Article 07 : entanglement - もつれあう絃
07-1 [AS ̄] 03
「アルバート・シュレーディンガーさん。あなたはこの女性と結婚し、人生の伴侶としての務めを果たすことを誓いますか?」
スーツ姿の市職員はそう言うと、おだやかな笑顔をうかべた。
僕は、となりに座っている最愛の女性に目を向ける。白いドレスを着た彼女が、ダークブラウンの瞳で見つめかえしてくる。
こみあげてきた感情は、喜びだけではなかった。言い尽くせないさまざまな思いを、僕はそっと胸に沈める。
そして、答えた。
「はい。誓います」
結婚証明書にサインをして、おたがいの指にリングをはめ、そしてキスをする。ウィーン市役所の一室にしつらえられた会場に、拍手の音が鳴りひびいた。
正装して集まった若い男女――社交界を代表するような名士や貴族の子女たちは、すべて彼女の友人や知人だ。そしてその最前列に、和装をした二人の日本人――彼女の両親がいた。
僕は彼女にあこがれ、彼女は僕を慕ってくれていた。だが、つい一年前までは、こんな時が訪れることは望むべくもないと思っていた。
僕と彼女との交際や結婚には、大きな障壁があったのだ。
彼女の父親は日本の外交官で、母親は名家の娘だった。彼女は生まれたときから、いわゆる上流階級に属する人間だった。
僕はといえば、生まれてまもなく、名前もつけてもらえないままに、捨てられた子どもだった。僕が施設で育ったことを知った彼女の母親は、あからさまに僕を彼女から遠ざけようとしたのだった。
けれど彼女は――どこにそんな強さを秘めていたのか、母親に正面から盾突くことになっても、自分の思いを貫き通した。
センセーショナルな研究成果とPh.D(哲学博士)の称号を携えて、結婚の申込みに出向いた僕を、彼女の母親はようやく笑顔で迎えてくれた。
「だいじにしてもらうのよ、泉美」
僕とイズミは、父親と母親に向かって、そろってお辞儀をする。
それは、果たせなかったオーパンバルでのデビュタントの代わりであり、僕の立つ場所がシフトしたことの証だった。かつてイズミとの間に立ちはだかっていた身分の差は、今日からは僕にとって大きな後ろ盾になってくれるのだ。
イズミとその家族が日本人であったことは、僕にとってほんとうに幸いだった。
市役所の玄関を出ると、薄日が差す空から小雨が降り注いでいた。
「結婚式に雨が降るなんて……」
空を見上げたイズミは、その表情をわずかに曇らせた。
僕は彼女に、心からの言葉を贈った。
「この国では、結婚式に雨が降るのは幸運だと言われている。この雨のおかげで、僕たちはもう涙を流すことはないのだから」
挙式を終えて、一週間ぶりにCERNに戻った僕を出迎えたのは、ベルナルド・フォン・ハイゼンベルク博士からの呼び出しだった。
「結婚おめでとう。もっとゆっくりしてくるのかと思ったよ」
「今はいろいろと、することがありますからね。落ち着いたら、日本に新婚旅行に行こうと思ってます」
うん、とうなずいたハイゼンベルク博士は、一枚のルーズリーフを開いて見せた。それが僕の波動方程式の解法を記したものであることは、すぐに分かった。
「解が存在しない」と、丸みをおびた文字で書かれている。
僕の脳裏に、記者会見で質問を投げてきた女性記者――アヤノの姿がよぎる。意志が強そうな瞳と、可愛らしい顔立ちの女の子だった。ニーナにやり込められて立ちすくんでいたが、あのあとこの人が接触していたというわけだ。さすがに抜け目がないな、と思う。
「ご心配なく。忘れたわけではありません。数式の検証と改良には取り組むつもりですよ」
イズミとすごした新婚の数日は甘美な時間だったが、それにうつつを抜かしていたわけではない。アヤノにつきつけたられた問題は、虚数の操作でなんとかなりそうな目処はついている。
だが、ハイゼンベルク博士が続けた言葉は、まったくの不意打ちだった。
「それと、君たちの実験の追試をしてみたいんだ。プロトコルとデータを開示してくれないか」
僕は、心の中で舌打ちをした。
うかつだった。彼の立場を考えれば、この展開は想定しておくべきだった。
第三者による再現性が確認されて、はじめて実験結果は公認される。だから追試は必須なのだが、今はプロトコルやデータを開示できない事情がある。
僕は首を横に振るしかなかった。
「いえ、それはできません」
「どうしてだい?」
ハイゼンベルク博士の問いに、じつは、と僕は声を潜めた。
ここで下手に隠しだてをすれば、委員会に呼び出されかねない。それならば、可能なかぎり情報を開示するほうが得策だ。
「特許の審査中なんです。だから公開できるようになるまでに、三か月ほどかかると思います」
特許、特許と繰り返したあと、そういうことか、とひとりごちたハイゼンベルク博士の表情が、みるみる険しくなった。
「理事会の承認も受けずに、研究成果を特許申請したというのか。重大な規程違反だぞ。そもそも、君の理論はまだ……」
声を荒げるハイゼンベルク博士の言葉を、僕は途中でさえぎった。
「落ち着いてください、ハイゼンベルク先生」
この呼びかけは、意図した以上に効果があった。よほど意外だったらしく、ハイゼンベルク博士は返す言葉を失っていた。
「規則には違反していませんよ。特許申請しているのは、多重世界露出実験の成果じゃありませんから」
「じゃあ、なんだっていうんだい?」
「Non-inertial Pilotwave Unifier element(非慣性系パイロット波統合素子)――NPU。僕が考案した、常温稼働量子ビット素子の技術情報ですよ……」
そもそも僕が取り組んでいた研究は、エヴェレットの多世界解釈の検証ではなく、量子ポテンシャル理論を応用した量子ビット素子の開発だった。
量子ビット素子は、量子理論に基づいて動作するコンピュータの要となる部品で、世界中の研究所や企業がその開発にしのぎを削りあっているものだ。すでに実用化されている素子もあるが、超低温状態でないと動作しないため、取り扱いが難しい代物だった。
僕が開発したNPUは、素子を低重力下に置くことで常温動作を可能にしたものだった。量子コンピュータの性能向上と省エネルギー、それに小型化を両立させるためのブレークスルーとなる技術だ。
エレクトロニクス業界、とくに量子コンピュータを手掛けている企業からすれば、これは垂涎の的だ。特許を取得するのは、当然のことなのだ。
「……実験装置になったSoC『ヘラクレスの柱』も、そのコアであるNPUも、ナノテック・エレクトロニクス社の資金と設備を使って製造したものなんです。だから特許が下りるまで、データを公表することはできないんですよ」
「企業秘密、というわけか。CERNの基本方針は産学官協同だ。それを持ち出されると、あまり厳しいことも言えないな」
それにしても、とつぶやくと、ハイゼンベルク博士は窓の外を見やった。彼方に連なる稜線は、降り出した雪のせいでぼんやりとかすんでいた。
「エヴェレットの多世界解釈に、ヘラクレスの柱……。『テルスノヴァ・プロジェクト』の遺産ばかりだな。ボーア博士は、並行世界の探索をまだあきらめていなかったんだね」
「彼女にとっては、思い入れのあるプロジェクトだったようですね。いずれにせよ、僕にとってあの実験は副産物でしかないんです。まあ、あちらが派手に取り上げられたおかげで、NPUの機能試験の方は目立たずにすみましたがね」
「あいかわらずのやり口だね。そうやって不要になれば、彼女も切り捨てるのかい?」
ハイゼンベルク博士の言葉は辛辣だった。だが僕に向けられた青い目に、非難めいた色はない。
世間知らずではないし、話のわからない人でもない。どちらかと言えば、敬愛すべき学者だと思う。だが……。
なにも答えを返さない僕に、ハイゼンベルク博士は肩をすくめた。
「まあいい。ただ、ひとつだけ忠告しておくよ。ああいう企業には、あまり深入りしないことだ。彼らとの関係を誤れば、身の破滅につながるからね」
その貴公子然とした言いぐさだけは、無性に癪にさわるのだ。
誰もがあなたのように、生きられるわけではない。だから僕は、あなたに……。
「なるほど。それが『テルスノヴァ・プロジェクト』をつぶした理由でしたか」
つい、そんなことを口走っていた。
ハイゼンベルク博士の表情から、一瞬で笑みが消えた。
「いまのは、どういう意味だい?」
つまらないことを言ったと後悔したが、もう遅かった。振り上げた拳の納めどころを、僕は見つけることができなかった。
「言葉通りの意味ですよ。ボーア博士から聞きました。あなたが理事会で反対に回り、一票差で計画は中止になったのだと」
「そのとおりだよ。CERNの貴重なリソースを、あんな荒唐無稽な計画に使うわけにはいかないからね。ぼくは自分の責任を果たしただけだよ」
たしかにそれは、正論だ。
だが、僕からすれば、そんなものはただのきれいごとにすぎない。
「あなたの責任? 御冗談を。CERNへの影響力を見せつけたい、ご実家の意向だったのでしょう」
ハイゼンベルク博士は、絶対零度のまなざしで僕を一瞥すると、なにも答えずに背を向けた。
彼が出て行ったドアは、大きな音をたてて閉ざされた。