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Article 39 : strong interaction - 絆の形(前)

39-1 [AK ̄] 37


 目がさめた。

 いつのまにか、眠っていたらしい。


 あたしはナイトガウンに着せ替えられていて、バスルームからはシャワーの音がしていた。

 カーテンの隙間から、陽光が差し込んでいた。

 置時計の針は、午後になったばかりの時刻を差していた。


 あたしの記憶は混濁していた。

 夢だったのか、現だったのか……。

 けれど、スズランの花のような甘酸っぱい残り香ととともに、下半身を中心にけだるい快感の余韻がたしかにあった。


 そして、あれほど荒れ狂っていた負の感情が――怒りも悲しみも後悔も、不思議なほどに静まっていた。消え去ったわけではないけれど、すくなくともそれに支配されることはなくなっていた。


 あんなことで……。

 身体も心も、だれかにゆだねてしまうことで、救われてしまうんだ。

 思わず自嘲する。

 あたし、どこまで破廉恥で現金な人間なのだろう。


 シャワーの音が止まる。

 バスルームのドアが開いて、バスタオルを胸に巻いた彼女(・・)が姿を現した。

 白い髪から滴った水滴が、肩口から胸元に流れ落ちる。三次元CGを思わせる完璧に整った顔にある二個の宝石、ルビーとサファイアの瞳があたしに微笑みかける。


「おちついた……みたいね」


 それは、会ったこともない、知らない……とは言えない女性だった。

 世界でただ一人の容姿を持つ彼女を、フォアエスターライヒ公国の取材のときに、写真や画像で何度も見ていたからだ。

 でも、それよりもあたしは、それが別の名前で知り合った女性だと、素性を明かされる前にわかってしまったのだ。

「うん」とうなずいて、あたしはそれを確かめる。


「スクルド、よね?」


 ええそうよ、と肯定してから、彼女は「見られちゃったね」と言って舌を出した。



「ジョセフ・クロンカイトがあなたのことを心配して、わたしに連絡をしてきたのよ。様子を見に来たら、部屋の前で客室係が途方に暮れていてね。大きな物音がしてうるさいって、隣の部屋の客がフロントに苦情を言ったらしいのよ。ほら、この部屋って、いちおうわたしが泊ってることになってるじゃない。だから、客室係にこっそり『追加料金』を渡して、入れてもらったのよ。そしたら、枕や鏡を相手に八つ当たりの大暴れでしょ」


 言われるまで、気づかなかった。あれだけ騒げば、そうなってあたりまえだ。


「ごめんなさい」


 謝罪の言葉を聞き流して、スクルドは身体を拭いたタオルをベッドに投げると、ペットボトルのミネラルウォーターを口にした。


「べつに謝らなくていいわよ。お礼は、してもらったから」


 ベッドに腰かけたスクルドは、あたしに唇を重ねてきた。昨夜のことを思い出して、急に鼓動が早くなる。

 特殊な趣味というか嗜好というか、こういうことをする人たちがいるのは知っていたけれど、まさか自分が経験するとは思ってもみなかった。

 いまさらのように、どうしようと、あたしはうろたえる。

 スクルドは目を細めると、ふふっと含み笑いをした。


「かわいいわね。せっかくだからもう少しだけ、つきあってもらおうかな」



 スクルドに手をひかれて歩くウィーンの街は、晴れた空からふりそそぐトパーズ色の陽光に包まれていた。

 なんの用事があるのかと思ったら、洋服の買い物だった。スクルドは何着か試着して、あたしにも試着をさせた。

 そうやって、彼女のスリーサイズの自慢をされながら、高級ブティックを連れまわされた。

 ひやかしだけで一着も買わなかったけれど、「疲れた」と言って、スクルドはホテル・ザッハーのカフェテラスに入った。


 サーブされたザッハトルテを、あたしはごく自然に口にした。

 昨日からなにも食べていなかったし、歩き回ったからお腹は空いていた。でも、それよりも、スクルドの笑顔を見ていたら、不謹慎だとかいう負い目を感じること自体が無意味に思えてきたのだ。

 クーベルチュール・チョコレートの濃厚なカカオの風味が、口の中いっぱいに広がる。アプリコットジャムの酸味が、強すぎる甘さを抑えていた。さすがに本場のものはと言いたいけれど、トルテの表面を覆うグラッサージュは、再結晶した糖の口当たりがしてあまり上品に感じなかった。


「本物のザッハトルテはどう?」

「美味しいけど、しゃりってする食感が、ちょっと。日本で食べたのは、なめらかな口当たりだったから」


 はああっ、とスクルドは言葉尻と眉を同時に持ち上げた。


「これが正当なレシピで作った、正真正銘のザッハトルテなの。シャッてないのは、ザッハトルテとはいわないのよ」

「知ってる。でも、日本だとシャッたグラッサージュは、少ないかな。あたしもたまに作るけど、グラッサージュはガナッシュにするし……」


 ちぇっ、とスクルドは舌打ちをした。


「あなたも、男の子に手作りのお菓子をプレゼントしてたクチなのね。……でもまあ、言い返す元気があるのなら、もう大丈夫みたいね」


 その言葉で、スクルドがあたしを元気づけようとして、あちこち連れまわしていたことを悟った。

 立場も身分も違いすぎるけど、スクルドの包容力は安心感を与えてくれた。それに、なんといっても肌を許した相手だということが、甘えていいという親近感につながった。

 だからあたしは、ジョセフには言えないだろう弱音を、口にした。


「大丈夫じゃないわ。正しいことだと信じていたのに、どうしてって思うし……。でも、人がひとり死んでしまったし、人生が変わってしまった人もいる。みんなに迷惑をかけて、とりかえしがつかないことばかりだわ」


 そうね、と言いながら、スクルドはトルテの最後の一切れを口に入れた。


「でも、いまさらどうのこうの言っても、過去のことはどうしようもないからね。まあ、たしかにあなたはやりすぎた。だから、権利を与えられた者の義務として、応分の責任はとらないといけないわね」


 なぐさめてくれるのかと思ったら、スクルドの言葉には同情や憐憫といったニュアンスはみじんもなかった。事実と忠告だけが冷徹に語られていて、そこには、自分で考えろ、というジョセフの指導方針と通じるものを感じた。

 励ましはするけど、甘えさせはしない、ということなのだろう。

 ふだんならそれは心地いいだろうけど、いまあたしが欲しいのは、サジェスチョンではなくてアンサーなのだ。自分で考えて答えが出せるのなら、こんなに悩み苦しむことはないのだから。


「責任をとらなければならないのは、わかってる。でも……あたし、どうしたらいいの?」


 考えはじめると、トルテの残りに手をつける気にはなれなかった。

 スクルドは、いらないのなら貰うわ、と言って、半分ほど残っていたあたしのトルテをあっという間にたいらげた。


「それに答えるのは、わたしじゃなくてジョセフの役目でしょうね。でも、ひとつだけ、アドバイスしてあげる。あなたが考えるべきことは、どうすればいいのか、じゃなくて、どうしていくのか、よ。責任をとるのなら、過去に対してではなくて、未来に向けてだから」


 さて、と言って、スクルドはモカを飲み干した。


「もうすぐここに、ジョセフが来るわ。わたしの仕事は終わりだから、鉢合わせする前に退散するわね。……あ、そうそう、大事なことを言い忘れるところだったわ。わたしのことは、ジョセフにはナイショにしておいてね」


 ウィンクをひとつして、「マハス・グート」と言い残して、スクルドは席を立った。

 白い髪が優雅に揺れながら、カフェを出ていく。


 マハス・グートか……。

 がんばってね、というより、しっかりしろ、と言われたような気がした。



 スクルドの姿が雑踏に紛れて見えなくなると、急に心細さを感じた。

 ひとりでウィーンに乗り込んできたときも、そんなことは感じなかったのに。


 そのとき。

 その人が、店に入ってきた。

 遠目に見ても、心配そうな、そして悲しげな表情だった。

 あたしと目が合うと、彼はテーブルの間を足早に歩きはじめた。大きな旅行バッグがぶつかった客から、ぶしつけな振る舞いを咎められてもまったく意に介することもなかった。

 一目散の歩みが、あたしの椅子の傍で止まる。

 どさりとバッグが床に置かれ。

 そして、黒縁眼鏡の奥から、怜悧さと優しさが共存したまなざしが、まっすぐにあたしに向けられた。


「アヤノ」


 名前を呼ばれる前から、あたしは涙ぐんでいた。


「……つらい思いをさせて、すまなかった」


 ジョセフ・クロンカイトは、今までに聞いたこともない温かな声でそう言うと、あたしの肩にそっと手を触れた。


「……いいえ」


 大丈夫です、と答えようとして……。

 こみあげてきた熱いもので、あたしは声を詰まらせた。パブリックな場所で、しかもこんな衆人環視のなかで。

 でも、あたしは。


 あふれだす涙を止めることはできなかった。

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