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Article 04 : divergence - 解消できない相違点

04-1 [AS ̄] 02


 上出来だな、と僕は思った。

 プレゼンでつまずくことはなかったし、逆に調子にのってしゃべりすぎるというミスもなかった。すべてリハーサルどおりだ。


 集まった記者の数は多かったが、まともな質問ができる者がいなかったことも幸運だった。

 異世界旅行がどうのと、わけのわからないことで詰め寄られたときには、失笑を抑えるのに苦労したほどだ。


 最後の質問に立ったのは、東洋人――たぶん日本人の、若い女性だった。

 黒髪を肩口までのボブヘアに切りそろえた彼女は、どこか愛らしい少女という印象があった。

 日本の新聞社の新人記者というところだろう。かの国には、異世界を題材にした青少年向けの軽い読み物があふれていると聞く。さて、どんなファンタジーな質問が来るのか。


 だが、彼女と目が合ったとき、僕はこの会見ではじめてうろたえた。

 なぜだ?

 自分の目を疑った。

 イズミ……なぜ、君がここにいる?


 彼女はマイクを受け取ると、流暢な英語を口にした。


「CNSの春日綾乃(かすがあやの)です。シュレーディンガー博士、提示された波動関数の積分式のことで質問があります」


 イズミじゃない。あたりまえだ。ここに彼女がいるはずがない。

 だが僕の胸は、不覚にも高鳴り、そして締めつけられた。ずっと心の奥底に沈めておいた感情が、その少女に向かってあふれだしそうだった。

 イズミ、僕は……。


「……どうぞ」


 声が震える。そう答えるのが精一杯だった。

 彼女――アヤノは、ありがとうございます、と前置きをして明快な言葉を続けた。


「セクション3の数式、摂動と繰り込みを大胆に採用することで、全領域で解が存在するという説明でしたけど……」


 そこでわずかに口をつぐんだが、アヤノは好奇心の旺盛そうな大きな瞳を、まっすぐに僕に向けてきた。

 ひたむきに、そして無邪気に、明日は今日よりも良くなるのだと信じて疑わない者の目だ。僕にはそのまなざしがひどくまぶしかった。

 ああ、同じだ。イズミと同じ目だ。君も、その目で僕を見るのか……。


「結合定数に負の質量次元が存在する可能性がありますよね。それなら、特定の領域では発散が無限に現れ、繰り込みが不可能になるのではないですか?」


 質問は聞こえているのに、内容が頭に入ってこない。

 アヤノの姿に重なるように、白いドレスを着て銀のティアラを髪に飾ったイズミが僕に呼びかける。


『アルバート兄さん』


 イズミ、僕は……。


 手が届くはずがない、同じ場所に立てるはずがない。僕は、君から逃げ出しておきながら、それでもあきらめられずにこの手を伸ばし、その場所を目指した。

 この手は綺麗なままではいられなかったが、たしかに何かを掴んだ――掴んだはずだ。

 だがそれは僕が、そして君が望んでいたものなのだろうか。


 ……僕は、君と同じ場所に立てたのだろうか。


 マイクを握ったまま、僕は言葉を失った。



04-2 [AK ̄] 03


 演壇が遠くてシュレーディンガー博士の表情はよくわからないけれど、とても困惑している様子はなんとなく伝わってきた。

 それはそうだろう。

 あたしの指摘が的外れでなければ、博士が提示した理論は、特定の条件下では成立しないことになってしまう。間違いであるとまでは言えないけれど、いまだ仮説の域を出ないということにはなるだろう。

 そして、その理論に基づいて行われたという、実験の結果も……。


「ちょっと、いいかしら」


 水を打ったような会場に、甘い響きと硬質な鋭利さが混じった女性の声がした。マイクを握っていたのは、ボーア博士だった。


「CNSって、コロンビア大学のジャーナリズム・スクールよね。あなた、社会人? それとも学生かしら」


 ボーア博士は、質問に対して質問を返してきた。マナー違反だけれど、相手はあたしのことを何も知らない。それは不公平というものだ。

 あたしは「学生です」と答えた。

 ボーア博士の質問が続く。


「専攻は量子力学?」

「いいえ。天体物理学です」


 アストロフィジックスというあたしの答えに、ボーア博士がかすかな笑みを浮かべたように見えた。


「物理学や数学の素養はあるというわけね。でも、中途半端な知識で専門外のことに口を出すのは、やめた方がいいわよ。相対性理論に染まった思考では、量子力学が理解できないのもしかたないけど、そんな問題はすでに解決済みよ。あなた、学生なら記者のまねごとなどせずに、勉学に専念するべきだわ。そうね、大学を卒業したら、ぜひCERNにいらっしゃいな。ああ、でもここは天文台じゃないから、量子力学をちゃんと勉強してからにしてちょうだいね」


 ははは、という乾いた笑いが会場にわきおこる。

 ボーア博士は、勝ち誇ったような笑顔をうかべると、反論など許さないかのようにマイクを置いた。

 あたしは、返す言葉もみつからないまま、立ち尽くしていた。頬のあたりが、一気に熱をおびる。きっと真っ赤に染まっているはずだ。


「では、これをもって質疑応答を打ち切り、会見を終了します」


 アナウンサーの声とともに、会場がざわめきに包まれた。

 世紀の大発見だ、と携帯電話にがなりたてる記者たちを、あたしは呆然と見ていた。


 ひどい、どうして……。

 あたしはただ疑問点を問いただしただけなのに、なぜあそこまで言われなければならないのだろう。しかも大勢の記者たちの前で、恥をかかされるなんて。


 視線を巡らせると、会場の出口に立ったシュレーディンガー博士とボーア博士の姿が目に入った。

 あたしと目が合うと、二人は不機嫌そうに顔をそむけて、足早に会場を出て行った。


 なによ、それ。怒りたいのは、あたしの方だわ。

 咄嗟のことでボーア博士に何も言い返せなかったのが、いまさらのように悔やまれる。

 でも、もう遅い。記者会見は終わってしまったのだ。


 こんなんじゃ、まともな記事なんて書けるはずがない。よしんば書けたとしても、ジョセフの評価どころか、あたし自身が納得できない。

 せっかくジュネーブまで来たのに。心が躍るような発表だったのに……。


 ため息をついて席を立とうすると、背後から肩をたたく手があった。

 驚いて振り向くと、CERNの身分証を首から下げた男の人が立っていた。


 手ぐしでスタイリングしたような髪、開襟シャツの上に無造作に羽織ったジャケット。ラフな身なりだけど、その立ち姿からは品のよさを感じた。

 そして大きなブルーの瞳は澄んでいて、まるで珍しいものをみつけた子どものようなまなざしだった。

 すくなくとも、悪意や害意のようなものは感じなかった。


 その人の口が開いて、穏やかな声がドイツ語をしゃべった。


こんにちは(グーテンターグ)お嬢さん(ユンゲダーメ)。となりに座っていいかな?」

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