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Article 05 : relativity - 彼と彼女の相対性

05-1 [BH ̄] 01


 ぼくに顔を向けたその女性――アヤノは、思っていたよりもずっと若く、幼いといってもいい顔立ちだった。

 大きなダークブラウンの瞳が、まっすぐにこちらを見ている。あどけなさが残る顔のなかにあって、その瞳はまちがいなく特異点だった。黒体輻射のような、抑えきれないエネルギーのほとばしりを感じる。


 アヤノの眉間に、きゅっと皺が寄った。

 やはりドイツ語は通じないか。

 あきらめてグッドアフタヌーンと言いなおそうとしたら、「あなたは?」と、きれいなドイツ語で聞き返された。

 ぼくは感心すると同時に、この人がドイツ語を理解できる幸運に感謝した。


「ぼくはベルナルド・フォン・ハイゼンベルク。ここで量子重力理論の研究をしているんだ」

「あたしは……」

「知っているよ。記者会見は傍聴していたからね。アヤノ、と呼んでいいかな?」


 戸惑うそぶりをみせながら、アヤノはこくんとうなずき、席を勧めてくれた。

 腰を下ろし、「ところで」と、ぼくは本題を切り出す。


「さっきの質問、もう一回言ってくれないか」

「え?」

「アヤノの着眼点は、じつに興味深い。ボーア女史のお気には召さなかったようだけどね。くわしく聞かせてほしいんだ」


 はい、と答えたアヤノは、ルーズリーフにボールペンを走らせた。説明をしながら解法を書き込み、式が成立しなくなる条件を示してみせた。


「この式だけ、おかしいと思います。どうでしょうか」


 そう言って、アヤノは首を傾げてみせた。

 ぼくは思わずうなった。この式だけ、だって?


「ちょっと待った。もしかして、さっきの会見の間に、あれだけの数式をぜんぶ解いたというのかい?」


 アルバート・シュレーディンガーが組み上げた難解きわまりない方程式群を、まるで入学試験の問題のように解いてしまったというのか。

 アヤノが無邪気な様子でうなずく。

 信じられないことだった。だが、それが事実であることを、ぼくは理解せざるをえなかった。


「いや、これは愚問というものだった。あの数式は、ぼくもさっきの会見ではじめて見たんだ。君はいったい、どこで数学を学んだんだい?」


 コロンビア大学の学生だと言っていたが、じつはプリンストン高等研究所あたりの研究員という可能性もある。

 しかしアヤノは、警戒する様子もなく、すんなりと答えた。


「数学を習ったのは、日本の公立高校です」

「日本の教育はじつに高度なんだね。それとも、君がオイラーなみの天才なのかな」

「いえ、学校教育のおかげです。あたしは普通に勉強しただけだから」


 謙遜ではなく、本気で言っているように見えた。どうも本人には、自覚がないようだ。やはり天才と呼ばれる類いの人種なのだろう。

 ぼくのなかで、アヤノへの興味が急速に膨らんでいく。

 こんな女性に会ったのは、初めてだ……。

 ぼくは心からの笑顔を、アヤノに向けた。


「そんなことはない、アヤノは特別だよ。君に対する評価はボーア女史と正反対だけど、君への言葉は彼女といっしょだ。ジュネーブに来ることがあったら、ぜひぼくの研究室に遊びにおいで」


 アヤノが破顔した。

 ひまわりの花が咲いたようだった。



05-2 [AK ̄] 04


 十一月のジュネーブは、日が短い。

 CERNをあとにしたのはまだ夕方といっていい時間帯だったけど、街は(すみれ)色に暮れなずむ空の下にあった。

 パリに向かうTGVリリアの指定席に座り、あたしはほっと一息をついた。


 あたしの質問が興味深いものだ、とハイゼンベルク博士は言っていた。

 現役の研究者が気にかけているということは、やはり的外れな質問ではなかったのだ。


 それにしても、量子重力理論とは。

 あたしは、あらためてCERNという研究所の懐の深さを思う。

 量子重力理論は、物理学の世界では、もっとも重要な研究課題だと言われている。しかし、そもそも理論の基本原理さえわかっておらず、検証や実験のための技術もない状態だ。理論の完成どころか、研究成果が上がるのかさえ怪しい。

 でもその理論は、素粒子を扱うミクロ系の物理学と天体物理のようなマクロ系の物理学――いまはまだ大きな隔たりがあるふたつの世界を結びつける、唯一の存在となるはずのものだ。

 そう思えば、あのひととの出会いには、なにか意味があるのかもしれなかった。


 それに、ちょっと気になるひとでもあった。

 君は特別だよ、そう言って、ハイゼンベルク博士は微笑みかけてくれた。

 幼馴染のアイツが大人になってもあんなふうにはならないだろうし、ジョセフにはありえない柔らかな物腰だった。

 スマホの電話アプリを起動して、アドレス帳を開く。Bernard Von Heisenberg という名前に、優しそうな笑顔が重なる。

 あんなひとに会ったのは、初めてだわ……。



 スマホの画面がブラックアウトして、あたしは我にかえった。

 そうだ、課題の記事を書かなくては。

 ミネラルウォーターをひとくち飲んで頭を冷やしてから、ノートパソコンを開く。


 アジェンダと格闘しながら、記事を仕上げていく。否が応でも、記者会見での出来事が思い出された。


 怒りはもう収まったけど、あたしの中にはボーア博士への熾火のような感情があった。

 冷静になろう、と思う。

 シュレーディンガー博士の様子は、やはりどこかおかしかったし、ボーア博士の切り返しも強引すぎた気がする。

 そしてそれは、あたしの中で、ひとつの疑念として結実した。

 もしかしたら、あの二人はすべてわかっていたのではないのか。

 だとしたら、なぜ発表を行ったのだろう。急がなければならない、なにかの事情でもあったのだろうか。


 TGVがパリに着く前に、記事は仕上がった。

 出来栄えに納得はできなかったけど、ジョセフに電子メールで送信した。

 そしてアジェンダに記載されているアルバート・シュレーディンガー博士のメールアドレスを宛先に指定して、一通の電子メールを書いた。

 数式に関する疑問について説明を求める内容だった。今度は誤魔化されないように、検証の過程も書き込んだ。そして、思いついた質問も書き足しておいた。なぜ発表を急ぐ必要があったのですか、と。

 まともな返信など期待できないだろうと思ったけど、ひとつ深呼吸をしてから送信のボタンをクリックした。



 ロンドンのホテルに帰り着いたときは、もう深夜だった。

 荷造りをしながら、TVをつける。ニュースでは、シュレーディンガー博士の発表が大々的に取り扱われていた。


「一部の学者からは、疑問の声も上がっているようですが」


 アナウンサーの問いに、物理学評論家という肩書の男が答える。


「いつでも、そういう保守的な人はいますよ。新しい理論についていけないんですな。かのアインシュタインでさえ、量子理論についていけなくて、異論ばかり唱えていたのですよ」


 スタジオに驚きを含んだ笑いが起こる。

 評論家を名乗る者が、こういう誤解を平然と口にするとは……。

 あたしは、悔しい思いがした。

 アインシュタインは、だれよりも量子理論を深く研究し、その発展に貢献した科学者だ。事実、彼のノーベル賞は相対性理論にではなく、光が粒子であることの研究に対して贈られており、その研究から量子理論は大きく前進したのだ。


 チャンネルを切り替える。

 こちらも新理論の話題だったが、中身に踏み込んだものでなく、表面的なことばかりだった。

 あの記者が質問したような、異世界旅行のことがまことしやかに取り上げられ、そういうテーマを扱った日本のライトノベルが紹介されたりしていた。

 別のチャンネルのワイドショーでは、どうやって取材したのか、シュレーディンガー博士のいきつけの店やら嗜好品の数々やらが、ネタに取り上げられていた。

 それをジャーナリズムとは認めたくなかったけど、話題優先主義のマスコミの実態であることも否定できない事実だった。



 スマホが震えて、ジョセフからの返信があった。

 non-acceptanceという一言だけが書かれていた。

 やはりそうかと、あたしはがっかりした。この一件はこれで打ち切りになり、明日からはまた新しい課題に取り組むことになるだろう。一日かけてジュネーブまで行ってきたのに、すべて無駄足だったということだ。


 あたしはスーツケースを開けて、大切にしまっておいたオリンパスの一眼レフカメラOM-1を取り出した。プロのカメラマンだった父から譲り受けたものだ。

 このカメラを手にしたとき、幼い心は、写真家になることを夢見た。そして、アイツとの出会いは、天文学に親しむ機会を与えてくれた。それらは高校生活の間に濾過されたり化合されたりして、いつしか科学系のフォトジャーナリストになるという、実現すべき目標が出来上がっていた。

 けれど、ジャーナリストになって、どんな記事を書きたいのか。いったいあたしは、どんなジャーナリストになりたいのか。それはまだ見えていない。


『あんた、学者が向いているよ』

『ぜひ僕の研究室に遊びにおいで』


 そんな言葉が、ふと心を過った。

 あたしは首を振って、カメラをセーターの間に押し込み、スーツケースを閉じた。

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