表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/53

Article 09 : interference - 干渉の構図

09-1 [AK ̄] 06


『シュレーディンガー博士の研究に関する、CERNの動向を取材するように』


 ジョセフから指示を受けてジュネーブに来たあたしは、まずCERNの広報担当を訪ねて、シュレーディンガー博士への取材を申し込んだ。

 女性職員の応対は丁寧だったけれど、淡々とした口調で「博士への取材は、現在お受けしていません。ご質問は電子メールでお願いしています」と、事実上の門前払いをされた。


 いきなりつまづいた格好だけど、このまま引き下がるわけにもいかない。

 教わったメールアドレスに宛てて取材の申し込みのメールを送ったあと、あたしは地元の新聞社で、去年の秋からの記事を調べてみた。

 記事の拾い読みの中から、シュレーディンガー博士が結婚したことがわかった。あるいは、そのあたりがガードの固さの原因なのかもしれない。

 取材の初日は、それで終わった。完全な空振りだった。


 ジョセフに送った報告メールへの返信は、翌朝になってから届いた。


『世話になった女性と食事をしていたので、返信が遅くなった。本人が無理なら、できるだけCERNの上層部と接触するように』


 簡潔というレベル通り越して、無情と言いたくなるような指示だ。

 今さら優しい言葉を期待していたわけではない。ただ、ジョセフには広範囲な人脈があって、献身的に動いてくれる人も多いらしい。だいたい今回の取材だって、事前にある程度のことを把握していたようなふしがある。あるいはCERNにも知り合いの一人や二人いるのかもしれない。それなら、力を貸してくれても良さそうなものだ。

 それにしても……。


 ――女性と食事って、あの堅物が?


 ジョセフは独身だが、あたしが知る限り、プライベートな女性関係はまったくない。むしろ、あたしを含めて、女性の扱いは下手といっていいレベルだった。

 そんなジョセフが、レストランで女性と向かい合っている姿を想像する。

 二人の間に、いったいどんな会話が成り立つのだろう。眼鏡を光らせて黙り込むか、眉を寄せて時事問題を解説するか。いずれにせよ、ロマンティックな状況にはなりそうもない。

 なによりも、あたしを残してニューヨークに帰ったのは、番組に穴を開けたくないからだったのではないのか。

 ため息をひとつ落としてメーラーを起動すると、あたしは一気に文字を打ち込んだ。


『可愛い生徒をスイスに置き去りにしておいて、ご自分だけそんないいことをなさってたんですね。まあいいですけど。

 それより、バレンタインデーに差し上げたショコラーデ・トルテのお返しだと思って、すこし力を貸してください。あたし一人ではCERNの上層部になんてコンタクトできません。先生の取り柄は人脈くらいしかないんですから、なんとかしてくださいね。

 だいたい先生は、女の子の扱い方を知らなさすぎです。そんなことだから、いい歳をしてまだ独身なんですよ。ほんとに朴念仁なんだから』


 メールにすぐに既読になったが、返信はなかった。たぶん、いや間違いなく、手を貸すつもりはないのだ。


 途方に暮れたあたしは、スマホの画面にベルナルドさんのアドレスを呼び出した。


 けれど、いざとなったら、メールを送信する決心ができなかった。

 いつもなら……他の人なら、こんなことはないのに。あつかましいヤツだと思われるのが嫌だった。

 スマホの電源を入れたり切ったりしながら迷い続け、最後は祈るような気持ちで送信ボタンをタップした。



09-2 [BH ̄] 02


「ベルナルド……」


 幼いころから聞きなれた声が、受話口からぼくを呼んだ。


「やるべきことは、わかっていますね。本来ならあなたが、この立場にいたはずなんですよ」


 それはもう済んだ話じゃないか、と口まで出かかった言葉を、ぼくは飲み込んだ。

 古い因習に縛られた家だった。

 それが嫌で、ぼくは大学卒業と同時に学問の世界に飛び込んだ……いや、逃げ込んだというべきか。

 しかし、そのつけ(・・)は、いつまでもぼくを追いかけてきた。


「ああ、わかっているよ。……姉さん」


 電話口から乾いた笑い声が聞こえた。


「それなら結構。アルバート・シュレーディンガーの発明は、この世界のバランスを崩しかねない危険なものです。だから、かならず潰しなさい。できないとは、言わせませんからね」


 務めを果たさなければどうなるか、今までにいやというほど思い知らされてきた。

 通話を終わらせてから、ぼくはため息とともにつぶやく。


「わかっているさ。ぼくの居場所が、ここ(・・)ではなくなるんだろう……」



 冷めてしまったエスプレッソを飲み干して、アルバート・シュレーディンガーから受け取った、数式と実験プロトコルのメモに目を落とす。


 たとえ実家からの要求がなくても、検証しなければならない案件ではある。

 実験の追試は機材がそろえばできるだろうが、問題なのは数式の検証だ。もとの式だって難解きわまりないものだったのに、修正を加えた式は虚数の操作を駆使していて、数学者でもなければ手に負えない代物になってしまっている。

 あらためてアルバートの天才を思い知らされたが、困ってばかりもいられない。


 ぼくは、数学が得意な研究者に声をかけて、検証チームを結成した。

 それなりのメンバーを集めることはできたが、アルバートに対抗するのは荷が重いように感じる。

 案の定、数式を見せた途端、全員の顔に厳しい表情が浮かんだ。


「この定数に虚数を導入するなんて、考えたこともないですよ」

「これ、そもそも解けるんですか」


 そして、まる一日かけても、検証の糸口もつかめなかった。やはり、天才に対抗するには、こちらにも天才がいなければならないのだ。

 そう思った時に、思い浮かぶ顔があった。


『この式だけ、おかしいと思います』


 そう言って、ぼくを見上げた少女。彼女なら、あるいは……。

 けれど、彼女はいま、遠く離れたニューヨークにいるはずだ。専門の研究者ならばともかく、ジャーナリストを目指している学生を招聘(しょうへい)すると言っても、理事会が認めないだろう。


 こうなったらやむを得ない。

 ぼくはスマホのメーラーを起動した。そして、彼女のアドレスを検索しようとして、一通のメールが届いていることに気がついた。


 メールを読み終えると同時に、ぼくは彼女に電話をかけた。



09-3 [AK ̄] 07


 驚いたことに、ベルナルドさんからすぐに電話がかかってきた。


『シュレーディンガー博士の数式の検証をしようと思っている。すぐにCERNに来てほしい』


 願ってもない話だったけれど、タイミングといい内容といい、できすぎていて運命よりも作為を感じた。

 でも、そんな疑問は、CERNの玄関まで出迎えにきてくれたベルナルドさんの笑顔を見たら、どうでもよくなった。


「このタイミングでアヤノがジュネーブに来ているというのは、運命を感じるよ。もちろん、アヤノの仕事を優先してくれていい。機密情報でなければ、記事にしてもかまわないよ」

「ありがとうございます。でも、あたしでお役に立てるんでしょうか」

「このまえも話したと思うけど、アヤノは特別だよ。ぼくに力を貸してくれないか」


 お世辞だとわかっていても、そんなふうに言ってもらえたら、断ることなんてできるはずがない。もしかしたらジョセフの差し金なのかもしれないけど、あたしの返事は決まっていた。

 はい、と答えようとしたあたしの声は、けれど別の声にかき消された。


「ハイゼンベルク博士、ちょっといいかしら?」


 聞き覚えのある声は、ニーナ=ルーシー・ボーア博士だった。

 振り返ると、彼女は驚いたように目を丸くした。


「あら、いつかの学生さんね。CERN(ここ)にいるということは、大学を卒業なさったのかしら」

「いいえ、まだです」


 平静を装って受け答えしたものの、あたしの中にくすぶっていた感情が、じわりと熱を帯びた。


「それなら、なんのご用件?」

「ぼくが招いたんですよ。検証作業に協力してもらおうと思いましてね」


 あたしの代わりにそう答えたベルナルドさんに、ボーア博士は薄笑いを向けた。


「部外者の、しかも専門家でもない人間に、なにを協力させるというのですか。もしハイゼンベルク博士の個人的な動機だとしたら、あまり感心しませんわ」


 その言葉の意味がわからないほど世間知らずではないつもりだし、そんなふうに勘ぐられるほどベルナルドさんと親密でもない。

 ボーア博士の思惑を推測するより先に、あたしの中に膨大な熱量をともなった嫌悪感が充満した。

 もしこのとき、ベルナルドさんが機先を制してくれなければ、あたしは本気でくってかかっていたかもしれない。


「ジャーナリストとして招いたんですよ。客観的な立場からの意見が欲しくてね。彼女の数学の才能は、貴女もよくわかっているはずだ。それとも、ぼくが公私混同をしている、とでも言いたいんですか」


 ボーア博士が息を飲むのがわかった。

 ベルナルドさんの言葉づかいは丁寧だけど、どちらの立場が上なのかは、なんとなく理解できた。

 わかりました、とボーア博士は声を落とした。

 あたしは、すこしだけ溜飲をさげた。


「ただ、ご理解いただいていると思いますが、シュレーディンガー博士の研究成果には、特許が認められています。なにかあったらCERNだけの問題ではすまなくなりますから、くれぐれも慎重にお願いします。ああ、それから……」


 ボーア博士は、そこで言葉を切って、わざとらしく胸を張ってみせた。

 ニットの上からでもそれとわかるほどの量感をもった膨らみが、あたしを見下していた。


「結論は今月中にお出しになった方がいいですわよ。四月になれば、CERNもいろいろと変わることになりますからね」


 その言葉は、ベルナルドさんの立場が危うくなる、いやそのように仕向けるつもりだと、あからさまに告げているようにしか聞こえなかった。

 熱をため込んだ感情とはうらはらに、あたしの理性が冷ややかに告げた。

 この女は敵だ、と。

 そして、あたしはベルナルドさんの味方をしよう、と。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ