Article 44 : canonical commutation - 正準な取引
44-1 [AK ̄] 41
アルバートさんの手記は、残念ながら尻切れトンボのようになっていた。
その先がほんとうに知りたいところだったけど、事件の核心を推察するためのヒントと手掛かりはひととおり揃っていたように思う。
そして、あの告発文や、ひいてはあたしの記事の正しさを裏付けるものでもあった。
とはいえ、あれは一人の人間による、一方的な証言であることも事実だ。勘ちがいや記憶ちがいということもあるだろうし、他者の証言で覆されてしまう可能性もある。
それに、実験のあとに起きたことについて、やはり当事者の証言は欲しい。
せめて別の当事者からも事情が聞ければ、と思ったとき、あたしの脳裏にひとりの女性が思い浮かんだ。
ニーナ=ルーシー・ボーア博士だ。
もちろん、あたしと彼女との関係は完全に破綻しているし、そもそも彼女は行方不明で連絡すらとれない状態だ。すべての因果を見通す「ラプラスの悪魔」なら、彼女の行動すら把握できただろうけれど、量子理論による否認を待たずとも、そんな者は現実に存在しない。
だからボーア博士を探し出すのは、波動関数が描く無数の軌道から電子の位置を特定するのと同じくらいに、不可能なことかもしれない。
けれど、このまま諦めたら、得るものはなにもない。できるだけのことをやってみるべきだ。
あたしには「ラプラスの悪魔」ならぬ、未来を司る運命の女神が味方についている。この事件の背後に見え隠れする彼女なら、もしかしたら……。
「ねえ、スクルド。ボーア博士との面談、セッティングできない?」
あたしの依頼に、電話のむこうから、うふふっと悪戯っぽい含み笑いが聞こえた。
「どうしようかなぁ」
あたしはそれで、彼女がボーア博士の消息を知っている、あるいは探し出すことができるのだと確信した。だから、早々に切り札を使うことにした。
「意地悪するなら、ジョセフに言いつけるから」
「え、なんて言うつもりなの?」
「スクルドが手伝ってくれないって」
一瞬の間があって、あはは、という哄笑があたしの鼓膜に響いた。
「面白い子ね。いいわ、セッティングしてあげる。その代わり、対価をよこしなさい」
「対価?」
「ええ。彼女をあなたたちに会わせるとなると、こちらもリスクを負うことになる。だから、それなりの見返りは欲しいわ」
つまりは取引ということなのだろう。
当たり前と言えば、当たり前のことだ。エージェントたちとジョセフの関係が、これで納得できた。
「あたしは何を提供すればいいの?」
「あなた自身よ」
「え……」
「冗談よ。なにか有用な情報と引き換えにしましょう」
ちょっと残念だったけど、その条件ならば妥当だと思った。けれど、いったいどんな情報なら、彼女は満足するのだろう。
「情報って言っても、あたしが持っている程度のものは、貴女もきっと持っているでしょう?」
「そうでもないわ。あなた、物理学には詳しいわよね」
「ええ、少しは」
「謙遜しなくていいわ。あなたがアルバート・シュレーディンガーの難しい数式を、あっというまに解いたことは知ってるの。ずばり、彼の理論そしてNPUは、異世界への扉を開く可能性があるの?」
あたしはすこしだけ思案して、スクルドの要求に応じることにした。
「アルバートさんは、数式に虚数項を導入する修正を検討していた。そうすれば、多重世界が存在する可能性は、格段に高くなる。ただしその場合、多重世界は反物質で構成されていることになるから、この世界と触れ合った瞬間に対消滅してしまう。それを嫌って、アルバートさんはその数式を採用しなかったの」
「理屈はどうでもいいわ。それで、その数式は正しいの?」
「あたしたちの検証で、完璧じゃないことは証明されたけど、現実的にはほぼ正しいと言っていいと思う」
「それは興味深いわね……いいわ、その情報で取引成立よ」
スクルドの手配は、やはり迅速で確実だった。
電話を切って一時間もしないうちに、ボーア博士から極秘の面会を求める連絡が、あたしのスマホに入った。
電話口から聞こえてきた彼女の声は、このまえの口論が嘘のように低くて張りのないものだった。
「ジョセフ・クロンカイトは、ウィーンに来ているの?」
「はい、来ています」
「それなら、ちょうど良かったわ。こちらもあなたたちに、話しておきたいことがあるのよ。……午後五時に、プラター観覧車で会いましょう。ジョセフと一緒に来てね」
平日の夕方だというのに、プラター公園はにぎわっていた。
あたしとジョセフが着くとすぐに、地味なダウンコートを着て帽子を目深にかぶったボーア博士が、人ごみから姿を現わした。
園内にはメルヘンチックなアトラクションが並んでいたけど、大観覧車だけは異彩を放っていた。
建造されてから一世紀以上がすぎた無骨な観覧車は、密談をするには最適な場所だと思った。
ただ、ゴンドラは日本のそれよりもはるかに大きく、いちどに二十人以上が乗れるものだ。プラター公園の名物であると同時に、ウィーンの観光名所にもなっているだけに、搭乗を待つひとの姿は多かった。
相乗りは困ると思っていると、ボーア博士は係員になにかを握らせて耳打ちをした。
係員はウインクをして、あたしたちだけを乗せてゴンドラの扉を閉めた。
ゴンドラが上昇を始めると同時に、傾きかけた太陽がウィーンの街を照らした。
リンクに囲まれた古い町並みがくすんだ茶色の光を返し、ドナウ河の対岸の高層ビル群は鮮やかなオレンジ色に輝いた。
印象的な風景だけど、ボーア博士はそちらには見向きもせずに、あたしたちに目を向けたままだった。
あいさつもそこそこに、あたしは用件を切り出した。
「アルバートさんの手記を読みました。彼がCERNに入ってからNPU実験にいたるまでの出来事は、だいたいわかっているつもりです。でも、アルバートさんがあなたに協力するきっかけになった、あなたのCERN入所の事情と、実験のあとでなにがあったのか、それは書かれていなかった」
「そう、アルバートがそんなものを……それで?」
「話してくれませんか」
ボーア博士は、ふっと口元を緩めた。
それで気がついた。意外なことに、彼女は緊張していたらしい。
「他人に語るようなことじゃないけど、こちらの目的もそれだから。……あの日、あなたと別れてカフェを出たあとに、彼女から連絡があったわ」
「彼女?」
「フォアエスターライヒ公国大公、エリザベート四世・ノエル=エンデ殿下よ。NPU研究に関する契約の解除通告だった。『オラトリオ』が失敗に終わった以上、投資を続けることも、わたしとアルバートをサスーン・グループの報復から擁護することも、もうできないって……」
あたしのなかでパズルのピースが、ひとつはまったような気がした。
アルバートさんの手記には、ボーア博士たちがサスーン・グループを欺いたことが書かれていた。発覚したときどうするのだろうと思ったけど、ちゃんと逃げ道は用意してあったというわけだ。
「アルバートが死んで、私は怖くなった。事故死ということになってるけど、あれはサスーン・グループの報復なんじゃないかって。おおげさに聞こえるかもしれないけど、身を守るためには、あなたたちの力が必要なの」
ボーア博士の言っていることが、あたしには理解できなかった。
たしかにアルバートさんの死は衝撃的なことだけど、それはあくまでも自殺にちかい事故死だ。いくら報復といっても、さすがに命のやりとりまではないだろう。
けれど、そんなあたしの楽観に、ジョセフの一言が冷水を浴びせた。
「そんなことはない、とは言いきれないか……。だから私たちにすべてを話して、それを保険にするつもりなんだね?」
ええ、とボーア博士はうなずいた。
「私の身に万が一のことがあれば、超一流のジャーナリストによって、この事件のすべてが白日のもとにさらされる。これで、サスーン・グループもグローバル・ユリウスも、私に手出しはできなくなるわ」
ゴンドラが高度を上げて、街並みが遠くなる。映画のワンシーンのように、目の前に広がる世界から、急速に現実感が失われていくのを感じた。けれど、ジョセフやボーア博士の表情は、それが虚構ではないことを雄弁に物語っていた。
あたしは、今さらながら、身震いがした。
ジョセフはどう答えるつもりだろう。そう思ったとき、彼の顔があたしに向いた。
「アヤノ、どうする?」
これは君の事件だよ。
ジョセフの眼差しは、そう告げていた。
逃げるのか、それとも、受け止めるのか。あたしの選択で、この事件の帰結が左右されるのだ。
思えば、この事件を通して、そんな岐路がいくつもあった。正しい選択ばかりじゃなかっただろうけど、それでも逃げたことはなかった。責任は重大だけど、あたしがやるべきこと、やりたいことはもう決めている。
「オフレコではなく、ボーア博士の身に危険が及ばない範囲で記事にする、それでどうですか」
駆け引きなしの提案だった。正直に言えば、すこしこちらの分が悪い。でも、負うべきリスクを考えれば、正当な取引だと思う。
ボーア博士の返答は早かった。それでいいわ、と言って手を差し出してきた。
あたしはその手を握り返した。柔らかで暖かくて、そして意外なほど、その掌は小さかった。
一部始終を黙って見ていたジョセフは、合格だな、とつぶやいた。そして、ボーア博士に向き直ると、穏やかな笑みとともに声をかけた。
「じゃあ、話を聞かせてくれるかい。ニーナ」
あたしは、えっと声を上げそうになる。
いま、たしかにファーストネームを呼び捨てにした。ジョセフは、初対面の女性にそんなことをするような人ではない。いったい……。
あたしのとまどいなど気にもかけないように、ボーア博士は話をはじめた。




