その1
ゴールデンウィーク最終日の午後、約束の時間ぴったりにチャイムが鳴る。
鯨井千晃が玄関のドアをあけると、喜多見駒がぴょこんと顔をだした。いつか「完璧にセットするには結構時間がかかるんだよ」と言っていた薄い前髪が束になって、額にはりついている。
「走ってきたんだ」
「うん。もう待ちきれなくて」
前髪を丹念に直しながら、駒は唇をとがらせる。
「千晃ちゃんは、わくわくしないの?」
「してるよ、もちろん」
あわててうなずく千晃の前に、駒はまわりこんだ。身長がほぼ同じ──ひょっとすると千晃のほうが1、2センチ低いくらい──なので、目線は同じだ。こんがり焼けた駒の顔が目の前に迫る。鼻の周りにうっすら散らばったそばかすを数えられるほどの距離だ。茶色がかったつぶらな瞳に、小柄な少年が映っている。
幼いし弱そうだと、千晃は他人事のように思う。実際、中3になった今でもよく小学生と間違われた。
駒から無防備に距離を詰められるたび、僕がもう少し日に焼けて、背があと20センチ高く、体重があと20キロ重くなったら、2人の関係は変わっちゃうのかなと、千晃は考える。悲しいような怖いような腹立たしいような、複雑な気持ちになる。
「僕も今日が楽しみだったよ」
千晃は懸命に主張した。
駒はえくぼを作って身を引き、だよねと笑う。肩にかけたムーミンのトートバッグをひらき、黒いうちわを取りだした。
片面にはピンク色の文字で『紋人』と名前が綴られ、その裏面には黄色の文字で『大好き』とあった。
「作ってきちゃった」
「本格的だね」
「アイドルはね、どんなところからだってファンの愛を受け取れるんだよ」
駒は大真面目な顔でそう言って、黒いうちわをもう一本出す。
さっきのとは文字が違う。片面は『トリニティ』、もう片面は『ありがとう』だった。
「これは、箱推しの千晃ちゃん用」
わあ! と歓声をあげてうちわを振る千晃を、駒は満足げに見ていたが、ふと首を伸ばして廊下の先をうかがう。
「今日、百音ちゃんは?」
「いるよ」
千晃が先に立って、リビングの扉をひらく。テレビ台の前でDVDの動作確認をしていた姉の百音が「駒ちゃん、いらっしゃい」と手を振った。
「百音ちゃん、トリニティのDVD買ってくれてありがとう。鑑賞のお相伴に預かります」
「はいはーい。てか、一人で観てもつまんないしね」
百音は笑って言うと、千晃に視線を移し、カーテンを指さす。
「こっちは準備オーケーだから、しめて」
千晃は素直に従い、リビングの大きな引違い窓のカーテンを引いた。遮光性のあるカーテンのため、五月の陽光が降り注いでいた部屋がたちまち真っ暗になる。
「はいこれ、ペンライト。ピンクに発光するほうを駒ちゃんにあげて。紋人のメンバーカラーだから」
闇のなかで、百音から手渡される。
千晃はスイッチを探して発光させ、ピンクの光を灯したペンライトを駒に渡した。自分の手元に残ったほうを点けてみると、ブルーの光が灯る。
「ブルーの担当は、トリニティにはいないか。ちなみに、フラワーボーイだと笙也のメンバーカラーです」
聞いてもいない情報がもたらされた。へえと流した千晃の横で、駒が反応する。
「百音ちゃん、フラワーボーイ担になったの?」
「まあね。ハイヤーズのなかで今一番フレッシュやん、あの子ら。大事に愛でていきたい所存です。あ、ちなみに駒ちゃんのペンライトは、MUSYA士のアラン担時代にコンサートで買ったやつ」
「ああ、そっか。アランもピンクだ」
ふふっと笑い合う二人の横で、千晃はペンライトを点けたり消したりしてみる。
ハイヤーズとは、何十年も前から日本の芸能史に名前を刻んできた大手芸能事務所スカイハイの所属タレントを指す俗称だ。
駒と千晃が小学生の頃からファンクラブに入っているトリニティも、トリニティ、MUSYA士、その他いくつかのグループを気まぐれに渡り歩いてきた百音が今ハマっているフラワーボーイもみんな、ハイヤーズだった。
「じゃ、いくよ。トリニティコンサートツアー『ラブシャワー・ミュージック』いざ開幕っ」
百音は高らかに叫ぶと、DVDの再生ボタンを押した。
42インチのテレビ画面に、若い男性4人が映りこむ。ああ、トリニティだと、千晃は圧倒された。DVDのなかの歓声の大きさが、ファンの多さと熱狂の濃さを証明している。
駒はといえば、隣の暗がりでうちわを抱きしめ、呆然としていた。感動が極まると、声が出なくなるタイプなのだ。
ワイヤーに吊られ、華麗なフライング演出でステージに降り立った四人は、いきなりヒットソングを歌いだした。歓声がさらに高くなる。
駒もようやく甲高い声で「紋人ッ」と叫び、ピンクのペンライトを高々と突きあげた。
メンバー最年少の紋人がソロを取ると、駒はうちわを胸の前に突き出し、ゆっくり裏返す。『紋人、大好き』。
DVDの映像に向かって茶の間から送られたこの愛も、アイドルの紋人は受け取れるのだろう。少なくとも、駒はそう信じている。どうか受け取ってあげてと、千晃は祈る。
トリニティの面々は何度か衣装を替えて、華麗に歌い、踊りつづけた。曲と曲のあいだは、十年いっしょにやってきているメンバー達の、あうんの呼吸がうかがえる軽妙なトークでつなぎ、メンバー各自が特技を披露する時間までとってある。
「ハイヤーズのコンサートはホスピタリティの塊だよねえ」
テレビの前に立ちっぱなしでペンライトを振り回す千晃と駒から離れ、ダイニングテーブルの椅子に座って静かに鑑賞していた百音が、感に堪えない声をあげた。
──ホスピタリティ。お客様へのおもてなしってことか。
駒にあわせてブルーのペンライトを掲げながら、千晃は考える。このあいだ中学でひらかれた講演会で知ったばかりの言葉だ。卒業生だという、テーマパークの社長が話していた。
──ホスピタリティは時代、季節、土地柄、集まる人々などの条件によって、たえず微調整が必要になります。あなたがもしそれを面倒と思わず、むしろやり甲斐を感じられるなら、それは一つの才能だと誇ってください。
駒のアイドル、紋人の表情はくるくる変わった。テレビ番組でもコンサートでも、いわゆるアイドルスマイルを鉄仮面のように常に貼りつけているタイプではない。そんな彼の限られた笑顔だからこそ、ファンは喜び、尊んだ。
これもまた今の時代のホスピタリティなのかなあ、とぼんやり考えているうちに曲が終わり、千晃はペンライトを消すタイミングを逸してしまう。すぐに駒からたしなめられた。
「これが〈本番〉だったら、周りからめっちゃ白い目で見られてるところだよ」
「ごめん。気をつけます」
「しっかりね」
駒の口調に気合いがこもっている。ハイヤーズのなかでもコンサート頻度がダントツに低いトリニティは、毎回コンサートチケットがプレミアと化す。千晃と駒もファンクラブに入った小四から、同行者に互いを設定して毎回応募しつづけているが、当選のお知らせはついぞ来たことがなかった。
それがこの春、ついに当たったのだ。
厳密には千晃が申し込んだ分だけが当選し、同行者として駒も行けることになった。
以来、駒はコンサート当日を〈本番〉とし、千晃の家で過去のコンサートDVDを観ながら、ステージ鑑賞の稽古に余念がない。千晃も当然、すべての稽古に付き合わされていた。
銀テープがきらきら舞うステージで、紋人がアンコール曲のラブバラードでソロを取っている。その横顔のアップを食い入るように見つめながら、駒が言った。
「千晃ちゃんも、ハイヤーズになってよ。わたし、推すよ。デビュー前から推したげる」
「そうだ。ハイヤーズになっちゃえ。そしたらもれなく千晃のアイドル、トリニティの後輩だぞ。千晃はウチらと違って、男だもん。彼らとあそこに立つ権利を持ってるんだよ」
百音も同調し、テレビに映った広いステージを指さした。
百音と駒は昔からこんなふうに、芸能事務所スカイハイが不定期で開催するオーディションに参加してみろと、たびたび千晃をけしかける。男だから、という理由だけで。
千晃はこれまでと同じく、笑って流しておいた。
「無理、無理」
──それに僕、本当はトリニティのファンでもない。
お読みいただき、ありがとうございました。
コメントや評価をいただけると、つづきを書く励みになります。
よろしくお願い致します。