第54話:牙より異邦の者へ
混沌の巨神の生誕が無事に済んだ事で星の中枢を覆う魔力の層は平素のフィーネが突破出来る程度に薄くなっていた。
フィーネが星そのものを統べる児たるジェアンテに“星の記憶”の複製をしたいと申し出たところ『かってにしろ』と返答があったため、二人はその複写作業をつつがなく終えた。
これで、アニエスとフィーネはこの“巨大な星”での目的を果たした事になる。最後に再び巨木の森へと戻った二人は初日に出会った仔狼の一匹遊びを眺めていた。
「ンガ、がふがふ」
仔狼は親である巨狼から少し離れたところで口をがしがしと開閉させている。しばらくその動作を続けていたと思いきや、ぺっと音を立てて何かを吐き出した。
「あ。牙が取れた」
「……だいぶごっそりと抜けたわね。生え変わりの頻度が多いのかしら」
「前に海で見たサメって魚みたいだねー」
二人が仔狼を観察してみるとその口元は先ほどまでと変わらない。どうやら魔法で瞬時に歯牙を再生させているようだ。フィーネは吐き出された牙を検分した。
「ねえ。これもらっていい?」
そう仔狼に確認を取るフィーネ。
当の仔狼は捨てたものに興味が無いらしく、手近にあった樹の幹を噛んで新しい牙を馴染ませている。
了承を得たと見做し、フィーネは唾液まみれの牙を手に取って容器にしまった。
「この牙、すごい珍しいんじゃない?」
「まあ……そうね。力も希少さも類を見ないレベルだと思うわ」
まだ幼獣とはいえ、成長した姿である巨狼の力はヒトではまず太刀打ち出来ない。その魔獣の体の一部となれば、相応に強い魔力が秘められており、魔法器の素材としても優れている。しかし、そう目にかかれない貴重品を入手したというのにアニエスはさほど浮かない顔だ。
「あんまり嬉しくないの?」
「普通に手に入れていたらもう少し喜んだかもしれないけど……なんか、フィーが珍しいものだって言いながら採っていると釈然としない」
それから、星から旅立つまでの時間を二人は思い思いに過ごす事とした。フィーネはジェアンテに話があると彼女の元へと飛んで行き、仔狼もそれを追いかけて走って行ってしまったため、残されたのはアニエスとやや離れた位置にいる巨狼だけだ。
巨狼はこの星においてはそれなりに強い程度の生命だった。しかし、アニエスにとっては気まぐれに首を落とされてもおかしくない力を持った魔獣である。その獣から、アニエスは初日のような敵視ではなく、かと言って親しみもなく。形容しがたい思念を向けられていた。
アニエスがその感情を探ろうとした瞬間、異能に届く思念が途切れる。それに驚き即座に身構え、原因を探ろうとしたアニエスの魔法感覚に声が響いた。
【恐れるな、オマエは殺さない。あの神星に阻まれ、我が牙は届かぬからな】
“原初の言葉”でアニエスに語りかけてきたのは、他ならぬ紅い巨狼だった。アニエスとフィーネはこの獣に対し何度か話しかけたため、その時に魔法を覚え再現したのだろう。
アニエスは慎重に、巨狼の真意を探る。
「……どうして急に話してくれる気になったの?」
【それをオマエが問うか。我が意を読めるのだろう? 暴いてみせろ】
巨狼は牙を剥き出したが、殺意が理由ではないようだ。人間の仕草に直せば不敵に笑ったというところだろうか。ある種の挑発と受け取ったアニエスは、偽らずに答える。
「今の私ではあなたの心を視る事は出来ないわ。閉心の魔法を思いつきで使えるなんて、あなたは有象無象の人間よりもよっぽど賢いのね」
アニエスの言葉に巨狼は微かに目を細めた。
【その眼を凝らせば視えように。……まあいい。私が汚らわしい言葉などを用いたのは、そんな事が理由ではない】
巨狼は毛並みと同じ炎のような色合いの瞳と疑問をアニエスに向けた。
【なぜ我らの御子を殺さなかった?】
「……そう決めたのは私じゃないわ」
【だが、オマエが望めばそうなったはずだ】
「…………」
巨狼の言葉は事実であり、アニエスの認識とも相違しなかった。
フィーネはアニエスに心から願われれば躊躇なくジェアンテを滅ぼした事だろう。仮に、その願いに正当性が無いと感じていたとしても彼女は友として頼みを聞く。
まして、今回に関して言えば命を奪われかねない恐怖に晒されたアニエスがジェアンテの消滅を願うのはそれほど不自然な話でもない。巨狼が問うているのはそういう事だと、アニエスは理解した。
「私達は侵略をしたいわけじゃない。あの子が死ねば、この星は朽ちてしまうでしょう」
【ならば、なぜ放浪などする? オマエたちの旅は少なからず他者を踏み躙るだろう】
例えば今もアニエスの足元に敷かれる草があるように。生きている以上、人間の行える範囲の気遣いではどうあっても何かを侵害してしまう。なのに他所へと足を向けるのはなぜか。
驕りを糺すようなその問いかけに、アニエスは。
「それでも、あの子と旅をしたいから」
必要が無い限りは他者を害したくはない。しかし、自分達の目的より他者の存在を上に置く事は無いと、蒼色の少女はそう答えた。
その回答を聞き、巨狼は納得したのか興醒めしたのか。どうあれ、彼女は自分の子を追おうと踵を返した。
「待って」
それをアニエスが呼び止める。彼女は自分達が星を訪れた影響を当事者に尋ねた。
「あなたはこれからどうするの?」
【私の歩みは何も変わらない。星統べる御子が生まれようとも、この地を駆けるだけだ】
「なら、私達の真似をするつもりは無いのね?」
【無論。私が二度と言葉を繰る事はない。我らの御子が与えぬ限り、それは不要なものだ】
「そう。それなら子育て、頑張って。だいぶお転婆な子みたいだし」
アニエスの軽口に巨狼は微かに振り返り、一瞬思考してから何かを吐き出す。
アニエスが驚いてそれを目線で追うと、地面に深々と突き刺さったのは巨狼の牙だった。仔のものと比べても残留する魔力は強く、人間の頭部よりもよほど大きい。
「……これ、もらっていいのかしら?」
少し高揚したアニエスの確認に、巨狼は振り向かずに鼻を鳴らして応え、去って行った。




