上巻 第2章4部 三日月
上巻 第2章4部 三日月
ホーッ。
やっぱり図書館はいい所だと思う。この間の本はやはり同じ場所にあった。一通り
読み終えると、やはりこの本の作者が気になった。
『彼は私に気づいてくれないから。』
最後の一文が僕の心を引っ掻いた。図書館を出て、ポケットに手を突っ込んで歩い
ていると、ブーッ…とポケットの中で携帯が震えた。確認すると、モニターには
「永田海」と書かれてあった。
「もしもし。」
「あっ、もしもし。証士くん?」
久しぶりだったが、彼女の声だとすぐに気づいた。望んでいたことなのに、話すの
が怖く、電話に出た事を少し後悔した。この間は…と口を開いた時、彼女が言った。
「海に来て。」
僕は桜並木通りを回れ右してから、海に向かって走り出した。
図書館を右に曲がりタクシーを捕まえた。3キロの道をタクシーはのっぺりと無表
情に走る。滅多に乗らないタクシーを降り、砂浜を見る。そこにはポツンと一人の
女性が立っていた。僕は階段を下り、砂浜を歩いた。
波の音としょっぱい海風が僕の心臓を刺激する。
ゆっくりと彼女の近くに行き、優しく声をかけた。
「永田さん。」
「ごめんね。急に呼び出して。待った?」
「待った?って…永田さんの方が先に来てたじゃないですか。」
「永田さん…じゃなくて海でいいよ」
彼女は海を見たままだったが、くるりと向きを変え、こっちを見た。
「この前はごめんね。せっかくの食事が台無しだったね。」
首が飛んでいくのではないかという勢いで首を振る。
「いえ、僕の方こそ。この前とかじゃなくて、今までずっとごめんなさい。」
長い沈黙が続く。すると、突然雨が降ってきた。海は少しずつ落ち着かない雰囲気
になっていったが、穏やかさは保っていた。僕らは傘を持っていなかったので、少
し寄り添うように彼女に近づいた。そして、自分のジャケットを彼女に着せた。
海は少しずつ落ち着きを無くしていき、不思議な気持ちが僕らの心に溢れた。
それが形となって、僕らは冷めた心と体を温めるように抱き合った。少しずつ、少
しずつ、今までの分も彼女の心を暖かくしようと誓った。
「やっと…やっと私に気づいてくれたね。」
彼女が少し潤んだ声で囁く。僕は抱き合ったまま静かに「うん。」と呟いた。
「遅かったね。」
「うん。」
「私の事、好きになってくれた?」
「うん。」
やっと彼女と体を離す。互いの顔を見つめ合ってから僕は言った。
「永田さん。じゃなくて海。僕はあなたが好きです。」
彼女は顔を赤らめて言う。
「本当?」
「本当。海がなんだとしても、僕は海が好きです。」
空が少しずつ晴れてきた。六月には似つかない短い雨だった。僕らはもう一度抱き
合って砂浜に座った。暗い色の海が少しずつ明るさを取り戻していくのを見た後、
彼女は僕の目を見て言った。
「今、何見てたの?」
「海です。」
彼女はどっちなのよ、と言って笑った。
「ここで良かった?」
「海でよかった。」
彼女はまた笑った。こんな会話を二、三回繰り返した後、彼女は僕に言った。
「これはフィクションですか?」
「嬉しながら、ノンフィクションです。」
もうこれ以上彼女を待たせたくない、と僕は迷わずに答えた。
僕がそう言うと、彼女は僕を見つめた。僕も、同じ目で彼女を見つめていた。
そして、僕らは今までの分を取り返すように、甘く静かにキスをした。僕はしょっ
ぱい海風が肌に触れる感覚と、彼女の唇の感触だけを、何度も何度も押し寄せる波
のように、ただ味わっていた。