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さくら  作者: ゆきほ
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前編

 研修医の朝は早い。

 それがNICU(新生児集中治療室)勤務であるならなおさら。

 朝8時のミルクを赤ちゃんが飲む前に必要な診察と採血が終わるかどうかで、その日の仕事の流れが違ってしまうのだ。だから、いつも私は7時半には出勤することにしている。


 丁寧に朝一番の手洗いをした後、まだ深夜帯のため閑散としたNICUへ入る。

 手前にはコット(赤ちゃん用の小さなベッド)の退院間近の赤ちゃんが、既にミルクを欲しがって元気に泣いていた。

 最初は同じように聞こえていた赤ちゃんの声も、最近ではだいぶ聞き分けられるようになった。

 コットの列を抜けたその奥には、整然と並べられたクベース(保育器)がある。

 ピッ、ピッ、という微妙にリズムの違う心拍モニターの音。

 規則的に静かな音をたてるレスピレーター(人工呼吸器)。

 クベースの中で沢山のコードをつけて眠るのは、小さな小さな赤ちゃんたち――――握りこぶしより小さい頭、折れそうなほどに細い手足。

 最初の頃は、触れることさえ怖かった。

 今では、看護師さんの手を借りなくても赤ちゃんの向きを変えることができるようになったけれど。

 それでも、その糸のように細い血管に針を刺す瞬間は、やはり緊張する。

 なるべく痛みを少なくできるように、なるべく赤ちゃんの負担にならないように………そんなふうに半ば祈りながら針を刺す。


 一人目の採血を終え、処置台で次の赤ちゃんの採血の準備をしながら、私はふと目を上げた。

 機密性の関係から申し訳程度につけられた小さな窓の外に、咲き初めた桜の枝があった。

 瞬間、言いようのない切なさが私の胸を刺した。

 この一年、心の奥底に眠っていた感情、黎明の中で見た満開の桜、あの子が生きた12時間――――― 私が、今ここにいられる理由わけ





 去年は寒さのせいか桜前線の北上は遅かったが、咲き始めた途端どの桜も一気に満開となった。急がないと、花見の時期を逃しちゃうね、と看護師さんたちと話していた土曜日の午後、その連絡は突然来た。


 在胎22週3日、一週間前破水、昨夜陣痛発来、抑制困難、母体の発熱、胎児心拍の低下・・・


 産科のドクターの言葉の一つ一つが状況の困難さを伝えていた。

 そして指導医の小林先生と共に、今できる最善の準備をした上で臨んだ分娩室。私たちの到着からほとんど時間をおかず、彼女は生まれた。


 それは、静かなお産だった。

 母親の苦痛の声はなく、せわしない浅い呼吸だけが張り詰めた空気を揺らしていた。

 待ち望まれたはずの産声はなく、暖められたタオルに埋もれるようにして私たちの手に渡された彼女は、本当に、本当に小さかった。


 掌にのってしまいそうなほど小さな体。

 私の指ほどの手足。

 未だ始まらない呼吸のため、透けそうなほど未熟なその肌は紫色をしていた。


 言われるがままにその体を柔らかなガーゼで拭き、小林先生が細い挿管チューブを気管内へ挿入するの待って聴診器で呼吸音を確認する。

 バギングによる呼吸音の後ろに、ゆっくりだが規則正しい心拍が確かに聞こえた。

 強制的に押し込まれる酸素により、その皮膚が徐々に間にピンク色に変わる。

 そして、出生後5分。私たちの必死の蘇生に答えるかのように、薄い胸が自力で深く息を吸い、泣き声を出す形にその口が動くのを、開かれたままの小さな手が何かを掴むかのように握り締められるのを、私は見た。


 彼女の命が、限られた時間を刻み始めた瞬間だった。




 出生体重421g。

 体重計に表示された数字は、予想よりも少なかった。

 湿度を90%に保つためもうもうとけむったクベースは、今その中でたくさんの管につながれて横たわる彼女には、あまりにも広く感じられた。

 始まったかと思われた呼吸は、クベースに収容しレスピレーターにつないだ途端、力尽きたかのように消えた。規則的に押し込まれる空気が、かろうじて彼女の体内の酸素を保つ。

 けれど、レントゲンに写された肺は母の胎外で生きるには未熟すぎ、規則正しく鼓動を刻む心臓は、必要な血圧を保つにはあまりにもか弱すぎた。

 治療として行われる処置が、投与される薬が、望まれる効果を果たすことなく、むしろ彼女を消耗させ苛んでいることが、NICU勤務となって日の浅い私にすら明らかに感じられた。

 鳴り続けるモニターのアラームが、彼女の悲鳴のようにNICUに響き渡る。


「………これ以上の治療は、赤ちゃんを苦しめるだけです。残念ですが、今は、赤ちゃんの生命力を見守ってあげることしか、できない状況です」


 淡々とした長い説明の後、小林先生はご両親を見詰め、そう言葉を締めくくった。死亡宣告にも等しいその言葉を、互いに震える手を握り締めながら、それでもご両親は毅然と受け止めた。


「――――よろしく、お願いします」


 その震える声の後ろに、どんなに烈しい感情が渦巻いているのだろう。耐え切れず、嗚咽を漏らす母親の肩を、父親が強く抱き寄せるのを見ながら、私たちは病室を後にした。


「最善を尽くします」


 最後に言ったその言葉が、どれだけ虚しいものであるか、小林先生も私も痛いほど解かっていた。

 そして、ひとつの命の灯が消えるのを、ただ待つだけの夜が始まった。




 ピッ、ピッ、ピッ、ピッ………


 モニターの規則的な音が薄い壁を越えて、仮眠室の中に微かに響く。

 元気な赤ちゃんよりも明らかに早い鼓動が、彼女の心臓のか弱さを語っていた。

 これだけ早い鼓動でも、血圧は十分には保てない。

 昇圧剤を用いても、彼女の心臓はそれに答える力すらないだろう。


 定時的な診察の合間、看護師さんに勧められて仮眠室へ来たものの、眠れるはずもなく、私は固いベッドの上で膝を抱えた。


 私は、一体何をしているのだろう――――?


 生きることをあんなにも望まれている命が、今確実に終焉へと向かっている。

 なのに、私は何もできず、ただその時を待つだけ。

 それが、彼女の運命だったのかもしれない。

 でも、それなら、何故私はここにいるのだろう。

 小林先生ですら彼女を救うことはできない。

 まして医者になって一年、NICU勤務になって3週間の私にできることがないのは解かっている。

 それでも、目の前で、必死に生きようとしている命があるのに―――――私の手は、何もできないのだ。


 それなら、私が医者としてここにいる意味はあるのだろうか――――?


 そのとき。

 胸ポケットに入れたPHSが甲高い音を立てた。反射的に通話ボタンを押す。


 それは、彼女の心拍が急激に低下したことを伝える電話だった。




 限界を超えた心臓が、力尽きるのは早い。

 それから僅か20分で、ご両親に初めての抱っこをしてもらいながら、彼女は息を引き取った。

 

 彼女の体につないであったチューブやモニターを、一本一本丁寧に取り去る。

 余分なものから開放された彼女は、生まれたときよりも更に小さくなったように感じられた。

 開くことのなかった瞼を、母の乳房を含むことのなかった唇を、柔らかなガーゼでそっと清める。

 おろしたての大きすぎる産着を、看護師さんが四苦八苦して着せ掛ける。

 そして、今はもう握り締めることのない小さな小さな手を、胸元に組ませた。

 ご両親の用意した淡い桜色のタオルに包まれた彼女を、看護師さんから受け取った。


 軽い。


 柔らかな布地に埋もれるようにして眠るその顔は、とても、とても可愛らしかった。

 何故か微笑んでいるように見えるその頬に、ぽたっと涙が零れ落ちた。


「先生、泣いちゃ駄目だよ。一番辛いのはご両親なんだから」


 一緒に処置をしてくれた看護師の高橋さんが、自分も震える声で私に告げる。

 頷き、空いた右手で頬をぬぐう。

 それでも、涙はあとからあとから溢れた。どんなにきつく唇を噛んでも、止まる気配のない涙を諦め、せめて彼女の顔を汚さぬように抱き方を変えながら、私は高橋さんと一緒にNICUの出入り口へ向かった。


 厚いガラスの扉の向こうには車椅子に乗ったお母さんと、お父さんが立っていた。

 私はもはや濡れる頬を拭うこともせず、まっすぐにご両親を見詰めた。


 頑張ったね。

 お母さんたちと一緒におうちに帰ろうね。

 すっきりしたお顔になったでしょう?


 沢山の言葉が胸の中を渦巻く。

 なのにどれ一つとして声にはならないまま、私は彼女をそっとお母さんに手渡した。


「ありがとうございました」


 お父さんが、かすれた声で言う。


「いいえ………何も、できなくて――――」


 急にぽっかりと空いてしまった両手を、爪が食い込むほど強く握り締め、私は奇妙にひしゃげた声で言った。

 そんな私にお父さんはゆるく首を振り、もう何も言わず頭を下げた。

 私たちも、それに合わせるように深く頭を下げ、薄暗い廊下を遠ざかる親子の後姿を見えなくなるまで見送った。




 必要な事後処理を終え、それでも朝までの僅かな時間を眠る気にもなれず、私はNICU脇の非常階段から外へ出た。

 澄んだ冷たい空気が私を包んだ。その空気に引かれるように俯いていた顔を上げると、満開の桜が視界を覆った。


 綺麗だった。


 雲ひとつない淡い菫色の夜明けの空も。


 ただ静かに咲き誇る桜の花も。


 怖いほど、綺麗だった。


 桜の花なんて見慣れたもののはずなのに、美しい桜の花なら何度も見ているはずなのに、今目の前にある桜は、まるで別の世界の花のように、現実感がなかった。

 彼女が生まれてからの半日が、夢の中の出来事のように遠く感じられた。

 でも、彼女は生きていたのだ。

 この桜を、この空を見ることはできなかったけれど、確かに、彼女は存在していたのだ。


 なのに―――――


 不意に、眩暈を覚えるほどの無力感が私を襲った。

 非常階段の手すりにもたれながら、私はただぼんやりと、微かな春風に揺れる無数の小さな花びらを見詰め続けた。


 もう、涙は出なかった。


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