Article 08 : wave motion - 止まらない波動
08-1 [AK ̄] 05
セントラルパークの桜が、蕾をつけはじめた。
爛漫に咲き誇り、絶頂の美をそのままに散華する。桜を見ると心が浮きたつのは、やはりあたしが日本人だからなのだと思う。
ダイナーの窓から摩天楼群を眺めていると、「おはよう、アヤノ」と元気のいい女性の声がした。
振り向くと、日焼けした頬にソバカスを散らせた顔が笑っていた。
「おはよう、アンジェラ。今日はオフ?」
「ノー。これから取材よ。ニューヨークでナンバーワンの新聞社で記者をやっていくには、のんびり休みなんてとってられないわよ」
不満だか自慢だかよくわからない台詞とともに、もとルームメイトはあたしの肩をぽんとたたいた。
「このあいだアヤノからもらった記事、けっこう評判が良かったよ。ほんと、助かったわ」
アンジェラに渡したのは、ダウンタウンの性風俗の実態を調査した記事だった。
かなり無理をした聞き込みの成果をまとめたのだが、ジョセフからはあっさり不合格だと言われた。ボツにするには惜しかったから、たまたまネタ切れしていたアンジェラに写真も含めて提供したのだった。
記事の融通は、この業界ではごくあたりまえのことだし、記者としてあたしの名前が出ることはないので、ジョセフも黙認している。
「アヤノは才能と経験のバランスが悪すぎるんだよ。まあ、スクールを修了できたら、コネがあるCNNくらいならいけるんじゃないかな」
ほめているつもりなのか、それともけなしているのか。適量よりやや多い毒気を含んだアンジェラの言葉に、あたしはあいまいに笑い返す。
「それは……。まだ、わからないよ」
「どうしたの、めずらしくネガティブじゃない。ああ、アイツのせいか……」
アンジェラが指差した液晶テレビには、CNNのモーニングショーに出演しているジョセフ・クロンカイトが映っていた。
「堅物のニュースキャスターだから、しかたないよ。気にしない、気にしない。ボツ記事でもいいから、どんどん私に回してよね。うちは、ゴシップにスキャンダル大歓迎のタブロイド紙だからさ」
そう言い残してダイナーを出ていくアンジェラの背中に、「そういうことじゃないんだよ」とあたしはつぶやく。
CMが終わって、テレビにはふたたびジョセフの顔が映った。
「さて、次のニュースです……」
もったいぶった間を置くのは、ジョセフのお得意の演出だ。
ざらついた画面の右下に、SBCの文字が見える。おそらく、チューリッヒからの衛星中継だろう。
「民間企業とCERNが協同で開発していた、新型の量子コンピュータ『オラトリオ op.1』が完成したことが、関係者への取材で明らかになりました。本体の製造とソフトの開発を担当したのは、ナノテック・エレクトロニクス社で……」
聞き覚えのある会社名に、あたしは思わず耳をすませた。ここでその名を、また聞くことになるとは思わなかった。
「一号機は、香港に拠点を持つ軍需企業グローバル・ユリウス社に納入されることが決まっています。従来は数か月を要したシミュレーションを、大幅に短縮できることが期待されています」
軍需企業という言葉に、あたしは気味の悪いもやのようなものを感じた。
産学協同という言葉以上に、悪い意味でのボーダーレス化が進んでいるのではないか。あたしたちは――すくなくとも科学に関わる者は、ノーベルやオッペンハイマーの事績から、もっと多くの事を学ぶべきなのではないか。
けれど、それを記事にして訴えたところで、明日から世界のありかたが変わるわけじゃない。ジョセフのように有名なジャーナリストならまだしも、無名で半人前のあたしが書く記事など、情報の海に落ちた一滴の雨粒のようなものなのだ。
なんだか空しいな、と思った。
もういちど、さっきよりもすこしだけ深いため息をつく。
そんなあたしの気持ちを見透かしたかのように、スマホが震えてジョセフからの電子メールが届いた。
『フォアエスターライヒ公国の取材に同行してもらうので、一週間ほど滞在する準備をして明日の便でチューリッヒに来るように。航空券はCNNの総務で受け取りなさい』
相変わらずの無茶な注文に、もうため息も出なかった。
日帰りじゃないだけ、まだましかな。そう思ってしまった自分に、あたしは思わず苦笑いをした。
チューリッヒ国際空港でジョセフと合流したあたしは、そのままフォアエスターライヒ公国に向かった。
鉄道でスイス西端の町ザルガンスまで行き、公国が運行するリムジンバスに乗り換える。
濃緑の車体に双頭の鷲の紋章が描かれたベンツのスーパーハイデッカーは、ライン川の支流沿いをさかのぼり、緑の森と丘に抱かれた盆地の町に着いた。
公国の首都、エーデルワイス・アム・オーバーラインだ。
高い尖塔のある大聖堂をとり囲むように、白壁と三角屋根の瀟洒な建物が軒を並べている。
広場に設えられた青銅や大理石の噴水が清涼な水音をたて、吹きわたる風がオークやポプラの梢を騒がせる。
カリョンの音に飛び立った鳩の行く先に目をやると、岩山の上から街を見下ろす白亜の優美な城館が見えた。
「素敵な街ですね。観光なら嬉しいんですけど」
「残念だが、仕事だ。この国には裏の顔がある。そうだろう?」
ジョセフの問いに、はい、とあたしは答える。
取材だと聞いていたから、ニューヨークからチューリッヒまでの機中で、この国のことはあらかた調べてきた。
フォアエスターライヒ公国。
九十平方キロの国土に、三万人の人口を有する小さな国だ。
その歴史は古く、神聖ローマ帝国にはじまる。歴史のうねりの中で独立を保ち続け、現在もEU非加盟の永世中立国だ。
資源や産業には乏しいが交通の要衝であり、歴代の領主は経済立国政策を推し進めた。その結果、国民一人当たりGDPが十万ユーロで日本の約三倍に達する、世界有数の裕福な国になった。
成功を収めた政策の要となっているのが、タックスヘイヴンと呼ばれる富裕者優遇税制と、預金者情報の秘匿が可能な無記名性預金制度だ。
グレーではあるが魅力的な二つの制度の恩恵を受けるために、多くの法人企業がこの国に本社を置き、富裕な外国人がこぞって住民登録をしている。その数は、国籍を持つ国民の二倍以上になるといわれていて、結果として莫大な税金が国庫を潤すことになるという仕掛けだ。
「そんな方法で国家が成り立つなんて……。なんだかちょっと、ずるいですよね」
あたしの感想にジョセフは、ああ、と満足そうにうなずいた。
「地政学的に見れば、経済に特化するしかなかったのだろうがね。とはいえ、領主のエリザベート四世女大公みずからが投資顧問会社を経営しているというのは、もはや国家レベルの錬金術だよ。今回の取材で、その正体を見きわめたい。アヤノのドイツ語に期待しているよ」
それから四日間、あたしはジョセフに連れられてこの町を歩き回った。
企業のオフィスを訪問して営業状況を質問し、銀行に出向いて預金や送金の手続きや取扱い額を調べる。
無記名口座の実態を探るために、国営のフォアエスターライヒ銀行で口座を作ってみることにした。受付の女性スタッフの話によると、一万ユーロ以上の預け入れをするのなら、旅行者であっても口座の開設と同時に滞在許可証の発行ができるということだった。
何枚かの書類を書き、写真撮影と指紋のスキャンがあって、待つこと小一時間でIDカードとデビット機能付きのキャッシュカードが発行された。公国の紋章とエーデルワイスの花が描かれた、きれいなデザインのカードだった。
さっそくその口座で、ジョセフの口座とお金のやりとりをしてみた。取引明細には名前ではなく、口座番号だけが記載されていた。ジョセフは、納得したように何度もうなずいた。
その後の取材も、警察の捜査にも似た地味で面白みのないものだったけど、その成果にジョセフは満足しているようだった。
最終日の取材を終え、ザルガンスへのリムジンバスを待つ間に、あたしとジョセフはカフェに入った。
窓際の席につくと、ジョセフはノートパソコンを開いた。
「すごい国だね、ここは。登記されている会社のほとんどがペーパーカンパニーで、軍需産業、IT企業、総合商社、石油メジャーに金融コングロマリットの関連会社ばかりだ。そして、匿名性の高い銀行口座を、多額の金が動き回っている。マネーロンダリングの温床と言われても、しかたがないだろうね」
そう言ってキーボードを打ち始めたジョセフの口から、『ムーンリバー』のハミングが流れ出した。
あたしは窓の外に目を向けた。
なだらかな丘陵の彼方には、雪を頂いた山並みが夕陽を浴びてそびえていた。あのふもとはマイエンフェルトやサンモリッツなどの、スイスを代表する観光地だ。国境を超えて東に行けば、ロマンティック街道の終点であり、ノイシュヴァンシュタイン城やヴィース巡礼教会がある南バイエルンも近い。
こんなところまで来ているというのに、明日にはもう帰らなければならない。
そう思うと、胸がきゅっと苦しくなった。
今回の取材も、手抜きはいっさいしていない。けれど、今までのように一心不乱というわけではなかった。
これじゃない、という心の声が、折に触れて聞こえてくるのだ。
その理由が、ここに来てわかったような気がする。それはたぶん、晩秋のジュネーブに置き忘れてきたもののせいなのだ。
あたしの脳裏を、ベルナルドさんの笑顔が過る。
ここからジュネーブまでは、鉄道でほんの数時間の距離だ。あのときの忘れ物がどうなったのか、確かめに行けないだろうか。あのひとに会いに行けないだろうか……。
窓ガラスに映る自分の顔が、ひどく子供っぽく見えて、あたしははっとする。
なんてばかなことを。この取材の費用は、たぶんCNNから出ている。そんなわがままが通るはずがない。
そう思ったときだった。
BGMのように聞こえていたハミングが、ふっと止んだ。ノートパソコンの画面を見つめたまま、ジョセフの眉根に皺が寄る。
「アヤノ……」
数百万人の視聴者を虜にする声で呼びかけられた。けれど、あたしには嫌な予感しかなかった。
「予定変更だ。私はニューヨークに帰るが、アヤノにはこのまま取材を続けてもらう。次の行先は……」
ほら、やっぱり。こんどはどこに行けと言われるのだろう。
顔を上げたジョセフは、光る眼鏡の奥に表情を隠して、その町の名前を口にした。
「ジュネーブだ」