。

血の気を奪うような寒々しさが、雄一の肌をわずかに粟立たせた。

体温が急激に下がったような錯覚に陥ると、額にじわりと冷たい汗が滲む。

女の声の残響がまだ耳にこびりつき、全身を貫くように支配していた。


雄一から10歩ほどの距離で、足音が止む。

闇の中で、月明かりに照らされた顔が次第に浮かび上がる。


女の顔は驚くほど青白く、血の気というものがまるで感じられない。

髪はまっすぐ腰まで伸びており、まるで闇そのもののように深く、黒い。月明かりさえも飲み込んでしまいそうである。

鼻が高く、彫が深い。

口は大きく横に伸びており、口角がやや上がっている。

目そのものも大きいが、瞳に対して白目の割合が広いため、常に大きく見開かれているかのように見える。

顔の小ささに対して一つ一つのパーツが大ぶりであるが、自然と均整が取れている。

見るものにどこかこの世のものとは思えないような印象を与えていた。


しかし、何よりを目を惹いたのが、その驚くべき長身であった。

離れた距離でありながら、185cmの雄一が見上げる形になっている。

2mは優に超えているであろう。


それだけではない。

女は、両腕をだらんと真下に下げたまま、その場に立っている。

その腕が、異様に長い。

腕を下げた際、平均的な長さであれば、指先は太ももの辺りに位置するはずである。

多少の個人差はあれど、そこから大きく外れることは、ほとんどない。

しかし、女の指先は、ふくらはぎのあたりにまで達している。

やや猫背気味ではあるものの、それを考慮に入れても、その長さは尋常ではなかった。

前屈みにならずとも、わずかに膝を曲げるだけで、自らの足首を掴むことができそうなほどである。


類まれなる長身と異様に長い腕が相まって、細長い印象を与える体躯である。しかし、それは単なる痩躯ではない。

服の下には、しなやかで研ぎ澄まされた筋肉がたたえられていることが見て取れる。

ただそこに立っているだけで、どこか人間離れした異質さが漂っていた。

その姿は凪のように静かで、一切の隙がない。

肉体から直接放たれているわけではないが、しかし、その肉体は夥しい殺気を秘めていた。

獣が、潜んでいる。

長年にわたって染みついた、闘いの匂いーー同じ体臭を放つ人間を、雄一は知っている。


記憶の奥底に沈んでいた感情が呼び覚まされる。瞬間、雄一は持っていたタイロープを無意識に手放していた。

タイロープは重力に従い落下し、厚いビニール製のチューブが砂を弾く。

鈍く乾いた音が、夜の静寂をわずかに乱した。

その音が引き金となり、雄一の意識は現実へと引き戻される。

この体臭と結びついた記憶は、雄一にとっては怒りを呼び起こすものであったらしい。

雄一の顔が、心なしか紅潮していた。

一連の心の機微を、女が察したかどうかはわからない。

しかし、雄一の目には、女がわずかに笑ったように見えた。


女は立ち止まったまま、雄一の目を覗き込む。

黒々とした瞳は、まるで鏡のようであり、それでいて全てを吸い込む闇のようでもある。


雄一もまた、女の目を見つめ返す。


月の光を受け、顔の造形が高低差を生み、陰影を刻む。

女の顔はキュビズムの肖像画のように、現実の形を保ちながらも、どこか現実感を欠いていた。


「さっきの相手…」

「ムサ・タガエフでしょ、UCLの。」


「…」


雄一は肯定も、否定も、露わにしない。

ただ、じっと目の前の相手を見つめている。


「果たして本物は、あんなにお粗末なタックルをするかな?」


女の口調には、どこか揶揄するような響きがあった。しかし、その声色には、ただの嘲笑以上のものがある。

面白がっているようでいて、観察するようでもある。そして、相手がどう思っているのか、心から気になっているという風でもあった。

明確にそのどれともつかない、奇妙な抑揚を帯びている。


「それを言うためだけに、わざわざ来たのか。」


雄一の口調は、ひどく落ち着いている。

束の間見えた激情は、すでに闇夜に溶けていた。


雄一の言葉を聞いた瞬間、女の唇の両端が吊り上がる。軽く上がっていた口角が、さらに鋭い角度を持つと、大きな口が裂けるように横に広がった。


「君はかわいいねえ。」


そのままわずかに首を傾げると、雄一の反応を心から楽しむかのように、目を細めた。


雄一は、憮然とした様子で女を見据えている。

一拍の静寂が、空間を満たす。


女が口を開いた。


「巷で噂の格闘家狩り…私がその犯人だとしたら?」

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