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Article 06 : irreversibility - 不可逆な午後

06-1 [MP ̄] 01


 稟議書の決裁権者欄に『マクシミリアン・プランク』とサインをして、私は椅子の背もたれに身体を預けた。

 ひと息ついてから、受話器をとって秘書を呼ぶ。


「書類への署名が終わったから、取りに来てくれ。……ついでに熱いコーヒーを頼めるかな」


 待つほどもなくノックの音がした。

 もう書類を取りに来たのかと思ったら、入ってきたのはニーナ=ルーシー・ボーア博士だった。

 長い茶色の髪をサイドアップにして、カットソーとキュロットを合わせた装いは、三十代後半になる彼女を十歳以上は若く見せていた。

 そして、誘うようにうるんだ瞳と、濡れたように艶のある唇は、科学者には過分な色気を漂わせていた。

 彼女は私の目の前に立つと、ふっと息を吐きだしてから、用件を口にした。


「このあいだお話したことは、考えてもらえましたか?」

「所長選のことかね」


 はい、と彼女は抑揚のない声で答えた。


「八年間のあいだ、大きな問題も起こさずにCERNをリードしてきたことは、ご立派ですわ。ですが、歴代の所長で三選された方はいませんし、もうお歳ですから、そろそろごゆっくりなさってはいかがかと思いまして」


 彼女の言うとおり、来年の三月いっぱいで終わる所長の任期は、おおむね平穏だったといえるだろう。

 旧式の素粒子加速器から新型のハドロン衝突型加速器への更新事業も、無事に終わらせた。

 齢すでに六十を超え、後進に道を譲るべきタイミングではある。

 だが、それをこの女に宣告されるのは、じつに不愉快なことだった。


「要するに君は私に、早く引退しろ、と言いたいのだろう?」


 声に相当の険を含めたつもりだったが、彼女は平然と答えを返してきた。


「ええ。こんどの所長選には出ない、そう答えてくだされば、あなたは過分な仕事の重圧から解放されるわ。それに、学者人生の最後をCERN所長という肩書で飾れるのは、身に余る幸運だと思われませんか」


 見下されたような言葉は気に入らなかったが、その内容は正当な評価ではあった。


 私の学者としてのキャリアは、ミュンヘンの小さな研究施設から始まった。

 天賦の才能も有力なコネクションも持ち合わせていなかったが、時流に合致し評価されるジャンルを見極める目には自信があった。

 地味な基礎研究に明け暮れていたので、科学史に名を残せるような事績はない。だが、堅実なスタイルで研究成果を積み上げながら、有名な大学や研究施設を渡り歩いたあと、声がかかったCERNで思いがけなく所長の地位が転がり込んできた。

 右肩上がりの、幸運な学者人生だった。だが、まだ未練は少なからず残っている。


「辞める理由がないだろう? 学者に定年はないし、あと一期くらい所長を勤められる体力もある。それに、君たちの研究成果を見届ける必要もあるしね」


 彼女も、そしてシュレーディンガー博士も、この私が面倒を見た弟子たちだ。

 たしかに世間を驚かせる研究成果を上げたのは彼女たちだ。ノーベル物理学賞の受賞は確実、そんな話も、まことしやかにささやかれている。

 だが、あの実験のベースとなる研究の大半は、私がやってきたことだ。彼女たちの業績は、私の努力があってこそなのだ。だというのに、誰もそのことについて取り上げようともしない。

 ましてや……。


「所長の手を煩わせることはありませんから、安心して引退なさってください。あれは(・・・)私とシュレーディンガー博士の研究成果ですわ」


 本音が出たな、と私は思う。

 やはり、最初からそれが狙いだったのだ、この裏切り者は。


「そして君は、所長に納まるという筋書きかね。そうなれば、史上最年少の、しかも初めての女性所長の誕生というわけだ。ずいぶん偉くなったものだね、ニーナ」



06-2 [NB ̄] 02


 アルバート・シュレーディンガーのプレゼンが成功裏に終わってから、私の周囲はざわつきはじめた。

 あれは、標準理論検証グループの、いやCERN全体としてもここ数年で最も注目された業績だ。

 アルバートの評価とともに、その指導者としての私の評価も良好で、次期所長という声があちこちから聞こえてきた。

 私は押しも押されもしない、CERNの第一人者になったわけだ。

 なのに。


 親しいという印象を通り越して、なれなれしげにファーストネームを呼ばれ、私は思わず顔をしかめた。


「その名前で呼ぶのはやめてと言ったでしょう」

「いまさら、君を敬称付きのファミリーネームででも呼べと言うのかね?」


 多分に侮蔑を含んだその言葉は、私を不快にさせた。

 そちらがそのつもりなら、私もそうさせてもらおう。


「いいわ、マクシミリアン。ええ、あなたが言ったとおりよ。あなたの出番はもう終わったの。所長選で教え子に敗れて、惨めにここから去りたくないでしょう?」


 私の言葉に、今度はマクシミリアンが苛立ちを露わにした。


「いったい誰のおかげで、その地位と名誉が与えられたと思っているんだ。この私が目をかけていなければ、今ごろお前は……」


 その先に言おうとしていることを、この男の口から聞きたくはなかった。私は彼の言葉を途中で遮った。


「その言葉は、そのままお返しするわ。あなたこそ……」


 言いかけて、しかし、私は言葉を飲み込んだ。それを自分で言ってしまっては、あまりに惨めだ。

 深呼吸ひとつで、噴火寸前だった感情を押し殺すことに成功した。


「たしかに、あなたには恩義がある。だからこそ、あなたのためを思って、言ってあげているのよ。今ならまだ、ノーベル賞候補の科学者を育てた功労者として、惜しまれながら退任できるわ」


 自分で言いながら、ずいぶん嫌味な響きがあるな、と思った。冷静になったつもりだったが、やはり心の底は荒れていたのだろう。

 私はため息をついた。


「とにかく、来週までに結論を聞かせてちょうだい」


 そう言い残して部屋を出る。

 閉まったドアに、なにかがぶつけられたような重い音がした。



 研究室に戻ると、アルバートが待っていた。

 一週間ぶりにウィーンから帰ってきた彼の表情は、ずいぶんと落ち着きを増していて、私の心にさざなみが立った。


「お帰りなさい、アルバート。お姫さまへのプレゼンは、うまくいった?」


 あの実験にも立ち会ったエキセントリックな容姿の女、エリザベート・フィーア・ノエル=エンデ・フォン・フォアエスターライヒは、ウィーンに本社がある投資顧問会社のオーナーだ。ちいさな公国の領主でもあり、一存で巨額の資金を動かせるらしい。どこから聞きつけたのか、私たちの研究に目を付けて近づいてきたのだ。

 まだほんの小娘のはずだが、年齢に不相応な色気を漂わせていて、はたしてビジネスだけが目的なのか怪しいものだと思っている。


「オーケーだったよ、ニーナ。事業の件も含めて、継続的な出資を約束してくれた。君が心配しているようなことは、なにもなかったよ」


 そう、と私は答えた。そして、アルバートの言葉にほっとした内心を読まれないように、冷静さを装って言葉を続けた。


「こちらも、所長に最後通牒をつきつけてきたわ。これでもう、後戻りはできない。お互いにね」


 アルバートはうなずき、それから、と言って真剣な眼差しを私に向けた。

 ひとときの沈黙は、言うべきことを整理しているのだろう。

 ウィーンに帰郷したアルバートの目的は、プレゼンだけではなかった。もしそちらも上手くいったのなら、私としてはいろんな意味で区切りをつける時が来たということだ。


「結婚することになったよ」


 アルバートの口から出てきた言葉は、明瞭で簡潔だった。

 そして、必要にして十分だった。

 なんの感慨も湧かなかったし、心にわずかな痛みも感じなかった。それほどまでに――そう、思っていたよりずっと、私は深入りしてしまっていたようだ。


「だから……」


 その先に言おうとしていることを、この人の口から聞きたくはなかった。

 私は、彼の言葉を途中で遮った。


「わかっているわ。あなたとのことは、自分へのご褒美みたいなものよ」


 そう言ってから、すこし後悔する。

 私は、いつもこうだ。わかったようなフリをしてしまう。

 でも、決定的なことを、他者から告げられるのは嫌なのだ。聞いたところで、どうなるものでもないのだから。

 それに、他者の言葉で傷つくのは、もうたくさんだ。


「おめでとう、アルバート」


 あの男たちや、あの人とは違う。アルバートとは、お互いに対等のWin-Winの関係だった。最初から、こうすると決めていたのだから。

 でも……。


「ありがとう、ニーナ」


 アルバートが浮かべた微笑みに、私の心と身体の奥が疼いて微熱を帯びた。

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