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Article 42 : ambitious forecast - 野望の予想図(中)

42-1 [AS ̄] 09


 ボーア博士の経歴には、よくわからないことが多かった。

 旧ユーゴスラビアのプリズレンに生まれ、ニューヨークで育ったということだが、大学どころか高校も卒業していない。だが、マクシミリアン・プランク博士の研究グループに参加するやいなや、彼女は目覚ましい研究成果を上げはじめた。

 やがて中東の財閥サスーン・グループから、多額の研究資金の援助を受けるようになると、CERNでの地位も上がっていった。


 彼女のことを調べていくうちに、プランク所長の愛人であるという、あまり感心しないうわさも耳に入ってきた。

 でも、僕はそのことに嫌悪感はなかった。おそらく、僕とたいしてちがわない、厳しい環境で育った人だ。なにも持っていない人間が、自身の立身出世のために、使えるものを使っただけのことではないか。

 そして、それを裏づけるような出来事は、ボーア博士の研究室を訪れたあとすぐに起きた。

 プランク所長からの呼び出しだ。


「アルバート・シュレーディンガー君だね。君の出自は調べさせてもらったよ。私もボーア博士も、君たちユダヤ人に対する偏見はない。だから君の待遇も地位も、実力しだいということだ。そのつもりでいてもらいたい」


 そう前置きをしてから、プランク所長は僕に椅子を勧めた。そしてコーヒーをひとくちすすり、彼は僕に問いかけてきた。


「君は、研究の成功に必要なものは、なんだと思う?」

「能力と情熱。それに……」


 僕は、所長の表情を観察しながら、探りを入れてみた。


「野心です」


 所長は、わずかに眉を動かしたが、さしたる反応も示さなかった。なにを考えているのか読めない。食えない人だ、と僕は警戒した。

 コーヒーカップをソーサーに置き、羨ましいね、と所長は口の端を上げた。


「たいした実績もない私が、なぜ今の地位にいると思う?」


 いろんな意味で、うかつに答えるべき問いではなかった。

 僕はただ、わかりません、とだけ答えた。

 所長は、ふむ、とうなったあとで、やはり表情を変えることもなく、言葉を続けた。


「カネの力だよ。私には、サスーン・グループというバックがついている。スポンサーからカネを引き出せる人間だけが、研究を成功させることができるのだ」


 そう言われて、僕はすとんと腑に落ちるものがあった。

 マクシミリアン・プランク博士は、華々しい業績こそないものの、基礎研究においてはその堅実な研究姿勢が高く評価されている。早くから産学連携を進めてきた、その道の第一人者でもある。

 彼は椅子から立ち上がると、僕に背を向けて、窓の外に連なる研究棟に視線を投げた。


「だが最近は、それがわかっていない者が多くなってきた。やれコンプライアンスだのやれ職業倫理だのと、私のことを非難する者がいる。そんな連中がCERNを動かすようになれば、いったいどうなると思う。あっという間に、ここは二流以下の研究所になってしまうよ」


 所長がこちらを振り返る。逆光のせいで、その表情は読めなかった。彼の声だけが、僕に届く。


「君たちの研究には、いろんな業界から注目が集まっている。成功すれば功績は巨大だ。CERNはもちろん、私もボーア博士も、そして君の将来も約束されるだろう。期限は二年後の所長選挙だ」


 できるかね、と問われて、僕は即答を避けた。

 要するにCERNの勢力争いに加担しろ、ということだ。科学の殿堂たるCERNも、けして聖域ではない。人間の欲望がうずまく、この世の縮図だ。結局、金と地位が、人の価値を決めるということなのだ。


 ハイゼンベルク博士の顔がちらついた。

 プランク所長に比べると、あの人のやり方は、消極的にすぎて優柔不断にすら思えた。そもそもあの人は、自身が名なり功なりを上げることなど興味がないのだ。

 その理由は、はっきりとしていた。あの人の実家であるハイゼンベルク家は、ヨーロッパの政界を牛耳ってきた名門だ。家督は実姉が引き継いでいて、あの人は自分のやりたいことをやらせてもらっているようだった。社会的な地位も名誉も、そして遊んでいても暮らしていける財産も、生まれたときから持っているのだ。

 だが、僕は……。


『わたしもCERNに入るわ。学者になるの。そうすれば、アルバート兄さんとずっといっしょに居られるでしょう』


 純白のドレスに身を包んで、輝くティアラを髪に飾ったイズミの姿が、鮮やかによみがえる。彼女は、その言葉を実現するために、ウィーン大学に進学を希望していると聞いた。けれど、彼女の両親――とくに母親は、僕との交際に反対している。外交官である彼女の父親の任期が切れたら、そろって日本に帰国する可能性が高い。

 それまでに、僕はなにがなんでもイズミの家に見合うだけの地位と財産を得なければならない。もう残された時間は多くないのだ。


 パワーゲームに巻き込まれるのは不本意だったが、べつに逃げ出すほど嫌なことではない。僕は、この人たちにつくことが、自分の目的を果たすいちばんの近道だと思った。


「やらせてください」


 僕は、そう答えた。

 そして数日後、僕の配転が決まった。



 機材もスタッフも、そして予算も。すべてが潤沢に用意された。

 だが、僕たちの研究は、思ったようには進まなかった。


 最大の問題は、研究の核となるパイロット波集積装置――NPUの開発だった。

 共同開発をすることになった、サスーン・グループ系の電子機器メーカー、アルナイル・デジタルの技術力は、装置の試作品すら製造できないレベルだった。

 プランク所長からは、しょっちゅう呼び出しを受けて、研究の進捗を尋ねられた。そして、装置の開発にめどがつかないのであれば設計を変えろ、などと口出しをするようになってきた。

 僕は正直、辟易としていた。

 自分で言うのもおかしいが、あのころの僕は仕事への情熱を失いかけていたのだと思う。ちょっとした問題につまずいては腹を立て、周囲の人間に八つ当たりをした。深酒をして、仕事を休むこともあった。


 そんなある日、僕はボーア博士から、日帰りのドライブに誘われた。

 秋晴れの日曜日のことだった。

 待ち合わせ場所に現れたボーア博士は、生成りのワンピ―ス姿だった。薄化粧も手伝って、まるで少女のような清楚さがあった。


「ニヨンの近くに、ワインとラクレットが美味しいと評判のカフェがあるの」


 ボーア博士はそう告げると、愛車のプジョー406クーペのキーを僕に預けた。


 クルマはレマン湖の北岸を走る。

 ときおり車窓をかすめる湖水浴場には、夏のにぎわいはもうなかった。

 カーオーディオから『ムーンリバー』が流れ出すと、ボーア博士はささやくように口ずさんだ。


「好きな歌なんですか」


 僕が問いかけると、ボーア博士は前を向いたままで「ええ」と答えた。


「思い出があるのよ。昔のね……」



 お目当てのカフェは、ニヨンの街はずれの浜辺にあった。お昼はすこし過ぎていたが、店は繁盛していた。

 湖に突き出したテラスに席をとり、ボーア博士はラクレットと白ワインを注文した。

 湖面をわたる風は、さわやかに乾いていた。砂浜に放置された一脚のビーチチェアが、夏の名残をわずかにとどめていた。

 ボーア博士は、テーブルに頬杖をついて、すこしうるんだ目を僕に向けた。


「NPUの試作、うまくいかないみたいね」

「ええ。あの会社では無理だと思います。エンジニアのレベルも低いし。どこか、もっと技術力のある会社と組みたいんですけど……」


 邪魔をする人がいるので、と言いかけて、僕は口をつぐんだ。その人物とボーア博士は、あれこれとうわさされている間柄だった。

 だが、彼女はじつにあっさりと、その名を口にした。


「プランク所長でしょう?」

「はい。……正直言って、困っています」


 ボーア博士は、はあっと深いため息をついた。その顔には、疲労の色がにじんでいた。


「私もあの人には困っているのよ。自分の都合ばかり、押しつけてくるし」


 僕は意外に思った。いつも身にまとっている気の強さは、いったいどこにいってしまったのだろう。

 そんな僕のとまどいに気づいたのか、ボーア博士は「どうしたの」と首をかしげた。


「主任は、もっと強いひとだと思っていました」


 ふふっとボーア博士は笑った。


「あれは仕事の顔よ。こっちが普通の私。ちょっと疲れたのよ。ニューヨークを離れてからは、ずっとひとりで戦ってきたから」

「ひとりで、ですか。所長と、じゃなくて?」


 耳に入っていたうわさを口にすると、ボーア博士は否定することもなく、そうよと言って薄茶色の髪をかき上げた。ふわりとフローラルな香りがした。


「関係があると言っても、マクシミリアンを愛しているわけじゃないし。あのごみだめみたいなロウワー・マンハッタンから抜け出すために、使えるものはなんでも使った。それだけのことよ」


 ボーア博士の言葉が終わるのを待っていたように、ラクレットと白ワインがサーブされた。

 皮付きのポテト、ピクルス、そしてドライビーフが盛られた皿に、溶けたラクレットチーズがたっぷりとかけられる。濃厚なチーズの香りに、食欲がそそられた。

 チーズを絡めたポテトを口にしたボーア博士は、おいしいわ、と目を細めた。


「主任は……」


 話しかけた僕の言葉を、ボーア博士は途中でさえぎった。


「せっかくのデートなんだから、ファーストネームで呼んでほしいわ」


 冗談なのか本気なのか、ボーア博士の真意はみえなかった。けれど、近づいてくるというのなら、拒む理由はない。

 踏み込んでみるか、と僕は思った。


「じゃあ、ニーナは、僕になにを望んでいるの?」


 それは、ここのところずっと抱いている不安要素のひとつだ。

 ニーナは実力者だが、プランク所長の影響をかなり強く受けている。このまま研究を成功させても、プランク所長の愛人の部下というのでは、僕の地位は不安定なままだ。

 ニーナはワイングラスを手に取ると、鼻を寄せて香りを嗅いだ。


「それに答えるには、私の秘密を聞いてもらわないとね……」

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