第89話:ゆめのなか、ひかりのきおくⅠ
目が覚めると、私はルーンヒルではないどこかにいた。
何かがおかしい。そう思い起き上がろうとすると、見知らぬ年老いた女性がそばにいる。
祖母の友人だという具合が悪そうな彼女は、静かに話し始めた。
昨日の早朝、祖母と意識を失った私だけがこの町――エスティンにやってきたこと。
祖母は私を助けたあとに足と手と、心を壊してしまったこと。
そのせいで、祖母は友人に対して何も事情を説明できなかったこと。
つい先ほど、帝都の遣いからエスティンの町に暮らす人々に報せがあったこと。
『ルーンヒルは潜伏していた大逆人の凶行により、村そのものが焼失した』と。
討伐に向かった騎士隊を含め生き残った者はいない、という事になったらしい。
それを知った女性は、自分が想像した事態を誰にも何も話していないという。
話を聞きながら、私は内容と現状の理解どころではない混乱に陥っていた。
目の前の老いた女性の口から聞こえる言葉とは別に、音ではない何かが聞こえる。
すぐに、それが一つだけではないと気づいた。
辺りからも、たくさん。
遠くからも、たくさん。
それらは全て、人の心の声だった。
意識した瞬間、あり得ないほどの情報が私の魂を侵す。
気が狂いそう……というより、アニエス・サンライトはこの時点で発狂した。
それからしばらくの間の私は、元の習性に沿ってそれらしく動く人形のようだった。
何も喋らず、ただ機械的に同じような動作を繰り返すだけ。
けれど、すぐに壊れたままでもいられなくなる。
私と祖母を匿った女性は体調不良に加え心労のせいで、ひと月もしない内に死んでしまった。
彼女は常に告発すべきか葛藤していたし、それを見透かす私に対して恐怖を抱いてもいた。
祖母は寝たきりとなり、そのほとんどの時間、私を自分の娘と認識するようになった。
エスティンの人間は、私を、災いを運び人の心を暴く忌まわしい魔女だと疎んじた。
辛く、苦しいだけの日々が続く。
壊れた心を繋ぎ合わせた私には、憎しみと呪いだけが燻る火のように残っていた。
『どうして自分だけが』と、何度もそう思った。
なぜ、私だけが無事に長らえたのか。
ルクスブランが許せない。
秩序の神に仕える聖なる民などと妄言を宣う連中が許せない。
一人だけのうのうと生き残った自分が許せない。
なにもかもが許せない。
黒いなにかが、澱のように溜まってゆく。
気づけば、人々の思念とは違う声が聞こえるようになった。
暗い、暗いどこかから。
同じところへ導くように。
甘く、甘く囁く声。
憎しみと呪いを覆い、全てを否定するその声に、私は惹かれつつあった。
祖母の世話をしていると、調子が良く以前に近い認知の彼女がうわ言のように繰り返す。
「……ぜんぶ、ぜんぶ、あの男が悪いのよ。あんな男に、大切な娘との結婚を認めたのが間違いだった。ああ……アイリーン……どうして……あの人の忘れ形見なのに……」
それは彼女にとっての真実であり、客観的に見ても遠からずという答えだった。
もっとも。その解答を是とするならば、リチャードの子である私とヨシュアの存在も否定された事になる。追い詰められた祖母の思念を手繰ると、彼女はその事に気づいていなかった。
幼い私は、疑問を抱いた。
『それなら』、『目の前にあるこの生き物は』、『一体なんだろう?』と。
***
みんなを……最愛の家族を喪って。
その亡骸と故郷を自らの焔で焼き払って。
唯一残った肉親からは存在を否定されて。
町の人間からは忌避の視線だけを浴びて。
……それでも、まだ死んではいない日々が続いて。
もう一度壊れてしまいそうな、おしまいが近い日に。
私は、なにもかもを投げ出して町を出た。
エスティンの町には、すぐ近くに小さな森があり、そこへ向かう。
なにか考えがあったわけじゃない。ただ、人がいる場所から離れたかった。
当時の私の力なら、森の奥まで入ってしまえば人々の思念も届かないからだ。
ふらふらと、どこかを目指して木々の間を歩く。
何かに導かれるように。
水の底から、空気を求めてもがくように。
……目覚めたばかりの力が、奇跡にすがりつくように。
そうして辿り着いた、森の中心にある大樹のそばで。
私は、何よりも輝ける光を見た。
「――――――」
決して貶められる事など無い、透き通るような輝き。
ヒトと同じカタチをした、全く異なる光そのもの。
目にした瞬間、他のあらゆる情報が私の世界から弾き出された。
私は全てを忘れ、その姿に見入った。
何時間もそうしていてから。
あの日以来、久し振りに意味のある言葉を思い出せて。
私は、あの子に名前を尋ねた。
あの子は、私の言葉を真似て名を告げる。
「はじめまして。ボクの名前は――」
輝けるその御名の意は、秩序たる終焉の神星。
……あの子は、本物のかみさまだった。
どうしてあんなところにいるのかはわからなかった。
私が知らないだけで、あの場所に何かの縁があったのかもしれない。
ずっとあの子を見続けて。
いつの間にか、日は暮れかけだった。
エスティンに移りひと月が経ち、この時間には必ず家にいるようにしていた。
今まで繰り返してきた行動に沿って動こうと思考し、戻るべきだと理性が言う。
内心そんなことがあるはずがないと思いながら、あの子に明日もここにいるか尋ねた。
去ってしまうのなら、それを見送るまで私もずっとここに居座るつもりだった。
すると、あの子からは意外な言葉が返って来た。
「はい。ボクはどこにも行きません」
……明日も会える。そう安心した私は、今日のところは祖母の元へと戻る事にした。
彼女のことも、見捨てるわけにはいかなかったと思い出したから。
その日、まだ慣れない家に帰って。
暗い、どこからか囁く声が聞こえなくなった事に、ずいぶん後になってから気づいた。




