その日、僕は「ひとだんらく」でも「いちだんらく」でもどっちでもいいだろ! と思ったんだ
あんまり人の言葉の間違いをどーのこーのと言うもんじゃないよ、というお話です。
その日、生徒会の書記を務める僕、渋谷誠一は生徒会執務室に遅くまで残り、資料作成に奮闘していた。期日は迫っている。ここは頑張るしかない……のだけれど、部屋に残っているのは、僕と生徒会長の角田梅華の二人だけ。副会長をはじめ、他の生徒会役員はみんな帰ってしまった。それは仕方がない。生徒会の業務は強制じゃないし、うちの高校は自主性を重んじている。だけど、生徒会長とはいえ、女性の梅華さんがまだ頑張っているんだ。だから、僕だけでも、と……しかし、疲れたなぁ。
「梅華さん、『ひとだんらく』しませんか?」
僕は、離れた机に座ってパソコンに向き合っている生徒会長にそう声を掛けた。そのあとに「飲み物でも買ってきますよ」と、続けるつもりだったのだが、それより先に、
「渋谷くん、『ひとだんらく』じゃない、『いちだんらく』よ」
と、会長から言葉が返ってきた。
そのとき、僕は疲れていた。だから対応を間違えた。会長は「言葉」にやたらとうるさい。面倒くさい人なんだ。だから、会長の言ったことは無視して「飲み物買ってきますけど、何がいいですか?」と、続けるべきだったのだけど、
「『ひとだんらく』でも、『いちだんらく』でも、どっちでもいいじゃないですか」
と、返してしまった。
「よくないよ」
そう言った生徒会長のメガネの奥の目が僕を見つめていた。……しまった、と思ったけど、もう手遅れだ。生徒会長は紙を一枚取ってなにかを書くと、席を立って、僕の目の前に突き出した。
「これ、なんて読む?」
それには、「第一段落」と書かれていた。
「……『だいいちだんらく』です」
僕がおずおずと答えると、
「でしょ? じゃあ、どうして『ひとだんらく』なんて言うの? 『第』がついたら、なんで変わるのよ?」
ああ、完全に火が付いたな。生徒会長は「言葉」好きで、そして論争好きだ。「梅華さん論争モード」に入ってしまった。こうなると、もう、おつきあいするしかない。
「それは……『第いち段落』の『段落』と、『ひと段落』の『段落』は、別の言葉なんじゃ……」
僕がそう言うと、生徒会長は笑った。まるで、おもちゃを見つけた子供みたいに……。そして、
「違うわ。『一段落』という慣用句のもとになったのは、文章の中の一部分を指す『段落』で、『第一段落』の『段落』と同じものよ。である以上、片方を『ひとだんらく』と読むのはおかしいでしょ」
と言うと、楽しそうな顔でメガネの奥から僕を見た。その瞳が僕に言っている「もっと来て」と。ああもう、しょうがないなぁ。
「それは、『一段落』が慣用句になって、読み方が『ひと段落』に変化した、ってことなんじゃないですか? ほら、言葉って変わっていくものだって言うじゃないですか」
僕のその反論に、生徒会長の目がキラキラと光った気がした。
「なるほどね。でも、私たちは『第一段落』という言葉を日常的に使っているでしょう? それで、『ひと段落』は慣用句なので、読み方が違います――なんて言われたら困るでしょ?」
と、暑苦しく語る生徒会長に、僕は、
「ああ、はい、そうですねぇ」
と、納得したふりで答えた。本当は「どうでもいい」のだけど、そろそろこの話を終わりにして欲しかったのだ。だけど、生徒会長の話は続いた。
「『一段落』を『ひと段落』と読むことについて、『一』は訓読みで、『段落』は音読みだからダメなんだ、って意見があるけど、それ、おかしいよね。訓読みと音読みが混じっている熟語なんていくらでもあるし。私が思うに、『一』を『いち』と読むか『ひと』と読むかは、あとに続く言葉で決まると思うの。『段落』と同じように文章の中の一部分を示す『行』という言葉は、必ず『一行』でしょ? 『ひと行』なんて言わない。同じように『段落』も必ず『一段落』なんじゃないかなぁ、ってね」
……ああ、ホント、もうどうでもいいんだけどなぁ、と思いながら、僕は、
「わかりました。じゃあ『いち段落』しましょうよ。僕、飲み物買ってきますから……」
と、言ったのだけど、
「それも間違っているわよ、渋谷くん」
と、生徒会長は言った。
「え、なにがですか?」
少し驚いて、僕が言うと、
「『一段落』というのは、作業などが一定程度進んだ《状態》のことを言うのよ。だから『一段落する』とは言っても、『一段落しましょう』とは言わないわ。間違いよ」
生徒会長は責めるような口調でそう言った。
「ああ、そうなんですね。すみません」
と、僕は慌てて謝ったのだけど、生徒会長は止まらない。
「渋谷くん、あなたさっき、『ひと段落しませんか』って言ったわよね? あのとき最初は『ひと休みしませんか』って言おうと思ったんじゃない? でも『ひと休み』というのは普通過ぎるし、あまり知性を感じない。だから、なんとなく聞いたことがある似た言葉の『ひと段落』という言葉を思い出して、『ひと段落しませんか』って言ったんじゃないの? そういうのは良くないわ。自分がちゃんと理解していない言葉を軽薄に使ってしまうなんて、恥ずかしいことだわ」
僕のそばに立っている生徒会長は、イスに座っている僕を見おろしながら、そう言った。僕は座ったままで生徒会長を見上げ、言葉を返した。
「あのですね、【生徒会長】……」
僕は普段、生徒会長のことを「梅華さん」と呼んでいる。本来なら、「会長」とか「角田先輩」とか呼ばなきゃいけない気がする。それでも、「梅華さん」と呼んでいるのは、他ならぬ生徒会長自身にお願いされたからだ。「上下関係とか好きじゃないし、楽しくやりましょうよ」ということで。だけど、そのとき、僕は生徒会長の「お願い」を聞かなかった。腹が立っていたからだ。
「あのですね、生徒会長。確かに僕は、イイカッコしようとして、言葉の使い方を間違えたかもしれません。でも、だからって、そんなに言わなくてもいいじゃないですか。今は、僕と会長の二人しかいないんだし、聞き流してくれたっていいでしょう?」
僕が少しだけ強い口調でそう言うと、生徒会長は肩を落とし、
「ごめんなさい。そんなつもりは無かったの。渋谷くんは頼りになる後輩だし、生徒会の仲間だし、大切な人だもの。ちゃんとした言葉づかいをして欲しかったの……」
そう言った。でもなぁ、それ嘘ですよね。生徒会長は自分の言葉の知識を他人に披露せずにはいられない、そういう人なんだ。僕は身に染みてわかっている。だけど……たとえ嘘でも『大切な人』って言われちゃったらなぁ。
「わかりました。これからは、気をつけますよ。でも、梅華さんも疲れているでしょう? やっぱり、ひと休みしましょうよ。なにか飲み物買ってきますから」
僕がそう言うと、生徒会長はスッと背を伸ばし、
「そうね……気を使ってくれて、ありがとう。少し休んで、また頑張りましょう。私は飲み物はいいからね」
そう言って、自分の席に戻った。僕はその横顔を見ていた。
生徒会長は3年生、僕は2年生。でも、生徒会長は2月生まれで、遅生まれの僕と生まれた年は同じだ。だけど、生徒会長はいつもキリリとした表情で、スッと僕たちの前に立ち、ハキハキとした言葉で生徒会を引っ張っている。僕なんかよりずうっと年上に見える。だけど……
生徒会長は、メガネをはずして机に置くと、イスの背もたれに身を任せて、ひと休みするために目を閉じた。とたんに表情がふにゃんとゆるんで、まるで子供のようになる。
僕は、飲み物を買いに行くことなど忘れて、その顔を見ていた。
ああ、ずっとその顔のままで、僕の隣にいてくれたら、どんなに素敵だろう。離れた席に座る梅華さんを見ながらそう思った……でも、それは無理な願いなんだよなぁ。
「ひと段落」って言ったって、別にいいんじゃないですか~(笑)
私も、面と向かって間違いを指摘したりしませんし、笑うときも声は出しませんので、どうぞご自由に。