Article 09 : interference - 干渉の構図
09-1 [AK ̄] 06
『シュレーディンガー博士の研究に関する、CERNの動向を取材するように』
ジョセフから指示を受けてジュネーブに来たあたしは、まずCERNの広報担当を訪ねて、シュレーディンガー博士への取材を申し込んだ。
女性職員の応対は丁寧だったけれど、淡々とした口調で「博士への取材は、現在お受けしていません。ご質問は電子メールでお願いしています」と、事実上の門前払いをされた。
いきなりつまづいた格好だけど、このまま引き下がるわけにもいかない。
教わったメールアドレスに宛てて取材の申し込みのメールを送ったあと、あたしは地元の新聞社で、去年の秋からの記事を調べてみた。
記事の拾い読みの中から、シュレーディンガー博士が結婚したことがわかった。あるいは、そのあたりがガードの固さの原因なのかもしれない。
取材の初日は、それで終わった。完全な空振りだった。
ジョセフに送った報告メールへの返信は、翌朝になってから届いた。
『世話になった女性と食事をしていたので、返信が遅くなった。本人が無理なら、できるだけCERNの上層部と接触するように』
簡潔というレベル通り越して、無情と言いたくなるような指示だ。
今さら優しい言葉を期待していたわけではない。ただ、ジョセフには広範囲な人脈があって、献身的に動いてくれる人も多いらしい。だいたい今回の取材だって、事前にある程度のことを把握していたようなふしがある。あるいはCERNにも知り合いの一人や二人いるのかもしれない。それなら、力を貸してくれても良さそうなものだ。
それにしても……。
――女性と食事って、あの堅物が?
ジョセフは独身だが、あたしが知る限り、プライベートな女性関係はまったくない。むしろ、あたしを含めて、女性の扱いは下手といっていいレベルだった。
そんなジョセフが、レストランで女性と向かい合っている姿を想像する。
二人の間に、いったいどんな会話が成り立つのだろう。眼鏡を光らせて黙り込むか、眉を寄せて時事問題を解説するか。いずれにせよ、ロマンティックな状況にはなりそうもない。
なによりも、あたしを残してニューヨークに帰ったのは、番組に穴を開けたくないからだったのではないのか。
ため息をひとつ落としてメーラーを起動すると、あたしは一気に文字を打ち込んだ。
『可愛い生徒をスイスに置き去りにしておいて、ご自分だけそんないいことをなさってたんですね。まあいいですけど。
それより、バレンタインデーに差し上げたショコラーデ・トルテのお返しだと思って、すこし力を貸してください。あたし一人ではCERNの上層部になんてコンタクトできません。先生の取り柄は人脈くらいしかないんですから、なんとかしてくださいね。
だいたい先生は、女の子の扱い方を知らなさすぎです。そんなことだから、いい歳をしてまだ独身なんですよ。ほんとに朴念仁なんだから』
メールにすぐに既読になったが、返信はなかった。たぶん、いや間違いなく、手を貸すつもりはないのだ。
途方に暮れたあたしは、スマホの画面にベルナルドさんのアドレスを呼び出した。
けれど、いざとなったら、メールを送信する決心ができなかった。
いつもなら……他の人なら、こんなことはないのに。あつかましいヤツだと思われるのが嫌だった。
スマホの電源を入れたり切ったりしながら迷い続け、最後は祈るような気持ちで送信ボタンをタップした。
09-2 [BH ̄] 02
「ベルナルド……」
幼いころから聞きなれた声が、受話口からぼくを呼んだ。
「やるべきことは、わかっていますね。本来ならあなたが、この立場にいたはずなんですよ」
それはもう済んだ話じゃないか、と口まで出かかった言葉を、ぼくは飲み込んだ。
古い因習に縛られた家だった。
それが嫌で、ぼくは大学卒業と同時に学問の世界に飛び込んだ……いや、逃げ込んだというべきか。
しかし、そのつけは、いつまでもぼくを追いかけてきた。
「ああ、わかっているよ。……姉さん」
電話口から乾いた笑い声が聞こえた。
「それなら結構。アルバート・シュレーディンガーの発明は、この世界のバランスを崩しかねない危険なものです。だから、かならず潰しなさい。できないとは、言わせませんからね」
務めを果たさなければどうなるか、今までにいやというほど思い知らされてきた。
通話を終わらせてから、ぼくはため息とともにつぶやく。
「わかっているさ。ぼくの居場所が、ここではなくなるんだろう……」
冷めてしまったエスプレッソを飲み干して、アルバート・シュレーディンガーから受け取った、数式と実験プロトコルのメモに目を落とす。
たとえ実家からの要求がなくても、検証しなければならない案件ではある。
実験の追試は機材がそろえばできるだろうが、問題なのは数式の検証だ。もとの式だって難解きわまりないものだったのに、修正を加えた式は虚数の操作を駆使していて、数学者でもなければ手に負えない代物になってしまっている。
あらためてアルバートの天才を思い知らされたが、困ってばかりもいられない。
ぼくは、数学が得意な研究者に声をかけて、検証チームを結成した。
それなりのメンバーを集めることはできたが、アルバートに対抗するのは荷が重いように感じる。
案の定、数式を見せた途端、全員の顔に厳しい表情が浮かんだ。
「この定数に虚数を導入するなんて、考えたこともないですよ」
「これ、そもそも解けるんですか」
そして、まる一日かけても、検証の糸口もつかめなかった。やはり、天才に対抗するには、こちらにも天才がいなければならないのだ。
そう思った時に、思い浮かぶ顔があった。
『この式だけ、おかしいと思います』
そう言って、ぼくを見上げた少女。彼女なら、あるいは……。
けれど、彼女はいま、遠く離れたニューヨークにいるはずだ。専門の研究者ならばともかく、ジャーナリストを目指している学生を招聘すると言っても、理事会が認めないだろう。
こうなったらやむを得ない。
ぼくはスマホのメーラーを起動した。そして、彼女のアドレスを検索しようとして、一通のメールが届いていることに気がついた。
メールを読み終えると同時に、ぼくは彼女に電話をかけた。
09-3 [AK ̄] 07
驚いたことに、ベルナルドさんからすぐに電話がかかってきた。
『シュレーディンガー博士の数式の検証をしようと思っている。すぐにCERNに来てほしい』
願ってもない話だったけれど、タイミングといい内容といい、できすぎていて運命よりも作為を感じた。
でも、そんな疑問は、CERNの玄関まで出迎えにきてくれたベルナルドさんの笑顔を見たら、どうでもよくなった。
「このタイミングでアヤノがジュネーブに来ているというのは、運命を感じるよ。もちろん、アヤノの仕事を優先してくれていい。機密情報でなければ、記事にしてもかまわないよ」
「ありがとうございます。でも、あたしでお役に立てるんでしょうか」
「このまえも話したと思うけど、アヤノは特別だよ。ぼくに力を貸してくれないか」
お世辞だとわかっていても、そんなふうに言ってもらえたら、断ることなんてできるはずがない。もしかしたらジョセフの差し金なのかもしれないけど、あたしの返事は決まっていた。
はい、と答えようとしたあたしの声は、けれど別の声にかき消された。
「ハイゼンベルク博士、ちょっといいかしら?」
聞き覚えのある声は、ニーナ=ルーシー・ボーア博士だった。
振り返ると、彼女は驚いたように目を丸くした。
「あら、いつかの学生さんね。CERNにいるということは、大学を卒業なさったのかしら」
「いいえ、まだです」
平静を装って受け答えしたものの、あたしの中にくすぶっていた感情が、じわりと熱を帯びた。
「それなら、なんのご用件?」
「ぼくが招いたんですよ。検証作業に協力してもらおうと思いましてね」
あたしの代わりにそう答えたベルナルドさんに、ボーア博士は薄笑いを向けた。
「部外者の、しかも専門家でもない人間に、なにを協力させるというのですか。もしハイゼンベルク博士の個人的な動機だとしたら、あまり感心しませんわ」
その言葉の意味がわからないほど世間知らずではないつもりだし、そんなふうに勘ぐられるほどベルナルドさんと親密でもない。
ボーア博士の思惑を推測するより先に、あたしの中に膨大な熱量をともなった嫌悪感が充満した。
もしこのとき、ベルナルドさんが機先を制してくれなければ、あたしは本気でくってかかっていたかもしれない。
「ジャーナリストとして招いたんですよ。客観的な立場からの意見が欲しくてね。彼女の数学の才能は、貴女もよくわかっているはずだ。それとも、ぼくが公私混同をしている、とでも言いたいんですか」
ボーア博士が息を飲むのがわかった。
ベルナルドさんの言葉づかいは丁寧だけど、どちらの立場が上なのかは、なんとなく理解できた。
わかりました、とボーア博士は声を落とした。
あたしは、すこしだけ溜飲をさげた。
「ただ、ご理解いただいていると思いますが、シュレーディンガー博士の研究成果には、特許が認められています。なにかあったらCERNだけの問題ではすまなくなりますから、くれぐれも慎重にお願いします。ああ、それから……」
ボーア博士は、そこで言葉を切って、わざとらしく胸を張ってみせた。
ニットの上からでもそれとわかるほどの量感をもった膨らみが、あたしを見下していた。
「結論は今月中にお出しになった方がいいですわよ。四月になれば、CERNもいろいろと変わることになりますからね」
その言葉は、ベルナルドさんの立場が危うくなる、いやそのように仕向けるつもりだと、あからさまに告げているようにしか聞こえなかった。
熱をため込んだ感情とはうらはらに、あたしの理性が冷ややかに告げた。
この女は敵だ、と。
そして、あたしはベルナルドさんの味方をしよう、と。