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Article 41 : ambitious forecast - 野望の予想図(前)

41-1 [AK ̄] 39


 取材を続けるとは言ったけれど、あたしには当てがなかった。

 ベルナルドさんはもう頼れないだろうし、ボーア博士は行方不明だ。そして肝心のシュレーディンガー博士――アルバートさんは、すでにこの世にいない。

 アルベルティーナ広場で聞いた、シュテファン寺院の悲しげな鐘の音が、いまでも耳に残っている。

 あのときに、もっと話をしておけば……。


 あたしは、あっと声をあげそうになった。

 そういえばあのとき、アルバートさんは手記を付けていた。たしかCERNに入所してから書き始めたと言っていなかったか。

 それを読むことができれば、手がかりがつかめるかもしれない。

 孤児だったアルバートさんの身内は、泉美さんしかいない。遺品のはすべて、彼女のもとにあるはずだ。


 でも、いまさら……。

 ドナウ河の岸であんな別れ方をしたあとで、どの面を下げてそんなお願いができるというのだろう。

 弱気になりかけたあたしの背中を押したのは、ほかでもないアルバートさんの言葉だった。


『すべての始まりだった、あの実験の真実を調べてほしい』


 被害者になったというのに、アルバートさんはあたしをジャーナリストとして認めてくれていたのだ。そのあたしが真相を究明しなければ、だれがやるというのだ。

 だめでもともとだ、泉美さんに頼んでみよう。


 幸いなことに、マスコミの囲み取材のおかげで、彼女のアパートの場所はわかっていた。断られても警察に通報されても頑張るつもりでいたけど、意外なことに泉美さんはアポなしで訪問したあたしを、あっさりと部屋に招き入れてくれた。

 玄関先で騒がれたら近所迷惑だから、と泉美さんは言ったけど真意は別にありそうな顔つきだった。

 お礼を言ったあたしに、泉美さんは、仮面のような微笑み向けた。


「ひどい目にあってるみたいじゃない」


 泉美さんの声は、感情の起伏を感じさせないものだった。


「はい……でも、自業自得なので」


 あたしの返事に、泉美さんはわずかに頬を緩めたように見えた。


「それで、なんの用かしら。謝罪なら聞く気はないわよ」


 あたしは息を整えて、はっきりとした言葉で告げた。


「アルバートさんの手記を読ませてほしいんです」


 泉美さんはあっけにとられたように口をぱくぱくさせたあと、「なにを……」と声を震わせた。表情が一変して、まなざしに敵意がありありとうかんだ。


「ふざけたことを言ってるの。そんな大事なものを、あなたに見せるとでも思っているの。だれのせいで、アルバートは死んだと思ってるのよ……」


 泉美さんの詰りを最後まで聞かずに、あたしは言い放った。


「それを知るために、手記が必要なんです」


 あたしは、泉美さんの目を見たままで、話を続けた。


「アルバートさんの死には、あたしにも責任があります。でもそれは、謝罪なんかですませるべきことじゃないんです。あの実験の真実を、あの事件の真相を究明することで、あたしは責任を果たせると思っています」

「なんて自分勝手な言い分かしら。結局は、記事にするネタが欲しいだけなんでしょう」


 あたしは首を横に振った。


「ちがいます。泉美さんがだめだと言うのなら、記事にはしません。これはアルバートさんに頼まれたことでもあるんです」

「そんな話、どうやって信じろというの?」

「アルバートさんは、僕は答えを見つけることができなかったから、と言っていました。それから、科学者としてはあたしにネガティブな気持ちはないけど、泉美さんを巻き込んだことについては、一人の男としてあたしを憎んでいると。許すことはできないから、もう会うことはないだろう、と」


 泉美さんは、はじめのうちは顔を真っ赤にしながら、途中から表情を和らげながら、あたしの話を最後まで聞き取った。それから、深いため息を落とした。


「悔しいけど、アルバートの言葉だと認めざるをえないわ。……もし手記を見せたら、彼の名誉を回復させてくれるの?」


 そうなればいいと、あたしは心の底から思った。

 あたしにとってアルバートさんは、尊敬すべき学者であり、お世話になった恩人でもある。彼の死は、物理学界にとって大損失だし、あたしにとっても大きすぎる喪失だ。

 せめてあたしがしようとしていることが、アルバートさんのためになれば、それであたしもすこしは救われる。

 けれど……。

 あたしには、悲しい予感があった。根拠はないけれど、あたしはきっと死者を鞭打つことになるのだろう。

 あたしは、ふたたび首を横に振った。


「それはわかりません。もとより、それが目的ではないですから」

「じゃあ、なんのためだというの」


 泉美さんの声には、すでに怒気はなかった。

 けれどあたしは、心も身体も震えていた。力いっぱい拳を握り、声の震えだけはなんとか押さえ込んだ。


「それが、あたしのなすべきことだからです」


 あきれた人、とつぶやいて、泉美さんは目を伏せた。

 ほんの数秒の沈黙が、とても長く感じられた。

 やがて、泉美さんの唇からふうっと息が漏れた。そしてベートーベンガングを散策した時と同じ、柔らかだけど芯のある声がした。


「ほんとに、記者って最低。だけど、そこまで正直に言われたら、かえって清々しいわ。あなたが、冷酷で傲慢で、そして正直でとびきり優秀な人だと、はっきりわかったし。これで、心おきなくあなたのことを憎めるわね」


 いらっしゃい、とリビングに通される。

 シンプルだけど、センスの良さと居心地の良さをあわせもったインテリアは、なんとなくだけど泉美さんの趣味のような気がした。

 木目の美しいテーブルの上に、あの革装丁の手帳が置かれた。


「ここで、私の目の前で読んでいきなさい。あなたがどんな顔をしながら読むのか、見ててあげるから。記事にしたいのなら、すればいいわ。ただし、あなたの言葉でね。手記のコピーや転載は、絶対に許しませんから」


 ありがとうございます、とお辞儀をしてから、あたしは手記を開いた。

 手記は、アルバートさんが言っていたとおり、彼がCERNに入ったころの出来事から、始まっていた。



41-2 [AS ̄] 08


「アルバート・シュレーディンガーさん、LHCbラボラトリィのハイゼンベルク博士がお呼びです」


 イタリアのグランサッソ研究所から送られてきた実験データと、LHCーATLAS実験グループの実験データのマージ作業を終えたところで、総務の女性スタッフから内線電話があった。

 ウィーン大学の教授のコネで、CERNに採用されてから半年が経っていた。

 イズミは僕が学者になるものと思っていたけど、大学で専門の研究をしてきたわけではなかったから、与えられたのは助手という名の雑用係のような仕事だった。

 とはいえ、配属されたLHCーATLAS実験グループのデータスクリーニング係は、最新の研究データを取り扱う仕事だった。おまけに、研究員からダイレクトにデータ解析などを依頼されるので、コネをつくるのには最適だった。


 CERNの数多い研究者たちのなかで、僕が目をつけていたのは、プランク所長の肝いりと言われているニーナ=ルーシー・ボーア博士と、もうひとりがベルナルド・フォン・ハイゼンベルク博士だった。

 ハイゼンベルク博士はフランクフルトの名門の出身で、ミュンヘン工科大学を卒業してすぐにCERNに入所し、超弦理論に関する論文を一発で通して博士号をとり、さらに最年少で理事の座についたエリート中のエリートだ。

 そんな人物からの呼び出しに、僕は勇んで彼の研究室に出向いた。


 ハイゼンベルク博士は、エリートにありがちな選民意識を感じさせない人だった。

 上品で優美で、研究への熱意はあっても、ぎらぎらした野心はない。良くいえば育ちのいい、悪く言えばお坊ちゃんという印象を受けた。

 およそ、僕とはかけ離れた世界で生きてきた人だ。

 けれど、研究や理論のことについては、驚くぐらい話が合った。量子重力理論という、成果の期待できないジャンルでありながら、彼の研究姿勢は真摯だった。

 小一時間ほどのやりとりで、僕は手ごたえを感じていた。

 案の定、僕はハイゼンベルク博士から、オファーを受けた。


「君の発想は斬新だし、頭脳は優秀だ。数学のセンスもいい。そういう助手が欲しかったんだ。ぼくのところで一緒に研究しないか?」



 思っていたとおり、いや、思っていたよりもずっと、ハイゼンベルク博士との研究は穏やかなものだった。

 彼は僕のような者のふとした思いつきでも、最初から否定するようなことはせず、「ちょっと検討してみようか」と言って取り上げてくれた。

 彼の研究スタイルは、一言でいえば堅実だった。建築でいえば、石材をひとつひとつきちんと整形してから、積み上げるタイプだ。だから出来上がったものは、隙間ひとつない堅固なものだった。

 だが、それは同時に、派手な研究成果も出ないということだった。

 ここにいれば、すくなくとも安定した身分ではあるだろう。時間はかかるだろうけど、博士号もとれるだろう。

 だが、僕はこんなところで、のんびりとしていていいのだろうか。


 焦りを感じ始めていたある日、僕はハイゼンベルク博士の書類を整理していて、一冊の研究計画書を見つけた。


『重力特異点における多重世界探査計画――テルスノヴァ・プロジェクト』


 発案者は、ニーナ=ルーシー・ボーア博士だった。

 LHCを高負荷運転してマイクロブラックホールを生成し、それを足場にして多重世界の扉をこじ開ける。

 発想はじつに荒唐無稽だが、ボーア博士は、そんな計画をあと一歩で実現可能なところまで進めていた。集めた賛同者のサインを見ると、なりふり構わないやり方が手に取るようにわかった。

 僕はボーア博士に親近感を抱いた。それは、同じ種類の人間を、僕の野望を託せる人間をかぎ分ける、本能的な嗅覚のようなものだった。

 数日をかけて僕は理論を整理し、ボーア博士に電子メールを送った。


『マイクロブラックホールによる多重世界へのアクセスは、確率が低すぎるうえに安定しない。それよりも、量子トンネル効果を期待できるパイロット波を集積することで、分岐した直後の多重世界を引き寄せる方が、実現の可能性が高い。その理論とアイデアを提供する用意がある』


 その日のうちに、僕はボーア博士から呼び出しを受けた。

 ドアをノックして、研究室に足を踏み入れる。

 窓から差し込む午後の陽射しの中に、彼女はいた。光に透ける亜麻色の髪をヴェールのようにまとい、焦点の定まらない物憂げな瞳と、たっぷりと蜜を含んだ果実のようなピンクの唇が、艶然と微笑んでいた。

 その姿を見た瞬間、まるでポテンシャル障壁を超えたような、世界線が変わったような、そんな気がした。

 彼女の唇がねっとりと動き、熱と湿度を多分に帯びた声がした。


「あなたを待っていたわ。アルバート・シュレーディンガー」

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