Article 51 : complementarity - 相補性が導く先へ
51-1 [AK ̄] 47
二人と別れたあたしは、ジュネーブの領事事務所に出向いた。
帰国のための渡航書を申請するつもりだったけど、窓口で事情を説明すると、ちょっと待ってくださいと言われて、あたしのパスポートとカメラが出てきた。
コルナバン駅の近くの路上に落ちていたものを、親切な通りがかりの人が拾って届けてくれたらしい。一昨日のことだったという。
ずいぶん都合のいいことが起きるものだ、と思った途端に、スマホにスクルドから着信があった。
「盗られた物は、手許に戻った?」
やはりそうだったのか、とあたしは思った。
思えばナノテック・エレクトロニクスは、グローバル・ユリウス傘下の企業だ。彼女なら、これくらいのことは造作もないのだろう。
納得のいかないことではあるけど、あたしの被害はなくなったわけだし、ここで彼女に文句を言ってもはじまらない。
「いま受け取った」と答えたあと、せっかくだから、あたしは気にかかっていたことを話しておこうと思った。
「エリザベート四世殿下」と呼びかけると、彼女は上機嫌な声で「ノエルでいいわ」と答えた。
「じゃあノエル、ひとつ教えて。シュレーディンガー博士の実験、成功していたの?」
「さあね。わたしは物理学者じゃないから、そんなのわからないわ」
「それなら、なぜあなたは、テルスノヴァ・プロジェクトの成果を独り占めしようとしたの?」
ふうん、とノエルは感心したようにつぶやいたあと、「ねえ、アヤノ」と呼びかけてきた。声のトーンが、硬度を増したように感じた。
「あなた、プロメテウスを知ってる?」
ええ、とあたしは答えた。
ギリシャ神話に登場するティターン神族のひとりで、天のかまどから盗んだ火を人類に授けたとされている。
「あのおろか者と同じことを、シュレーディンガーにさせるわけにはいかないからね。あれは人類にとって、繁栄をもたらす福音であると同時に、破滅に導く呪いでもある。たとえ可能性にすぎないものであっても、まだ人類が手にする段階ではないと判断したのよ」
ずいぶん大仰な言い回しだけど、ノエルの言いたいことはわかる。
ただ、それを口にするノエル自身が、科学を軍需産業に転用している者たちの頂点に君臨している存在だ。そこには大きな矛盾がある。それに気づかない彼女だとは思えないのだが。
あたしの疑問を見透かしたように、「まあでも」と彼女は言葉を続けた。
「それをわたしが言うのも、おかしな話だけどね」
ノエルに先回りされて、あたしは「そうね」と返すしかなかった。
「ところで、そんなことをわたしから聞き出して、あなたはどうするつもりなの?」
続くノエルの問いに、あたしは「ごめんなさい」と前置きして、答えた。
「助けてもらったり、いろいろ良くしてもらったりしたことには感謝してる。でも、あたし、きっとあなたと敵対することになると思うの。だから……」
あたしの言葉を最後まで言わせずに、「いいんじゃない、それで」と彼女は口をはさんだ。その声音には、なんのわだかまりもなく、あたしは拍子抜けした。
「公の場では敵対していても、個人としてはよしみを通じているなんて、めずらしいことじゃないわ。だって、世界は敵と味方、そちら側とこちら側なんて、そんなに簡単な構造じゃないもの。あなたとわたしが関係を持ち、お互いに影響を与えあうように、ジャーナリズムと軍需産業もまた共存すべきものなの。ジャーナリズムによる批判が軍需産業を変革させ、軍需産業の変容がジャーナリズムにさらなる深度を求める。排他的に見えるふたつのものは、実は不可分で、相互に補いあうことで世界を作り上げているのよ」
「なんだか、うまく言いくるめられているような気がするけど」
「それは心外ね。これでも、この世界の安定のために、あれこれ気を配っているつもりなんだから」
うふふ、と含み笑いするノエルの声は、柔らかで艶やかだったけれど、得体のしれない暗黒をはらんでいるように感じた。そしてそれは、彼女との繋がりは絶つべきではない、という直感に結びついた。
そんなあたしの心中を、またしても見透かしたように、彼女は「そうそう」と付け足した。
「秋になったら、ぜひ遊びにいらっしゃい。極上のフェーダーヴァイザーをごちそうしてあげるわ。それから、このまえの続きをしましょう」
じゃあね、と言い残して、ノエルは電話を切った。
翌日の夕方、ジョン・F・ケネディ国際空港への直行便の搭乗手続き済ませたあたしは、チューリッヒ国際空港の出発ロビーにいた。
ニューヨークに戻れば、すぐにコロンビア大学の春学期が始まる。
あたし自身がゴシップの対象になってしまったから、しばらくは周囲からの好奇のまなざしは避けられないだろう。
がんばるしかないか、とため息を落としそうになったとき、背後から良く通る女性の声で「アヤノ」と呼ばれた。
聞き覚えのあるその声に、あたしの憂鬱は吹き飛ばされ、かわりに緊張が押し寄せてきた。
振り返ると、そこには眼鏡の奥から碧眼をあたしに向ける、ブロンドのショートヘアの女性がいた。
「マルガレーテさん……」
おそるおそる応えたあたしに、マルガレーテさんはいつものように険しいまなざしを向けてきた。そして、挨拶をするよりも先に、彼女の尖った声がした。
「ベルナルドがCERNに残ることになったわ。ほんとに、余計なことばかりしてくれるわね、あなたは」
聞けば、プランク所長が一連の事件の責任をとって退任する意向を固め、あとをベルナルドさんに託したいというオファーがあったらしい。
「いままでは下手な立ち回りで失敗ばかりしていたくせに、今回はどうしたことか正面突破をやってのけてね」
ベルナルドさんは、本家や分家の実力者たちに片端から連絡して、自身がCERNに残ることがハイゼンベルク家にとってどれだけ利益をもたらすかを、熱心に説得したという。
ついには皆が根負けして、しぶしぶ残留を認めたというのだ。
「理由を聞いたら、『アヤノに負けられないから』って。またしても、あなたのせい、というわけよ。何度も助けてあげたのに、そのお礼がこれなんて、ひどい話だわ」
いつもいじめられていたような気分になっていたけど、言われてみれば、ウィーン警察に捕まったときも、密会写真がネットに流出しそうになったときも、マルガレーテさんに助けてもらっている。
あたしは、素直に感謝と謝罪の言葉を述べた。
でも……。
そうか、ベルナルドさん、CERNに残ることになったんだ。
あたしはその決断とその結果が、心から嬉しかった。今回の事件では、失われたものが多すぎた。だから、ベルナルドさんが自身の望みを叶えたことは、せめてもの慰みだ。
「ベルナルドが所長代理になって、当面は理事会の合議制で運営をしていくらしいわ。まあ、結果としてみれば、CERNから経済界の影響力を一定程度は排除できたわけだし、きわめて有利な地位の見張り番を残すこともできたわけだから、良しとすべきかもしれないわね。どのみち、ベルナルドに政治は無理だし」
あたしは、ベルナルドさんがいつか話していたことを思い出した。ハイゼンベルク家から、産学連携の行き過ぎを監視する任務を与えられているのだと。
だとすれば、今回の結果は、マルガレーテさんにとって許容できる範囲のことなのだろう。
ただ、そんな政治的なことだけではない、なにか肩の荷を下ろしたような安堵感を、彼女は漂わせていた。
「ところで、あなたにひとつ、聞きたいことがあったのよ。さんざん助けてあげたんだから、答えてくれるわよね」
そう言われたら、断れるわけなんてない。
「はい」と答えたあたしに、マルガレーテさんは顔を近づけると、声をひそめた。
「アルバート・シュレーディンガーの理論についてなんだけど。ベルナルドは、現在の科学ではテルスノヴァ・プロジェクトの成功はない、と言っているの。あなたの意見を聞かせてくれるかしら」
ベルナルドさんの見立てが正しいと、あたしも思う。
けれど、アルバートさんの理論やNPUについては、未知数な部分が多すぎる。それに、科学と技術のイノベーションはとどまるところを知らない。近い将来に、どんなブレークスルーがあるか、それはだれにもわからないのだ。
そんなことを、あたしはマルガレーテさんに話した。
すこしだけ、うしろめたいことがあった。
あたしの答えを聞いたマルガレーテさんは、眼鏡の奥で碧眼に怜悧な光を浮かべた。
「そう、それならいいわ。代わりに、あなた向けのネタをひとつ、提供しましょう。……私たちハイゼンベルク家は、傾きすぎた天秤を戻して世界の均衡を保つ役割を担っている。それには、科学が危険な研究に暴走しないように見張ることも含まれているのよ。近いうちに欧州議会の下部組織として、政界と学会の連携を目的とした会議体を設置することになるわ。これはまだ、どこの報道機関も知らないことよ。その意味、分かるわね?」
マルガレーテさんの言葉尻をどう解釈すればいいのか、あたしには見当もつかなかった。
けれど、もしかしたら今回の事件の第一報をジョセフにもたらしたのは、このひとだったのではないか、と思った。もっとも、堅物のジョセフとマルガレーテさんに、どういう繋がりがあるのか、想像するのは難しかったが。
もう行かなくちゃ、と言って、マルガレーテさんはあたしに背を向けた。
歩きはじめて、けれどなにかを思い出したように振り向くと、彼女は目元に笑みを浮かべた。
「ベルナルドには味方が少ないの。ハイゼンベルク家にも、そしてCERNにもね。だからこれからも、あの子を……弟を助けてあげてちょうだい」




