第49話:まだ小さな兆し
巨狼が現れて数分ほどが経過した頃、フィーネはかぶりを振った。そばで成り行きを見ていたアニエスが尋ねる。
「諦めたの?」
「だって、抵抗するんだもん。無理に動かしたら体がヘンな方向に曲がっちゃいそうだし」
「気の毒な話ね……」
アニエスは改めて自分達を睨みつける巨大な魔獣を見る。体は地面に伏せたままだが、それでもなお重厚な威圧感は損なわれない。もしも手違いで解き放たれたらアニエスは即座に噛み殺されてしまうだろう。
フィーネが巨狼に行ったのは洗脳ではない。当事者が戸惑っていたように首から下の体の動きを命令によって強制しているだけだ。言い換えれば、魔法で体の制御を奪って支配している。
字面の恐ろしさの通りやっている事はある意味精神を支配するよりも凶悪だが、彼女にとってこの魔法は特に秘すべきものでもなんでもない基本的な動作であり、また他者の自由を奪う事が本質でもない。
魔法とは事象を引き起こしたり改変する現象の総称だが、フィーネが行ったのは極端に有効範囲が広い改変に当たる。今回は巨狼の体の動きを事象と見立て書き換えたのだ。
さらに、巨狼が何をされているのか判らないのと同様にアニエスもこの魔法が発動しているという状態を正確に感知する事は出来ない。最近判明したアニエスの知らぬ間に使われていた例としては、フィーネが茶を淹れた際に時折味を良くしている事などがあった。
巨狼が自らの力でフィーネの強制を克服出来る気配は無い。時間経過で弱まる類の力ではないため、フィーネがその気になればこの獣は今の体勢のまま寿命を迎える事になるだろう。
「で、実際のところこの子はボクたちになんの用事だったの?」
この巨狼はヒトと同じ言語を持たないだけで知能は高い。思考に獣独特の癖はあるものの、アニエスの異能でも感情を理解する事は出来た。アニエスが巨狼の意思を代弁する。
「フィーがさっき言った通りよ。この森一帯が縄張りだからよそ者が許可無く入ってきたら始末しているらしいわ」
「そっかー。ボクたちがこの辺に降りて来たのはたまたまだけど、怒らせちゃったんだね」
フィーネは巨狼をまじまじと観察する。獣からは明らかな殺意を向けられているがそれを気にしていない。少しして、フィーネはアニエスに一つ尋ねる。
「この子、ボクたちが話してる内容もわかってるよね?」
「ええ。質問しても答えてくれるかはわからないけど」
この巨狼には万能言語の魔法である“原初の言葉”で意志を伝える事が出来る。アニエスが述べた通り返答は無い事が予想されるため、相手が何を言いたいのかはアニエスの異能で思念を読み取って通訳する手間が必要だが。
「それじゃあ、案内を頼もうかな。勝負に負けたんだからそれくらいは聞いてくれるよね?」
巨狼へ向けたフィーネの言葉に威圧の意志は無い。しかし、彼女が巨狼の運命を掌握している事実には何ら変わりが無い。言った当人の思惑はともあれ状況的には脅迫に近いが、ほぼ全ての自由を奪われている巨狼は極めて不愉快そうな唸り声を上げるだけだった。
「なんて?」
「……『殺せ。それか死ね』だって」
「んー、強情ー」
「“威光”だと走らせられないの? 水場へ行けとか、そういう動作で指定すれば普段のフィーの命令範囲でも出来ると思うんだけど」
「そうだね。このままこうしていても仕方ないし、そうしよっか」
フィーネはアニエスの手を引きながら巨狼の背に飛び乗って命令の内容を変更する。
「地を駆けよ。汝の営みに従い巡れ」
フィーネの強制を受け、巨狼が不自由さから苛立たしげに吠えて駆け出した。迫って来た時同様、巨狼の移動速度はとても速い。揺れる上に毛皮以外まともに掴まれる場所は無いので二人は魔法で座る位置を固定し、振り落とされないようにしている。
高速で流れてゆく景色を眺めつつ、フィーネは乗り心地以外の感想を言った。
「なんだかジャイビーみたいだね。これからこの子と仲良くなれたりするかな?」
フィーネが口にした『ジャイビー』なるものは人間と魔獣の友情にまつわる物語の略称だ。だが、アニエスの所感としては知っている話の内容と今の状況はかなりかけ離れている。
「夢のある話ね。現状、フィーは死ぬほど嫌われているし私は雑魚って舐められているわよ」
「そういうところから仲良しになるのがいいんじゃない。ねー?」
巨狼に同意を求めるフィーネだが、当の獣は気位が高いらしく殺意を込めて唸るだけだった。力で劣っていても精神面において屈するつもりは無いという、生存が第一義であるはずの魔獣ながら誇りを見せる。
経緯についてはどうあれ。縄張りを荒らされた上に案内を強要された哀れな魔獣と共に、アニエスとフィーネはこの“巨大な星”の探索を始めた。
***
アニエスとフィーネが“巨大な星”を訪れる前、“星を渡る舟”での事。
次に向かう星の座標を定めた二人は約束の盤上遊戯に興じていた。
「これでフィーの巨大化は終わりね」
「ねえ。防御判定を二回連続で成功させるのはおかしくない?」
フィーネの抗議に対しアニエスは真顔で反論する。
「二連続成功の確率は約三割よ。何もおかしくないわ」
「だけど、これまでの三試合とも最後は全部こうだったよ」
「フィーの前で不正なんて出来ないわよ」
「それはそうなんだけどさー」
「そんな事よりこれがラストターンよ。さあ、どうするのかしら?」
「うーん。どうしようかなぁ」
アニエスとフィーネが遊ぶゲームの名は“巨大怪獣”。愛好者の間では略して『ジャイビー』などと呼ばれていた。
普段は一般的な動物程度の大きさの魔獣を使役して戦わせるという設定で、二人の故郷では物語とゲームがそれぞれ人気を博していた。プレイヤーは一試合につき魔獣一体を数ターンだけ巨大化させる事が出来るという特徴があり、その戦略次第で勝負の趨勢が変わる。
対戦内容に運の要素も介在しており、プレイヤーが最適解を選び続けたとしても状況次第では敗北する事がある。その点は賛否両論だが、アニエスとフィーネがお互いに手を抜かずに勝負が成立するゲームであるため二人の間ではよく遊ばれていた。
盤面には二体の魔獣が出ている。アニエス側は巨大化している赤色のトカゲ、フィーネ側は緑色のウサギだ。紆余曲折あって現状フィーネが劣勢であり、彼女に残された勝ち筋は大きく二通り。場にいる魔獣に任せてこのまま戦わせる手が一つ。もう一つはあと一体残された魔獣に交代しトカゲの攻撃を凌げる事に賭ける手。どちらを選んでも運が絡む状況だ。
フィーネが思案したところ勝率という面において、前者の方が数割優位だった。フィーネのウサギはアニエスのトカゲよりも速く動ける。命中率九割の攻撃を外さなければよい。
「よし決めた。ボクはこの子を信じてみるよ」
しかしウサギの攻撃は外れた。
「信じたボクがおバカだったよ」
「はい、私の勝ち」
なぜか得意げなアニエスの従える巨大トカゲが容赦なくフィーネのウサギを撃ち抜き、そのまま残りの一体も倒されてゲームはアニエスの勝利で終了した。
フィーネは少し不満げな表情でボードを片付ける。アニエスはそれを眺めて若干優越感を抱きつつ、舟に備え付けられた時計を確認する。
「ちょうどいい時間ね」
座標さえ決まっていれば“星を渡る舟”で星間を移動する時間は起動準備も含めほんの数分で済む。つまり目的の星に行くための身支度が終わるまで転移は行わなくともよいのだが、今回は舟を動かした後で来訪予定の地域の時刻が日中となるよう調整した。そこで二人は少し浮いた時間を潰すためにリビングルームで盤上遊戯に興じていたのだ。
遊び終わったゲームを箱にしまったフィーネがまだ不服そうにぼやく。
「どうしていつも負けちゃうのかなぁ。それもアニエスと勝負する時ばっかり」
「きっと日頃の行いよ。もう少し友達を大切にした方がいいわ」
「してるよー。アニエスこそ、友達以外の人も大事にしないとダメだよー」
アニエスとフィーネは“星を渡る舟”にいる間は次に向かう天体の情報をほとんど見ないようにしている。『なにがあるかわからない方が楽しいよ』というフィーネの提案からであり、まだ星のサイズすら把握していない。
二人はアニエスの魔法器を使い、船内から星へと降り立つ用意をする。
「どんな星だろうね? 混沌側の領域は初めてだから楽しみだなー」
「私はちょっと不安。ケイオスって要はあいつの同類でしょ。何があるやら」
「またそういうこと言うー。世界を知りたいならどっちもちゃんと見ないとダメだよ」
「わかってるわよ」
いよいよ舟を出るという際。フィーネはこんな事を口にした。
「この前はヒトに会えたし、今度は魔獣が見たいなぁ。ジャイビーみたいに大きいのとか」
「そんな都合よく見れるとは思わないけど……まあ、宇宙のどこかにはいるかもね」
***
そして、状況は現在へと戻る。
「ハイヨー! ほらほら走って走ってー!」
【グルルルルル……ッ!】
ゲームに負けた鬱憤を晴らすかのように、フィーネは巨狼を勢いよく走らせていた。使役されている巨狼は不愉快さを隠しもしておらず、フィーネが先ほど語っていた人間と魔獣の友情物語たるジャイビー要素は登場人物の類似性のみだ。
(この星を出発するまでに和解出来るかも怪しそうね……)
アニエスは内心どうかと思ってはいるものの、上機嫌でいるフィーネに水を差すつもりも無かったため、とりあえずこのまま獣の背で揺られている事にした。
時折上がるフィーネの歓声を聞き流しつつ、アニエスが周囲を観察していたところ――彼女の感覚に奇妙な刺激が走った。
(……っ! なに、今の……?)
それはアニエスが常々悩まされる他人からの思念を読み取る感触とは異なる。また、具体的に何かが起きたという気配ではなく、漠然とした、にもかかわらずとても強い予感じみたものだ。
(この星に……何かが起きようとしている?)
アニエスがフィーネの方を向くと、彼女も先ほどまでのはしゃいだ様子とは打って変わって神妙な表情を浮かべていた。
喜怒哀楽を示していない、それでいて無とも異なる顔つき。
それはアニエスが初めて出会った時と同様、本来のフィーネそのもの。
アニエスはフィーネの今の雰囲気が彼女に一番合っているという個人的な思い入れを持っていたが、それ以上に無視出来ない予兆でもある。フィーネが素顔でいる時は、決まって何か大事件があるのだ。
これまでの経験からそう感じたアニエスだったが――
「あっ、見て見てアニエス! 向こうの方に山みたいに大きいカメがいる!」
「――本当ね。いや、ちょっと待って。山みたいっていうかむしろ山より大きくない……?」
次から次へと目に映る巨大生物の情報に紛れて、聞きそびれてしまう。
そうしている内にフィーネの態度もまた、いつも通りのものに戻っていた。




