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Article 43 : ambitious forecast - 野望の予想図(後)

43-1 [AS ̄] 10


 ニーナはグラスのワインを飲み干し、椅子の背もたれに身体を預けた。

 ふうっと長い息を吐き出し、そして彼女は語りはじめた。


 それは――プランク所長との出会いから今日にいたるまでの話は、僕がニーナに抱いていた印象がほぼ正しいものであったことを教えてくれた。

 まともな身よりもないと言っていい生い立ちから、ただがむしゃらに生きて、今の地位をつかんだ。生きていくための手段を選ぶ余裕などなく、ときには運命のなすがままに、ときには自らの意思で、それでも彼女は自分のすべてを賭けて、ここまでたどり着いたのだ。

 僕と同じような人間なんてそうはいないと思っていたが、この人とならやっていけるのではないかと思えた。

 デートの終わりに、僕は誘われるままにニーナの自宅に行った。窓の外にレマン湖と大噴水を望むマンションの高層階だった。

 ニーナは新しいワインの封を切ると、ボルドーレッドの液体を二つのグラスに注いだ。


「ねえ、アルバート。私と一緒に、物理学界の頂点を目指さない?」


 僕の答えを待つこともなく、ニーナは話を進めた。


「サスーン・グループは、もはや私個人のスポンサーだと言っていいわ。それで足りないのなら、他からも資金を引っ張ってこられる。私と組めば、あなたの研究は必ず成功する。いいえ、なにがなんでも成功させてみせるわ」

「それで、ノーベル賞でも狙うのかい?」


 わざと茶化して本音を探ってみた。

 ニーナは笑いも怒りもせずに、淡々と答えた。


「それもいいわね。でもちがうわ。NPUが成功すれば、私は来春の所長選でマクシミリアンを追い落として、CERNの所長になるつもりよ。あなたへの見返りは、博士号と主任研究員の地位。それで、どうかしら?」


 ブックシェルフの上にあるFMラジオから、ウィンナワルツの名曲『皇帝円舞曲』が流れ出した。

 イズミは、僕と一緒にオーパンバルのデビュタントに出ることを夢見て、ダンスのてほどきをしてくれた。だが、彼女の願いはかなわず、それどころか、逆に僕とイズミの未来を決定的に分かつきっかけになってしまった。

 そうだ。僕は、この見えざる悪意に満ちた世界を、見返さなければならないのだ。そのためには、ここで立ち止まるわけにはいかない。そして、いつか必ずイズミを……。

 席を立って、僕はニーナに手を差しだした。


「わかった。ニーナの言う通りにしよう」


 ニーナは僕の掌に自分の掌を重ねると、ゆったりと立ち上がった。

 その頬には、うっすらと紅が差していた。ワインの酔いのせいか、その目がゆらりと潤み、色づいて濡れた唇の端が持ち上がった。


「それなら、契約の証を……」


 ニーナのまなざしは、僕の顔からベッドルームに流れた。



 僕とニーナの共同研究は、じつに上手く進んだ。ただひとつ、NPUの製造という問題を除いて。

 所長選を見据えれば、タイムリミットはもうすぐそこまで迫っていた。だというのに、アルナイル・デジタルの試作品は失敗続きで、解決の糸口さえみつからなかった。


 そんなとき、僕はニーナからある人物を紹介された。

 白い髪と紅碧のオッドアイをもつその女性、エリザベート・フィーア・ノエル=エンデ・フォン・フォアエスターライヒは、フォアエスターライヒ公国の元首であるとともに、世界有数の企業グループ、グローバル・ユリウスの執行役員でもあった。CERNの大口スポンサーの一人としてその名前と顔は知っていたが、こうして面談する日がくるとは思ってもみないほどの殿上人だ。


「あなたたちの研究に、強力な援助をしてあげるわ。彼の会社なら、問題を解決できるはずよ」


 そう言って紹介されたヴォルフラム・パウリは、いわゆる「裏の世界」につながっているのではないかというような風貌の男だった。いかにもうさんくさい人物だったが、差し出された名刺には、ジュネーブに本拠を置くナノテック・エレクトロニクスの社長室長という肩書があった。


「わが社には、貴方の設計した素子を製造する技術があり、それを提供する用意があります」


 パウリは金属製のアタッシュケースから小さな電子部品を取り出し、何枚かの書類を広げて見せた。それはNPUの製造プロセスと、NPU搭載SoCの基本ソフトウェアの仕様書だった。


「これは、まさか……」


 僕の問いに、パウリは口元だけで笑った。


「ご想像どおりのものですよ」

「NPUの技術情報は、アルナイル・デジタルにしか開示していないのに。どうやってこれを?」

「まあ、そのあたりは企業秘密ということで」


 お試しください、とパウリに言われて実験装置に組み込んでみると、同じ素材を使い同じ設計で製造されたにもかかわらず、ナノテック・エレクトロニクス製のNPUは拍子抜けするほどあっさりと起動してしまった。

 興奮を抑えきれない僕に対して、パウリは顔色ひとつ変えずに、一枚の契約書を差し出してきた。


「見ていただいた通り、わが社は貴方の研究パートナーとなる能力と資格がある。資金を含めて全面的に協力しよう。引き換えに、NPUの特許を共同取得してもらいたい。わが社の基幹事業である大型コンピュータ部門は、業績不振にあえいでいる。貴方の研究が成功すれば、実用化が難しいと言われている量子コンピュータが製品化でき、業績打開の切り札になる。貴方には世俗的な権威と地位と、相応の報酬を約束する」


 その要求はあからさまで、明快だった。正直、ありがたい話ではあった。だがそれでは……。

 僕はニーナの真意をはかりかねて、すましたその横顔に話しかけた。


「サスーン・グループはどうするんですか。この人たちとは、ライバル関係ではないんですか?」


 質問に答えたのは、ニーナではなく、エリザベート大公だった。


「あちらとの連携は、続けていればいいわ。表向きにはね。その方が、こちらとしても都合がいいから」



 二人が帰ったあと、僕はニーナを問い詰めた。


「ナノテック・エレクトロニクスとの提携、本気なのかい?」

「もちろんよ。もう時間がないというのに、アルナイル・デジタルは試作品すら作れない。ナノテック・エレクトロニクスと組めば、すぐに性能試験が始められる。どちらをとるかなんて、考えるまでもないじゃない」


 ニーナの言うことはもっともだ。だが……。


「ナノテック・エレクトロニクスの親会社グローバル・ユリウスは、有名な軍需企業じゃないか。そこと連携するということは、僕たちの研究が軍事に転用されるということだ。完成した量子コンピュータは、武器の設計やシミュレーションにも使われることになる。ニーナは戦争で人生を狂わされたんだろう。なのに、それでいいのかい?」


 くっ、とニーナは言葉に詰まる。

 目を伏せて、けれどすぐに顔をあげて、ニーナは語気も荒く答えた。


「だからなんだというの。いまさら、きれいごとなんか聞きたくないわ。チャンスは一度のがしたら、二度とめぐってこないかもしれないのよ。アルバート、あなただって、もう時間がないでしょう。私もそうなのよ」


 こんどは、僕が言葉に詰まる番だった。

 そう、もうそれほど時間はない。イズミだって、いつまで待っていてくれるか、わからない。

 だが、ほんとうにそれでいいのか、というためらいは残った。


 まるでそれを見透かしたように、その翌日、僕のもとに一通のコンフィデンシャル・レターが届いた。差出人は、エリザベート大公が経営する投資顧問会社、エリザベート・アセット・マネジメントだった。

 分厚い封筒の中身は、ナノテック・エレクトロニクスの株式への投資目論見書だった。

 曰く。量子コンピュータの開発が成功すれば、この会社の株価は高騰する。購入資金は無金利で貸し付けるから、売却益から返済してくれればいい。これが、あなたへのインセンティブである。

 試算されている売却益は、僕の給料では、一生かかっても得られないような大金だった。

 目の前に、地位と名誉と財産という、僕が欲してやまなかったもののすべてが、ぶら下がっていた。決心をするだけで、それをこの手にすることができるのだ。

 僕は、その魅惑に勝てなかった。


 何度かの性能試験を経て、ついにNPUの実証実験の日を迎えた。

 NPUがナノテック・エレクトロニクスの製品であることをプランク所長に知らせたのは、実験当日だった。

 プランク所長は呆然自失のまま、実験の立ち合いにやってきたエリザベート大公の同席を認めた。


 実証実験が始まってすぐ、NPUはその近傍に微小な重力変化を引き起こした。それは、パイロット波の集積によって、多重世界への扉が開いた瞬間だった。

 そして、そのひとつである『アリス』に、物理的な接触を試みて……。



43-2 [AK ̄] 40


 手記はそこで終わっていた。


 あたしは、ゆっくりと手帳を閉じた。

 暗澹たる気分だった。

 そこに記されていたのは、科学の聖域たるべき場所で繰り広げられた、権力と金に憑かれた人間たちの赤裸々で醜悪な営みだった。


 ボーア博士やプランク所長からの勧誘があったにせよ、アルバートさんもそれと承知で彼らの所業に加担したのだ。

 それはもちろん、泉美さんのために立身出世したいという願望がなさしめたことだった。けれど、泉美さんやあたしに見せていた姿は、アルバートさんのほんの一面でしかなかったのだと、あたしは思い知らされた。


 顔を上げて、泉美さんを見る。

 読み始めてからかなりの時間が過ぎていたが、泉美さんはあたしの向かい側に座ったまま、微動だにしていなかった。

 おそらく泉美さんもこの手記を読んで、すべてを承知しているはずだ。それでもなお、彼女はアルバートさんの味方であり続けるつもりなのだろう。それは、妻としての愛情なのか、科学者としての共感なのか。どちらにもなったことのないあたしには、想像の及ばないことだった。


 手帳を泉美さんの前に差し出し、あたしは席を立って深々と頭を下げた。

「ありがとうございました」と告げたあたしに、泉美さんは黙ったままでちいさく会釈をした。

 ダイニングテーブルひとつぶんの距離が、あたしには何万光年も離れた星のあいだの空間のように思えた。

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