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Article 40 : strong interaction - 絆の形(後)

40-1 [BH ̄] 16


 ウィーンでの残務処理を終えてCERNに戻ったとたんに、マルガレーテから――姉から、激しい叱責の電話がかかってきた。

 そして、ひととおり事態の説明を終えたあと、姉はハイゼンベルク本家の意向を口にした。


「あの子に報復するかどうかは、ベルナルド、あなたの出方しだいよ。そうそう、フランクフルト先進科学研究所が標準理論検証チームの立ち上げ要員を募っているの。若くて優秀な物理学者ということで、あなたにオファーが来ているんだけど、受けるわよね」


 姉の要求は、いままでと何も変わらず明快で単純で、そしてこの上もなく悪辣だった。先進科学研究所はハイゼンベルク家が出資者の筆頭に名を連ねている。実家の手の内というわけだ。

 だが、あんな状況で、アヤノとのデートの盗撮写真が持ち込まれては、姉の指示に従うしかなかった。ぼくが言うことをきかなければ、アヤノがもっとひどい目にあうことは、容易に想像がついたからだ。若いアヤノはともかく、ぼくがやったことは、あまりに軽率だった。だが、いまさら反省したところで、それがなにになるというのだろう。もう、なにもかも遅いのだから。


「それはいい話だね。どこであれ、ぼくを必要としてくれるなんて、喜ぶべきことだしね」


 またしても、なにもできなかった自分に心底から腹がたった。悔しいが、世俗的な権力から逃げ回った結果が、これだ。ぼくは結局のところ、ハイゼンベルク家という世界の外に出ることは許されないのだ。



「残念だよ」


 所長室の椅子に腰かけたマクシミリアン・プランクは、退職願いを持参したぼくに愛想笑いを浮かべながら告げた。


「CERNにとっては大損失だ。シュレーディンガー博士があんなことになって、ボーア博士の行方も知れない。そして君まで去るなんて。君ほどの才能があれば、きっとどこの研究所でもやっていけると思うよ。だが……」


 プランク所長が力を落としたように、ため息をひとつついた。珍しいな、とぼくは思う。


「私はね、君の量子重力理論に期待していたんだ。CERNの未来を託せるのは君だとすら思っていたんだよ。だからいつかきっと、戻ってきてくれたまえ。それまでは、老体に鞭を打って頑張ることにしよう」


 あからさまな社交辞令だった。それが叶わない願いであることくらい、この男もわかっているはずだ。

 ぼくは当たり障りのない挨拶をすませて、所長室をあとにした。

 もうここに来ることもないのだろう。そう思うと、胸の奥の古傷が痛んだ。治りきるまえに瘡蓋をはがされたような、そんな激しい痛みだった。



40-2 [AK ̄] 38


 昨日からまともな食事をしていないことを告げると、ジョセフはタクシーを呼んで、あたしをハイリゲンシュタットある一軒のホイリゲに連れて行った。


 松の枝をぶら下げた『MAYER』という看板がかかる白壁の門をくぐり、ブドウ棚が頭上を覆う中庭を抜けて店内に入る。

 店内は暖色の灯りに照らされ、アコーディオンが奏でるのんびりとした調子のシュランメル音楽が流れていた。窓を飾るステンドグラスには、有名な音楽家たちの肖像がすました顔を並べている。

 ちょうど夕食時とあって、地元の人やら観光客やらが、使い込まれた木製のテーブルで酒と食事を楽しんでいた。どの顔も、この世界に不幸なんてないと言わんばかりの笑顔ばかりだ。一昨日までのあたしも、きっとそうだったんだろう。


 ジョセフはあたしを席に座らせると、ワインを二杯注文してから、デリでいくつかの料理を買ってきた。

 ロールキャベツのクリームソース煮、オリーブの実が入ったサラダ、チーズの盛り合わせに、キャラウェイシードと豚肉のロースト「キュンメルブラーテン」が、テーブルに並ぶ。

 ワインはすこし喉を焼いたけど、料理はどれも素朴な味付けで、空ききったお腹にも優しかった。

 おちついたところで、あたしはあらためて頭を下げた。


「先生、ご迷惑をおかけしました。あたし……」


 いいや、とジョセフはあたしの謝罪を制した。


「謝る必要はない。アヤノがやったことは、ジャーナリストとして間違えていたわけじゃないからね」


 やはりジョセフはあたしを責めなかった。けれど、あたしがやらかしたことは、ジョセフに対してもとりかえしがつかないことには違いない。


「でも……」


 そう言いかけたところで、アコーディオンの音が途切れて、ぱらぱらとした拍手とともにピアノの生演奏が始まった。

 音の方をみやると、弾いているのは東洋人の――たぶん日本人の男性だった。

 曲は、ベートーヴェンのピアノソナタ『熱情』だ。このホイリゲは、かの楽聖の家だったこともある建物だ。だからゆかりの曲を選んだのだろう。

『運命』の動機と同じモチーフが、ときに激しく、またときには苦しげに繰り返される。苦悩と反省の調べ、はやがて勝利の凱歌に変わる。文字通り情熱をかきたてられるこの曲に、楽聖はなにを託したのだろうか。


「あたし、先生の名声を汚し、キャリアに傷をつけてしまいました」


 ああそうか、とジョセフは今ごろ気づいたように、苦笑した。


「そんなもの、ほんもののジャーナリストがひとり育つ替わりとしては、安いものだよ」


 意外な言葉に、あたしは耳を疑った。思わず「えっ」と間抜けな声を出してしまった。

 ジョセフは、ワイングラスをテーブルに置くと、表情を引き締めた。


「我々ジャーナリストは、名声やキャリアで仕事をするわけじゃないからね。価値がないとは言わないが、優先すべき事柄ではないよ」


 心強い励ましの言葉だけど、どこかあたしをかばっているようなニュアンスを感じた。


「そう言ってくださるのはうれしいですけど、先生に対する世間の目は変わってしまうんじゃないですか? お仕事がやりにくくならないですか」


 ううん、とうなってから、ジョセフはテーブルに肘をついて身を乗り出してきた。


「それなら、私からひとつ尋ねよう。……アヤノはあれほど君自身や私がたたかれても、記事の撤回をしようとしなかった。なぜだい?」


 それは、あらためて「なぜ」と問われるようなことではない。あたしは即答した。


「記事にしたことが、すべて事実だったからです」


 ジョセフは、当然といわんばかりの、そして満足したような笑顔を浮かべた。


「オーケー、めずらしく合格点をあげられる回答だ。我々ジャーナリストにとって、最も重要なポイントは、そこなんだ。そして、それがすべてだと言っていい。アヤノは私の指示なしで、それを実践して見せた。これは名声やキャリアなんかより、はるかに大事なことだよ」


 その言葉は、あたしの真ん中に、じわりと浸透してきた。そうだったのか、と納得することが、たくさんあった。

 けれど、あたしの心の中には、まだ血を流したままの傷がある。ジョセフの言葉は、その傷に触れるものでもあった。


「でも、あたし、怖いんです。自分に与えられた力が、自分がすることが、他人の人生をこんなにもゆがめてしまうなんて、ついこの間まで思いもしなかったんです。それは許されることではないし、責任のとりようもないことじゃないでしょうか」


 眼鏡の奥で、ジョセフの眼差しが厳しくなった。そして一言ずつ、はっきりと区切るように言った。


「それを理解できたのなら、恐れるよりも喜ぶべきことだ。それに、責任をとることはできるんだよ。簡単なことではないがね」


 言葉と言葉のあいだに、たっぷりと間があく。重大な話をするときの、ジョセフのクセだ。


「アヤノの、いや、我々のとるべき責任とは、途中で投げ出すことではなく、最後まで真実を追求することだよ。アヤノはこの事件の全貌を明らかにできたのかい? 私の見立てでは、取材の量も深さもまったく足りていない。これじゃあ、不合格だよ」


 その言葉に、あたしは愕然となった。

 たしかに、まだわからないことは、いくつもある。それを解き明かすこともなく、謝罪だとか言って、あたしは自分の行動の結果から逃げようとしていただけだったのだ。

 あたしは、科学を学ぶ者であり、ジャーナリストを志す者ではなかったのか。それなら、この事件の発端となったシュレーディンガー博士の実験の真実を、そしてこの事件のすべてを明らかにすることこそが、あたしのとるべき責任ではないのか。


「わかりました、先生……」


 その先を言葉にするのは、怖かった。

 行き着くべき岸も、戻るべき港も見えない、嵐の海のまんなかに放り出されるような心細さに、心と体が震えた。

 でもあたしは、それを言わなければならないと、わかってしまったのだ。


「あたし、取材を続けます」


 ジョセフは表情を緩めることなく、ただ一言だけ発した。


「やってみなさい」

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