上巻 第2章1部 黒髪の少女
上巻 第2章1部 黒髪の少女
私の高校生活は至って悲しい3年間だった。
凡人の私でも並に努力すれば入れるくらいの高校で、やりたくもない陸上部に友
達の誘いで入り、走っては跳んで走っては跳んで、と面白くもなく繰り返す…そん
な毎日だった。しかし、そんな高校生活の中で私は唯一の楽しみがあった。
高校二年生の春、私は、跳んでいる時にある人を見つけた。その人はサッカー部
で、オレンジ色のビブスを着て、ボーッと練習を見ていた。その目には何が映って
いるのだろう。そんな事を考えていると、私の頭に衝撃が走った。
目が覚めたら、そこは病院のベッドだった。
「あっ、起きた」
母親の声が耳に入る。
「お母さん?」
母は「ホーッ」と一息ついて
「もー、心配したのよ?あなたは昔からおっちょこちょいなんだから…」と言った。
あれ?何で私はベッドにいるの?私は確か部活をしていて…あれ?学校だったっけ?
じんぐりと記憶を辿っていると、ある人物が逆さまの状態で私の脳裏に映し出された。
そうだ、あの目だ!何を見ているのかわからない目。どこか私と似ているあの無気力な目。
私はあの人を見ていて…えーっと……
不意に頭がズキズキしてきた。
「いくらおっちょこちょいでも、棒高跳びで頭から落ちるかねぇ…」
母がため息混じりに私に言う。
そっか。私、頭から落ちたんだ。道理で頭がズキズキすると思った。
私が彼と同じクラスだと知ったのは、そこから二週間後だった。彼はクラスでは
いつも静かだったが、たまに話しかける友人とは普通に話せていた。私はというと、特
に誰とも話すことなく、お弁当は一人で、休み時間はボーっとして過ごすのが日課
となっていた。ただ、彼の事を知ってからはボーっと彼を隠れて眺める事が日課に
変わった。その時、彼は私に気づくことなく、一人で読書をしているか、友達と話
をしていた。そして、その友達がある女子の時は、その両方を彼は器用にこなしていた。
ただし、読んでいるのは本ではなく、原稿用紙であった。
その女は私とはほぼ対称的で明るく、誰にでも話しかけるような気さくな人物だった。
そのためクラスの中でも人気者で(一部の女子を除く)無論、男子にはモテまくっていた。
しかし、数少ない共通点もあり、(女とか同じ歳とかくだらない事を除く)本が好きという
のはまさにそうだった。彼女が珍しく一人でいる時は、友達に嫌われたとかではなく本
を書いている時であった。ノートに写したアイディアを原稿用紙に盛り付けるようにまと
める。彼女は本を書くことが好きなのであった。
「おっ、出来たの?」
「うん。今回はどうかなーって感じの出来なんだけど、良かったら見て欲しいなーって。」
「ハイっ、」と言って原稿用紙を渡す彼女が、少し羨ましくて、なんだか悔しかった。
彼女は彼の椅子に手を突いて、身を乗り出すように自分の原稿用紙を見ていた。彼はそれ
を気にせず、原稿用紙をまじまじと見ている。そんな二人をボーッと見ながら、私は
ホーッとため息をついた。
「あのさぁ、今度のゴールデンウィーク、どっか行こうよぉ」
さりげなく彼女が聞き出す。別に付き合っていないのは知ってたが、カップルみたい
だなぁ、と頬杖を突いて二人を見る。
「えーっ、どこ行くの?お小遣いそろそろ死んじゃうんだけど…」
お小遣いは死ぬものなのか……
「えーっ?じゃあテーマパークはナシとしてー…。うーん、五月でしょ…?じゃあ、映画!」
「映画かぁ、女子と行ったことないな。」
どうやら彼は恋愛経験が少ないらしい。
「彼女とかできたらどうするの?最初のデートは映画が普通でしょ?」
そうなのか…?と思いつつも二人の話に耳を傾ける。
「じゃあ、映画行きましょか。」
「うん!」
私にはできない返事だな…
「彼女ができた時のために私が練習相手になってあげるー。」椅子から手を離して彼の机の上に乗る。悪魔のような笑顔で彼を見た。
「うーん。」彼は無気力な返事をする。
「みっちりとしっかり鍛えるからねーっ!」
「うーん。」
「もう証士へろへろにしちゃうからねー」
「うーん。…あれ?ここでこいつはこの女と付き合ってて…」
彼女は原稿用紙を覗き込むようにして、彼を睨むように見つめた。
「今は原稿用紙を読まないで、私の話を聞きなさいっ!」
「うーん。」彼は原稿用紙にすっかり夢中だ。
「…。」
「あーかーしー。」
彼女は彼を後ろから揺さぶる。傍から見ればものすごくイチャついてるのがわかる。
周りの男の視線が怖い。そして彼は原稿用紙を見ながら彼女に言う。
「零葉ー」
「ん?」彼女は手を止める。
「これ、面白いね。」
そう言って彼はまた、小説の世界へと入っていく。
「もー、私と小説。どっちが面白いのー?」
そう言いながらも彼女は指を絡め、体をモジモジさせている。周りの男の視線が怖い。
彼女は最後にそっと彼に耳打ちした後、教室を出た。周りの怖い目をした男子がじっと
彼のことを見つめる。それとは対称的な目をして、彼は彼女が書いた小説を、足をパタパタ
させたり、ニヤニヤしながら幸せそうに見ていた。
それを私はずっと見ていた。
陸上部でも、街中でも、私は何かと彼を意識することが多くなった。彼はサッカー部で、い
つでも無気力な目をしていた。やる気がないのか、やりたくないのかは知らない。ただ、彼
の目が本気になる時は決まって小説を読む時だけであった。今日もオレンジ色のビブスを着
て、練習に取り組んでいる。彼はシュートを撃たず、パスばかり出していた。周りと比べると
小さかったが、それでも170センチ位はあったと思う。ポジションがどこかはわからないが
だいたい真ん中なのは知っていた。彼は今、Bチームだが、スタメンを取れており、三年生に
なってAチームでの試合に出たら応援に行きたいなー…なんて思っていた。
私はゴールデンウィーク中、1度だけ彼を見かけた。デパートで買い物をしている途中、窓の
外を見ると、下には一人で零葉が座っていた。そして、東口を見ると彼がいる。この先の事は
もうなんとなく予想がついたので、(二人でのデート)私は窓の外を見るのをやめ、やけくそに
近い心情で、少しフリフリした白色のワンピースを買い、家に帰ると母に怒られた。
神様、出来ることならもう少し都合のいい場面で彼を見させて欲しかったのに。
赤色のワンピースが似合う女になりたいと強く思った。
六月。あいにくの雨だったので 私は部活をサボり、帰ることにした。サッカー部はオフな
ので、帰り道彼に会えたりして…なんて思いながら靴を履き傘をさして、頭の上で鳴る雨音を
聞きながら帰った。時間があったので、商店街でコロッケを買い、雨で失ったテンションを
取り戻しながら歩く。水の跳ねる音がする。特に橋を渡る時に
、水にはこんなにも力がある
のか、と感心する程の迫力がある。そして、男の声も。雨の音に紛れ、叫び声が聞こえる。
何かわからないけど、いつもの事のように思わせるような、雨の落ち着かない音を恐ろしい
と感じた。こんなに心が忙しい日には、家に帰ってのんびり過ごそう。家の中では雨の音は
心地良く、落ち着くものになるから。
…いや、待て。さっきは気にならなかったが、男の声が聞こえるって何かあったんじゃないのか?
反射的に橋を見る。そこには荒々しく濁流が流れるだけで、激しい雨の音と共に私の不安を
煽った。急いで橋下へ降りた時に泥が跳ね、私のふくらはぎに付く。泥は私の不快感も煽った。
邪魔な傘をたたみ、周りを見渡すと、橋の下に誰かが座っている。
一瞬、時間が止まったような気がした。
近くまで行って確認したが、やはり彼だった。全身血だらけ、顔には青あざができ、泥まみれの
シャツを着た彼は、大人しく砂利の上に座っていた。彼は頭だけを私に向ける。
「なんでいんの?」
多少苛立ちがこもった言い方だった。雨と一緒に場を冷たくする。
「はっ、橋の下で声がして、なっ、何があったのかなって思って。」
寒さと緊張で声が震える。
私もびしょ濡れだったので、橋の下に入った。低い天井から不快な雨の音がするだけだ。
「君、名前はなんて言うの?」
彼の声に優しさが戻ったが、そんな質問はしないで欲しかった。
「海です…永田 海。」
話を聞いているのか聞いていないのか、天井を見て、「あーあ」と言い、彼は呟いた。
「全部フィクションだったらいいのに。この世界も、人間も。」
彼の声に迷いや、戸惑いは見られなかった。
心の声がそのまま漏れたような言い方だった。
そんな彼に白色のハンカチを渡してこう言った。
「残念ながら、ノンフィクションです。」
全ての事は現実か空想に分かれる。どっちがいいとかはないし、中間もない。それ
ぞれで割り切って生きるしかないのだと思う。同じクラスなのに、彼が私を知らなかった
事も、不快な雨の音も、ノンフィクションとして受け止めなくてはならない。そこに厳し
さがあり、人間としての美しさがあるのが、現実なのだ。彼は私のハンカチを赤色に染めて言った。
「ありがとう。これ、どうしよう…。」
彼は戸惑っていた。今の私は彼にどう見えているんだろうか。びしょ濡れな私は貞子みたいに見えているのかな…
「それ、あげるよ」
そう言って私は、弾む雨の音の中を心地よいテンポで歩き出した。
噂によれば、あの事件は彼が零葉と仲が良いのを恨めしく思った男子が集団で暴行した
ものだったと言われている。しかし、暑い夏にも負けないくらい彼らは仲良くしていた。
あの日の翌日、彼が学校に着き、怪我を見て真っ先に驚いたのは零葉だった。彼は決して
彼女が関係しているとは言わず、適当な理由を述べてやり過ごしていた。そのため、相変
わらず二人の仲は良い。彼は彼女の書いた小説を返し、たった一言呟いた。
「おもしろかった。」
短縮し過ぎの感想を伝えると、彼らは夏休みの予定を決めていた。この日はサッカー、こ
の日はお出かけ。と楽しそうに二人は話している。そして、最後まで彼が私に気付く事は
なかった。そんなやり取りはイベントが近づくほど多くなり、それに伴って
彼へのいじめも増えていった。彼は学校を休む日が増え、彼女は小説を書くことが増えた。
それでも彼が学校に来ると何事もなかったかのように彼女が書いた小説を受け取り、気を
遣わせる事なく、彼らはイチャついていた。
そんな彼の転校を先生が告げたのは、三月の終業式の二日前だった。そこで初めて、私は
彼が好きだという事を自覚した。元々自分のものではなかったけれど、そこにあるものが
急に消えてしまうと知って、失うモノの大きさに気づいた。なのに、彼に告白する勇気どころか
「さようなら」を告げる勇気もなく一日が過ぎ、最後の日が来てしまった。一年間の内、彼と
話したのは一回。今となっては想像だった気がし始め、誰かに真実を聞いてみたくもなった。
蕾と花が混ざった並木通りを青く澄み渡る川が映し出していた。
橋の上から水面を見ていると、この一年間何もできなかった自分の無力さに涙がこぼれ落ちた。
『残念ながらノンフィクションです。』
この橋の下で言った言葉がいつまでも頭の中に響いた。もう帰ろう、と反対岸を見ると、車が
行き交っており、反対車線の歩道には下校途中の生徒達が並んで楽しそうに帰っていた。
そして、その中に彼は一人で歩いていた。声をかけるか、走って向こうに行くかしかないと
思ったが、体が言うことを聞かない。こんなチャンスを逃して良いのか?いや、良くない。
良くない事なのはわかっている。そして後で後悔する事も。車が私の前をよぎる。邪魔だな
と思う心のどこかには安心感があった。自分の中で葛藤しているその時間も、証士は遠くに
歩き続ける。その後ろに零葉が見えた時、私の中の何かがゆっくりと絞め殺された。