こんな意地悪な殿下でも誰かに差し上げるわけにはいきません
目の前にはニコニコとほほ笑むアルクフレッド殿下。普段ほかの人に見せる控えめな笑みとは全く違うその笑顔が、うらやましいと言われたことは数知れず。でも皆さんこの殿下の本性を知らないだけなの。
「ほら、食べてよ。
君が来るから用意したバーリエンドのマドレーヌだよ」
その殿下は今、手に取ったマドレーヌを私に差し出している。見た目はとてもおいしそうなマドレーヌ。バターのいい香りがここまで香ってきている。でも……!
「いいえ、結構ですわ」
にっこりと、こちらはご令嬢のお手本のような笑みを浮かべる。アルクフレッド殿下からのものは口に入れないことが一番だとここ数年で学んだのだ。本当にろくなことがなかったわ、今まで……! この国で食べられる苦いものも辛いものもすっぱいものも、たいていのものは口に入れたのではないかしら? このままだと国外のものまで手を出しそうで、本当に嫌よね。
「ええ、本当に?
ふーん……」
残念そうにそう言うと、マドレーヌをお皿に戻す。口にしなかったということは、つまり。ああ、よかったわ。口にしなくて。
安心して手元の紅茶に口をつける。今日の紅茶はすべてカナに用意してもらったから安心して口を付けられるわ。全く、この殿下を完璧な王太子と言ったのは誰なのかしら。これを息抜きにして普段頑張っているのかもしれないけれど、息抜きに使われる方としてはいい迷惑だわ。
「殿下、そろそろお時間です」
会話もうまく続かないまま、侍従の一言で殿下のお茶会は終わりを告げた。じゃあ、またね、と去っていくアルクフレッド殿下の後ろ姿を見送りながら、私は一つため息をついた。どうしてこう、うまくいかないのかしら。昔はもっとうまく話せていた気がする。そう、間にカルラを挟んで。
こんな関係で本当にうまくやっていけるのかしら、なんて。そんなこと考えても仕方がないのに。私たちは未来の王と王妃。この国を支えることができればそれでいいのに、それ以上を求めるのはきっと苦しいし、間違っている。
「リンジベルア様、お屋敷に戻りましょう」
「カナ……。
ええ、戻りましょうか」
いたわるようなカナの声かけに振り返る。あら、これはいけないわ。カナに心配をかけてしまった。切り替えないと。
「ねえ、お屋敷に戻ったらマイクにマドレーヌを用意するように言ってくれないかしら?」
「あら……。
わかりました。
今日も何か?」
くすくすとカナが笑う。もう、なにも面白いことはないのに。むすっとしていると、それだけで伝わったのだろう。わかりました、と私を立たせてくれる。ああ、早く屋敷に帰ろう。帰って、マドレーヌを食べて、そして好きなものに囲まれて、お布団にくるまりましょう。
***
リンジベルア・チェックシラ。それが私の名前。国の筆頭貴族であるチェックシラ公爵家の長女として生まれた私は、生まれたときから背負うべき責というものがあった。この婚約はその一つ。婚約者は我が国、ダイアルド王国の第一王子、王太子であるアルクフレッド・ダイアルド殿下。その方の婚約者の立ち位置というのは、国中の令嬢がうらやましいと口にするものだと理解はしている。しているけれど。
殿下とは幼いころから一緒に過ごしてきた。だからこそ、いろんな顔を知っているのよ! 正直殿下との婚約なんてまっぴらごめんだったのよ! あんなわがまま王子、しかも人の食事に何を紛れ込ませるかもわからない、いたずら好きの王子の相手をしなくてはいけないなんて。どうして誰も止めないのよ……。
それだけではないわ、婚約当初殿下に差し上げたくて丁寧に作った花冠は奪うようにとってあっという間に壊すし、殿下に追いつくために走って転んだ私を見て大きく笑うし。
確かにあの方は見目もいいし、身分も高い。でも、でも! 私にとって殿下の短所というのは長所を上回っているのよ。それなのに、そんな面を殿下は決してほかの方に見せないから、私が何を言ってもほほえましそうに見られるって、どういうこと⁉ 完璧な貴公子もあなたにはそんな面を見せるのね、って、いえいえいえ、反応おかしくありませんか?
「お嬢様、ぬいぐるみがつぶれております」
「あ、あら……」
いけないわ。いくら不満がたまっているとはいえ、この子に当たるのは良くないわね。ごめんなさい、と言ってぬいぐるみをそっと元の場所に戻す。はぁ、殿下も私が気に入らないのならばさっさと婚約を破棄してくださればいいのに。そうすれば……。
「マドレーヌが焼きあがりましたよ」
「!
ありがとう」
マイクの菓子、カナの紅茶。最高。おいしい。
「マイクにもお礼を言っておいてくれないかしら?
急に頼んでしまって申し訳なかったわね」
「あら、お嬢様が殿下とのお茶会の後にお菓子を頼むのはいつものことですから。
マイクも笑って請け負っておりましたよ」
「そ、そう……。
今度お父様にもお礼を言わなくてはね」
「ふふ、お礼を言うのは旦那様だけですか?」
「いいのよ、お父様だけで」
軽口をたたいていると、あっという間にマドレーヌを食べ終えてしまう。名店と名高いバーリエンドの菓子よりも、きっとマイクの作るものの方がおいしいわ。最初は菓子職人? と思っていたけれど、マイクがつくるものは焼き菓子も生菓子もおいしくて、すぐに気に入ってしまったもの。
「さあ、お休みされたら次はお茶会の招待状の確認を」
「もう、カナは容赦ないわね」
有能な侍女なのは嬉しいのだけれど、もう少し私を甘やかしてくれてもいいのよ?
***
「リンジベルア様!
本日はお越しいただき、ありがとうございます」
「こちらこそ、招待ありがとう」
「今度の王城での夜会ではリンジベルア様はアルクフレッド殿下と共に参加されるとお聞きしましたわ」
「ええ、その予定よ。
あの夜会は特別、ですもの」
「あ、そう、ですよね。
その、カルシベラ殿下も参加されると聞きました!」
「そう聞いているわ」
「まあ、珍しい!
でも、そうですよね。
主役のおひとりたるカルシベラ殿下は参加されませんと」
緩く微笑む令嬢に、そうね、と笑顔を返す。その令嬢との話が聞こえていたのだろう。周りにいた令嬢も会話へと加わってきた。
「カルシベラ殿下にお会いできるなんて光栄ですわ。
お噂はいろいろと耳に入ってきますもの」
「きっと今度も大活躍されますよね!
ああ、ずっとお見掛けしていませんでしたから、どのように成長なされているのか楽しみです」
「リンジベルア様は最近お会いしましたか?」
「王城ですれ違ったくらいかしら?」
「まあ、うらやましい!
リンジベルア様はカルシベラ殿下とも昔馴染みですものね。
きっとカルシベラ殿下もリンジベルア様にしかお見せにならない表情があるのよね」
「さすが、リンジベルア様だわ!」
話が妙な方向に行っていません? カルラが私と昔馴染みなのは確か。アルクフレッド殿下の2歳年下であるカルラは、私と年が近くて幼い時はアルクフレッド殿下よりも一緒にいた。それこそ、愛称で呼び合うくらい。でも、だからって私にしか見せない表情って何かしら。それにカルラとはアルクフレッド殿下と婚約したあたりから少し疎遠になっている。それは仕方のないことだけれど、なんだか気に入らないのよね。
ばさり、と手に持っている扇を広げる。変な表情をしているところを見られるわけにはいきませんもの。本当にこれは便利な品よね。正直、カルラについて聞かれるのは面倒なのよ。下手なことを言ってはいけないし。
それに令嬢たちの本当の目的は私でもアルクフレッド殿下でもなく、カルラ。彼の婚約者に収まりたいと、ぎらぎらと目を輝かす彼女らは対応にちょっと戸惑う。カルラも早く婚約者を決めればいいのに。候補はいくつも上がるのに、一向に決まらない。本人が拒否する。なぜ?
ただ奥ゆかしさも大切とされる令嬢。これ以上直接は聞いてこず、何とか私から情報を集めようとこちらをちらちらを見てくる。なんて迷惑な。これは今度の夜会で会ったときに文句を言ってやらねば。
そんなことは顔には一切出さず、お茶会をそつなくこなす。たまに私がアルクフレッド殿下にふさわしくないと言ったことをそれとなく伝えてくる令嬢もいる。それならば、あなたが私よりもふさわしいことを証明して、そしてアルクフレッド殿下の婚約者になってくれればいいのに。そうしたら……。
***
くるりと鏡の前で一周してみる。うん完璧。想像以上だわ。憂鬱だった気分が少しだけ上昇してくれる。悔しいけれど、こういうセンスは本当に素晴らしいし、悪ふざけは一切してこない。
「まあ、とても素敵ですわ!」
「ありがとう。
カナのおかげよ」
「いいえ、そんな。
私は少しお手伝いしただけですもの。
一番は……」
「このドレスとアクセサリーだと言いたいの?」
「わかってらっしゃるではありませんか。
お会いしたらお礼を伝えてくださいね」
「わかっているわよ」
でも、私のお礼なんてあの人には必要なのかしら? それしても、本当に素敵なドレスよね。殿下の色を取り入れつつ、私の髪色や瞳の色に反発しないように配置されている。今回の夜会の目的に沿ってレースも控えめ。それに合わせたメイクの影響もあって、今日の私はかなり大人っぽい仕上がりになっている。
「やっぱり、カナのおかげよ」
「あら、それは光栄ですね」
くすくすとカナが笑う。素直になれない私のことも全部理解してしまっているから、なんだか居心地が悪いわ。そうこうしているうちにお兄様が私を迎えに来た。王城に着いたら殿下にエスコートしてもらうから、とそこまではお兄様がエスコートしてくれるそう。……、その役割必要?
「今日は一段と素敵だな」
「ふふ、ありがとう。
お兄様もそんなことが言えたのね」
「お前、俺のこと馬鹿にしているだろ?
社交界で一番人気と言っても過言ではないこの兄のことを!」
「あら、馬鹿になんて。
って、なんと仰いました?」
「だから、俺のことをバカにしているのか、と」
「そっちではありません。
はぁ、もういいです」
ため息をついてお兄様の方を見ると、嬉しそうに笑っていらした。これは、やられたわ。確かに今日の夜会はことさら緊張していた。この夜会が終わったら……、アルクフレッド殿下とカルラは戦へと行ってしまうのだから。
その緊張をほぐそうといつも以上に軽口をたたいていらしたのね。
「さあ、王城へ着くぞ。
ここからは気合を入れろ」
「はい、分かっております」
「よし」
お兄様にエスコートされて降りた先には殿下の侍従が待っていた。そのままアルクフレッド殿下のもとへと案内される。本当はついてきてもらいたかったけれど、お兄様にも用事というものがある。一つ深呼吸して、私は殿下のもとへと案内してもらった。
***
夜会では国王夫妻に続いて王太子であるアルクフレッド殿下がダンスをする。婚約者である私と。周りの視線はもちろんこちらに集まる。だから、この時間は本当に嫌いなのだ。いつも失敗したらどうしよう、と頭の中がぐちゃぐちゃになる。それでも体が勝手に動いてくれるくらい、練習を重ねはしているけれど。
「緊張する必要なんてないよ。
いつも通りの私たちで」
「いつも通りの……?」
それじゃあだめじゃない。いつもどこかぎこちなくて、距離がある。そんな私たちじゃ。その時、ぎゅっと抱きしめられる。え、今何が? こんな動きないわよね⁉ きっ、と見上げるも、殿下は嬉しそうにほほ笑んでいるだけ。その顔は、ずるいわ。
何とか動揺を悟らせないように最後まで笑顔で踊りきる。文句を言いたかったけれど、ほかの参加者がダンスに入るために近くに来たから、結局何も言えないまま。3回連続で踊ると、何とか解放された。
さすがに疲れたわ。少し休みたい。アルクフレッド殿下から離れて、テラスへと足を踏み入れる。夜の風がひんやりとして、ほてってしまった頬に心地よい。そのままぼんやりと照らされた夜の庭を見ていると、後ろから声をかけられた。この声は……。
「カル、シベラ殿下。
お久しぶりですね」
「うん、久しぶり。
元気だったか?」
「元気でしたよ。
そう、お会いしたら文句を言おうと思っていたのです」
「文句?」
「ええ。
あなたが婚約者を早く作らないから、いらぬ心労が増えております」
「……婚約者をつくれと、君が言うの?」
「え、あの、何か?」
「ううん。
君の心労は、ほとんど兄上のせいではないのか?」
「いいえ、違います」
どこか様子がおかしい気がしたけれど、こうして話してみればあのままのカルラだ。やっぱりどこか距離感を測りかねていて少しぎこちない。それでも本当の意味で、久しぶりに会えた。そんな気がした。カルラは、どうして人前に、私の前に、出てこなくなったのだろう。
「あなたのせいで、お茶会でとても疲れるのですが。
そろそろどうにかして!」
周りに人がいないことを確認したうえで、近づいて小声で文句を言う。これが他の人に聞かれたらまずいもの。
「ちょっと、わかった。
わかったから。
離れて……」
「あら、ごめんなさい」
……カルラも会場の熱気に当てられたのかしら? 顔が赤くなっているわ。飲み物でも取ってきてあげた方がいいかしら?
「ねえ、リーア」
ぽつり、とカルラがつぶやく。リーアなんて、そう呼ばれたのはいつ振りかしら。注意することも忘れて、なに、と普通に返してしまった。
「踊ってよ、一緒に。
今日ならいいでしょう?
一曲だけなら。
これから戦争に行く餞別としてでもいいから」
そう言ったカルラの笑みが、なんだか笑おうとして失敗したみたいで。今にも泣きだしそうで。どうしてこんな笑みを見せるのかわからない。けれど、そんな顔、してほしいわけじゃない。つい手を取っていた。
「もちろんよ。
一曲だけ……、一曲だけなら。
……行きましょうか、カルラ」
「っ、ありがとう」
会場の中に戻る。そのまま、人に紛れてカルラと踊った。『戦争』。意識したくなかった。ただただ夜会の華やか空気だけ感じて、酔っていたかった。意識したくなかった。ねえ、カルラ。私たち幼いころは何度も踊ったわよね。お互い練習し始めだったから、へたくそで。カルラの足だって何度も踏んだ。
初めて夜会で踊ったそれは、久しぶりとは思えないほどに息ぴったりで。私たち、いつの間にかこんなにもダンスがうまくなっていたのね。それ程時間が流れていたのね。
「うん、これで頑張れる。
ありがとう」
「もどって、来てくださいね、無事に」
「もちろん!」
「信じております」
最後にようやく笑ったカルラに、ほっとする。きっと無事に帰ってくる。カルラも、アルクフレッド殿下も。どうして、王の子が2人も戦場に向かわねばならぬのか。それは景気づけという面が強かった。負けるはずのない戦い。それでも王子自らが最前線に立ったという事実によって市民の支持を得、今後の治世を盤石にすることが目的だった。
どうして、そんなことのために。それは決して私が口にしてはいけない言葉だとわかっている。だから、口にしない。でも、でも。安全なところにいてほしいと望むのは当たり前よね。
一曲はあっという間で。カルラはあっさりと離れていった。そのあとはいつも通り令嬢たちとの歓談を楽しんだ。話題は尽きず楽しいはずなのに、どうしてか身に入らなかった。
***
夜会の後、盛大な見送りを経て殿下たちはそれぞれの戦場へと旅立っていった。あの日の不安そうな表情などかけらもない。堂々としていて、まさに軍の大将といった顔つき。それが寂しいと思うのはきっとだめよね。その旅たちを見送った日から早くも数か月経過していた。
無事に帰ってきたら。そうしたら、きっと。
王都は国が戦争をしているとは思えないくらい平和で、穏やか。だから、今まさに殿下方が戦っているなんてとても信じがたい。それでも今この瞬間も命を懸けて戦っている。毎日、神に祈った。どうか二人とも無事に帰ってきてくれるように、と。
「わが妹殿は、どうやら心配で食事ものどが通らないと?」
今日は暖かいから、とカナが庭園に用意してくれたティーセットを前にぼんやりとしていると、急に後ろから声がかかった。後ろを振り返るとそこには思った通りお兄様がいた。
「お兄様。
いつの間にこちらに?」
「さっきだよ。
全く、殿下方がいないから仕事が終わらない、終わらない。
ようやく家に帰ってこられたけれど、またすぐに戻らないと」
「倒れてしまいそうです。
顔色も悪いですし」
「君にそれを言われても。
どんなに心配でもしっかりと食べないと」
「わかってはいるのですが」
「そう。
そんなリーアに元気になるような情報を上げようか?」
「え、なんですか?」
お兄様がニヤニヤとしていると嫌な予感しかしない。少し体を引かせてから、恐る恐る聞いてみる。
「聞きたくないのなら、いいんだよ?」
「ううう……、聞きたい、です」
こんな言われ方したら聞きたくなるに決まっている。もう、本当にお兄様は意地悪。どうして私の周りの人はこうも私を使って息抜きをしたがるのかしら。
「はは、ごめん。
からかいすぎたね。
……、カルシベラ殿下が帰ってくる」
「……え?
本当、に?」
「ああ、もちろん!
アルクフレッド殿下もじきに帰還するよ」
「っ!!」
思わず立ち上がってお兄様に抱き着く。ぎゅっと抱きしめると、そっと背に手を当ててくれて。それがとても暖かい。よかった、本当に良かった。
「よかったな」
「はい!」
「ほら、落ち着いて。
しっかり食べて、元のお前で殿下方を迎えてやりなさい」
「はい……」
いくら勝ち戦と言われていたとしても、戦場では何が起きるかわからない。だからこそ、確かな報告に心が躍る。ああ、神様。ありがとうございます。
お兄様は本当にお忙しい様で、その報告の後にすぐ屋敷を出ていった。お父様ももうしばらく帰られていない。これは王城はすごいことになっていそうね。奔走する人たちが帰還の知らせにいろんな意味で喜んでいるところを想像して、思わず笑みがこぼれる。ああ、早く帰ってきてほしい。
***
予定通り、先に帰還したのはカルラだった。その途中ではアルクフレッド殿下も帰還する報告が入っていて、国はもうお祭り騒ぎだった。ずっと気持ちが落ち込んでいたけれど、国中の空気に私自身の気持ちも浮上していた。
「ねえ、カナ。
このドレスで大丈夫かしら?」
「ええ、とてもお似合いですよ」
「そ、そう?」
「さあ、そろそろ向かいませんと」
「う、うん」
今日はカルラに会いに久しぶりに王城に行く日だった。どうしてこんなにそわそわしているのか。きっと無事に帰ってきてくれたことがとても嬉しいのだ。
馬車に乗り込み、カルラがいるという部屋に向かう。帰ってきたカルラは健康そのもので、すでに公務を再開しているらしい。王城に帰還した後の城内の雑然とした様子に、これはまずいとすぐ行動したらしい。これはお兄様から聞いた話。体は大丈夫なのか心配だったけれど、すぐに公務をできるくらい元気なのだと思うとほっとする。
そんな今日王城に向かっているのは、すぐに働こうとするカルラを止めてほしいというお兄様からのお願いでもあった。私が行くとカルラが手を止める、その関係性はよくわからないけれど、まあいいでしょう。
「こちらでお待ちください」
「ありがとうございます」
案内してくれた侍従に礼を言って、ソファーに座る。今もあの人は働いている、と。本当に……。
ノックの音が聞こえてパッと席から立つ。来た!
「ど、どうぞ」
そっと扉を開けて入ってきたのは、カルラ。その姿は最後に見かけた時よりも痩せていて。でも、確かに健康そうだった。
「お、お帰りなさい、カルシベラ殿下」
「あ、ただいま、リンジベルア嬢」
ちょっと気まずい。だけど、気を使ってくれたのか、最低限の人を残して退室してくれる。この人たちなら、素で話しても大丈夫。
「本当によかったわ!
よく、無事に戻ってきてくれたわね」
「わ、ちょっと!
それはさすがに!」
「え、あ、ごめんなさい。
本当にうれしくて。
お帰りなさい!!」
「うん、ただいま。
そんなに喜んでくれるなんて思わなかった」
「喜ぶわよ!
ねえ、ちゃんと休んでいる?
疲れが顔に出ているわよ」
「え、そうかな……。
休んでいるつもりではあるけれど」
「足りないわ」
えぇ、と声が返ってくる。ああ、なんだか昔に戻ったみたいだ。昔はこんな風にぽんぽんと会話をしていた。そんな会話が戻ってきたのも嬉しくて、ついついテンションが上がってしまう。カルラも最近は見せてくれなかった心からの笑みを浮かべている。はしゃぎすぎて、ついにはカナに怒られてしまったわ。
「お兄様も心配していらしたわ。
カルラが休んでくれないって」
「はぁ、告げ口はそこからか」
「告げ口って言わないの。
……なんだか昔に戻ったみたいね。
カルラってば、私のことを避けるんだもの」
「それは……」
そう言って、カルラがまっすぐに私の方を見る。言葉はない。それでも揺れる瞳が、何かを切実に訴えかけてきているようで。カルラが口を開こうとしたその時。ノックの音が部屋に響いた。
「アルクフレッド殿下が、帰還されました!」
「え!」
もう少しかかるだろうと言われていたのに、もう帰還されたのね! 会いに行ってもいいのかしら。殿下が無事に帰還されたら言おうと思っていたことがあるから。
「お会いになりますか?」
「いいのですか?」
「もちろんです!
リンジベルア嬢はアルクフレッド殿下の婚約者ですから」
報告に来てくれた侍従が朗らかにそう返す。そう、よね。婚約者、だものね。
「カルラ」
会いに行ってもいい? と言おうとして、カルラの方を振り向くと、そこには先ほどまでの笑みはなかった。真剣にこちらを見ていた瞳は、今は苦し気にゆがんでいる。でもそれも一瞬で。すぐに仮面のような笑みを浮かべた。
「もちろん。
行っておいで」
「あ、ありがとう」
どうしてそんな表情をするのか、気になったけれど聞いてはいけないような気がして。私はそのままアルクフレッド殿下のもとへと向かった。
***
アルクフレッド殿下は帰還したばかりとはいえ、王への報告を終えて着替え終わっていた。報告に来てくれた侍従もそのくらいのタイミングになるように見計らってくれていたそう。さすが、優秀だわ。
「アルクフレッド殿下!」
「り、リーア⁉
どうしてここに」
「カルシベラ殿下にお会いするために王城に来ていたのです。
そうしたら、アルクフレッド殿下が帰還されたと報告を受けまして」
「そう、だったんだ。
ただいま」
「お帰りなさいませ。
無事に帰還されたようで何よりです」
本当に、よかった。もしこのまま戻られなかったら。何度そう考えたことか。そうして不安にさらされることで、自分の中の否定していた感情に向き合いざるを得なかった。実際にアルクフレッド殿下の顔を見ると、その感情が一気に高まってきて。だから、他に人がいることなんて気にする余裕はなかったのよ。
「アルクフレッド殿下……、私殿下のことが好きです。
婚約者とか幼馴染とか、そんなの関係ないんです。
殿下の帰還を待つ間、ずっと無事に帰ってきてくださるように祈っておりました。
その時に思い浮かんだのは、意地悪な殿下だけじゃなくて、不器用だけれど、そっと寄り添ってくださる姿でした。
私、ずっと不安だったのです。
殿下と共に夫婦としてやっていけるのか。
殿下が私のことをどう思ってらっしゃるのか。
でも、関係ありません。
私は殿下のことが好きですし、お支えしたいと、そう望んでおります。
これがたとえ一方向の想いだったとしても、かまわないのです」
殿下を待つ間に何度も考えていたこと。想いを相手にも求めようとするから苦しいのだ。だったら、求めなければいい。傍にいられないことに比べたら、一方向の想いを持っている方がいい。
「独りよがりの想いで申し訳ありません。
でも……。
殿下を、きっと幸せにしますから」
ぎゅっと手を握って、想いを込めてそう言う。見つめた先の殿下の顔はなぜかどんどん真っ赤に染まっていく。
「殿下……?」
「ど、どうしたんだ、急に……。
わ、私も、私もリーアのことが好き、だ。
だから、そんなこと不安に思う必要はないのだが。
というか、私の方こそ、不安だったぞ。
君は私となかなか目を合わせようともしないから。
だが、これは私も悪いな。
どうも思ったことを素直に口に出すのが、苦手でな、その……」
殿下が、照れてらっしゃる。こんな姿初めて見た。ああ、なんだ。殿下もきっと不安だったのだ。それがお互いの距離を生み出していて。その結果、さらに相手の気持ちがわからなくて不安になる。そんな負の連鎖がいつの間にか陥っていたのだ。
「……、え、あのような意地悪をしておいて、ですか?」
「それは、その。
つい君の反応が楽しくてだな……。
反省は、する」
「ええ、大いに反省してくださいませ」
これだけは譲れない。しっかりとそうくぎを刺すと、うなずいて下さる。
「幸せに、するから、君のこと。
だからどうか、共にいてくれ」
「っ、はい。
でも、殿下自身もどうか幸せになってください」
「もちろん。
君が傍に居てくれるなら、きっと」
そう言って抱きしめられる。ああ、なんて……。今日ばかりは顔が緩むのを許してほしい。カナの視線は怖いけれど。カナの、視線……? 待って、今は一体どういう状況、だった、かしら……?
「きゃ、キャー――――!」
「え、わ、どうした⁉」
「わ、私ったら、私ったら!
申し訳ございません、殿下!
こんな、人の目があるところで」
「人の、め……?」
私の言葉に殿下が周りを見渡す。ようやく状況が理解できたようだ。ガバリと顔を覆ってうずくまってしまわれた。こ、これは私が悪いわよね。
「み、皆さま!
どうかご自分のお仕事に戻ってください。
お騒がせして申し訳ございません」
何とかそう言うと、近くにいた人は生暖かい笑みを浮かべて一人、また一人と場を離れてくれる。い、いたたまれないわ。殿下はまだ復活されていないようですし。帰還早々申し訳ないことをしたわね。
「リンジベルアお嬢様」
「か、カナ……」
何を言われても文句は言えないわ! ぎゅっと目をつむって備えていると、予想外にそっと肩に手を置かれた。恐る恐る目を開けてみると、そこにはいつになく優しい笑みを浮かべたカナがいた。
「よかったですね、お嬢様。
今までで一番幸せそうな笑みを浮かべてらっしゃいましたよ」
「カナ……」
「私は誰よりも、お嬢様の幸せを応援しております」
それだけ言うと、カナもまた離れていく。その言葉にうっかりと泣きそうになったけれど、何とかそれを我慢する。本当に私の侍女ってば。
周りをもう一度見渡してみると、そこにはいつの間にかカルラがいた。あれをカルラにも聞かれていたってこと⁉
「カル、シベラ殿下!」
口止めをしないと、と声をかけてようやく気がついた。カルラは先ほどからこちらを見て全く動いていない。
「カルラ……?」
もう一度声をかける。その顔はだんだんとゆがんでいく。ああ、まただ。またこんな表情をさせてしまった。そのままカルラは去っていった。その背を追いかけることは、もうできなかった。
***
カルラが遺体で見つかったのはそれからしばらく経ったころだった。神殿でカルラは、眠るように亡くなっていたという。どうして亡くなったのか。傷ひとつなく、苦しそうな顔もしていないその遺体からは誰もわからなかった。