Article 37 : closed system - 閉ざされる未来(前)
37-1 [BH ̄] 15
「それは、事実なんですか」
ぼくは、沈痛な面持ちのプランク所長に、聞き返した。
アルバートの訃報に打ちのめされた直後だというのに、こんどは……。
ああ、と答えたあと、所長はロビーにたむろする所員たちに目をやった。
「彼らのだれ一人として、昨日の午後以降に、彼女を見かけていないのだ。ホテルはチェックアウトしていないし、CERNにも自宅にも戻っていない。スマートフォンは圏外で、呼び出すことすらできない。まさか、とは思うが」
所長の言いたいことは、わかった。
だが、アルバートは警察発表のとおり酒に酔っての事故死だろうし、むろん彼女も自殺をするような人間ではない。
とはいえ、事態はぼくたちの手に負えないほどに、大きく動いている。ありえないことだという先入観は捨てるべきだろう。勇み足で済むのなら、その方がいい。
「彼女に身内はいません。念のために、警察に捜索願を出しましょう」
「やむを得ないな、そうすることにしよう。すまないが、私は所員とともにCERNに戻って、あれこれと善後策を練らなければならない。後を頼めるかな?」
この状況では、それしか選択肢はないだろう。
了承して所長たちと別れたぼくは、ウィーン警察に出向いて担当の警察官にその依頼をした。
「ニーナ=ルーシー・ボーアの行方がわからなくなりました。彼女の捜索と身柄の保護をお願いします」
それからぼくは、このニュースをだれよりも早く知らせてあげるべきであり、なおかつもっとも知らせるべきでない、彼女のスマホをコールした。
いつもより長い呼び出し音のあとで、受話口から沈んだ声の応答があった。
ぼくはニーナの行方不明について、簡潔に事実だけを伝えた。
電話の相手からは、なんの反応もなかった。それは想定外の事態で、ぼくの不安を一気に駆り立てた。
「余計な心配はしないでいいよ。知っての通り、ニーナは強い女性だ。たぶんひとりで気分転換でもしているんだろう。……聞いているかい、アヤノ?」
はい、と小さな声がした。
アヤノは頭脳明晰で快活だが、二十歳そこそこという年齢に相応する人生経験すら積んでいないのではないかと思われるほどの、未熟さと危うさを垣間見せることがある。
アルバートの死亡、そしてニーナの失踪という悪い知らせを立て続けに聞かされたら、はたしてそれを受け止められるのか、いささか心許ない。プランク所長から後を任されていなければ、いますぐにでもアヤノのそばに行ってあげたいところだ。
やるせない、そしてもどかしい気持ちをなんとか飲み込んで、ぼくは言葉を続けた。
「すぐにニュースになるだろう。いろいろ言われるだろうけど、君が気に病むことじゃないからね。できれば不要な外出はしないで、ジョセフ・クロンカイトでも誰でもいいから、一緒にいることだ。ひとりぼっちにならないように。なにかあったら、遠慮なくぼくに連絡してくれ」
37-2 [AK ̄] 35
ボーア博士が行方不明になったというベルナルドさんからの知らせを、あたしはホテルの部屋で聞いた。
なにが起きているのか、なにをするべきなのか、理解も整理もできなかった。
ベルナルドさんが話していることも、半分も耳に入らなかった。なにか念を押されて、それに答えて……。
電話が切れると、入れ違いにジョセフから電話がきた。
「まだウィーンにいるんだね?」
「はい」
「ボーア博士の失踪は知っているかい?」
「はい」
答えながらあたしは、「はい」という言葉しか発していないな、と思った。
わずかに間をあけてから、ジョセフは「バッドニュースだ」と告げた。それは彼の得意の演出ではなく、ほんとうに話すことをためらったのだろう。
聞こえるか聞こえないかという、かすかなため息のあとで、ジョセフは悔しさをにじませた声で言った。
「マスコミの連中、掌を返して、私たちを吊るし上げる算段のようだ。おそらく、そういう趣旨の報道があるだろう。これからすぐにそちらに行く。私が着くまで、そこで待っていてくれ。なにかあったら、スクルドに助けを求めるように」
取材でもないのにジョセフが乗り出してくるなんて、ただごとではない。けれどあたしは、アルバートさんの死やボーア博士の失踪への責任感に気をとられていて、その理由を吟味する余裕がなかった。
そしてそれは、不意打ちとなってあたしを叩きのめした。
午後のワイドショーで、いきなりあたしの写真と名前が画面に映し出された。
「アヤノ・カスガは、記者会見でボーア博士やシュレーディンガー氏に恥をかかされた。それを逆恨みしていたのですよ」
『事件の真相』と題されたコーナーで、科学ジャーナリストという肩書の男が、したり顔でそう解説をした。よく見ると、去年の記者会見の会場で、異世界旅行ができるのかと問いかけていた人だった。
「彼女は、スタンドプレーで専門的な質問をしたものの、そもそもの知識不足をボーア博士から指摘されて、なにも言い返せなかった。それを根に持っていたのでしょうな。事実、ボーア博士とこの記者がCERNや街角で言い争う姿を、複数の人間が目撃しているのです」
あたしは耳を疑った。
たしかに、ボーア博士との口論はあった。でもあれは、そんな脈絡で語られるようなものでは……。
そこであたしは、愕然とした。言われてみれば、そういうふうに受け取られてもしかたのないものだった。あたしも、そしておそらくボーア博士も、あきらかに感情に流されていた。
それだけでもジャーナリストとして十分に恥ずべきことだったが、彼の指摘はそこでとどまらなかった。
「一連の記事も、内部通報に基づいた取材の結果ということになっていますが、私がCERNに確認したところ、そのような通報は受理されていないことがわかったんです。通報自体の信憑性が疑われるわけです」
あの告発は、CERNではベルナルドさんとプランク所長しか知らないものだし、いまだに通報者すら判明していない。そこを突かれたら痛いけど、ベルナルドさんやプランク所長の証言は得られる。この人も、公の電波に乗せて発言するのなら、裏付けをとるべきだ。
キャスターもそう思ったのか、これにはさすがに反論した。
「しかし、駆け出しの記者が暴走したとしても、ジョセフ・クロンカイトほどのジャーナリストが、そんな不確かなことを報道するはずがないでしょう」
不本意な言われようだけど、その言い分は大筋では間違っていない。
なのに……。
彼は、待ってましたとばかりに、にやりと下品な笑いを浮かべた。
「アヤノ・カスガは、ジョセフの教え子なんですよ。……まあ、表向きはそういうことになっていますがね」
その言葉が暗に示していることは、いくら鈍感なあたしでも、すぐに理解できた。
怒りは起きなかった。すでにそんなエネルギーは失われていて、ただあたしは悲しみに沈むしかなかった。
言うまでもないが、”合衆国の良心”とまで呼ばれる硬派で社会派のジャーナリストというジョセフ・クロンカイトのイメージは、彼がとてつもない努力を積み重ねて築いてきたブランドだ。ジョセフは独身だから、女性との噂そのものはイメージダウンにつながることはない。けれど、こういう誹謗中傷は、男性としてもジャーナリストとしても、致命傷になりかねない。
あるいは、この機会にジョセフを引きずりおろそうという魂胆なのかもしれないが、あたしのせいでそんなことになっては、ジョセフに顔向けができない。
彼は、さらに畳みかける。
「それから、彼女が情報を得たというCERN関係者ですが、ベルナルド・フォン・ハイゼンベルク博士といって、CERNの次期所長の座を、ニーナ=ルーシー・ボーア博士と争っていたらしいのです」
「では、この報道の裏には、CERNでの権力争いがあるということですか。ライバルを失脚させるためだったと?」
キャスターはいぶかしみながらも、男に問いかけた。
男は、ええ、と大げさにうなづいた。
「そう見て、まず間違いないでしょう。そもそも、内部告発ならば普通はCERNの監査部門にするはずで、それをいきなり無名の記者に持ち込むというのは、どう考えても不自然だ。こういう筋書きができあがっていたと考える方が説得力がある。だいいち、この記者はどうやって、ハイゼンベルク博士やプランク所長にコネをつくったんでしょう。シュレーディンガー氏とボーア博士のプライベートな関係を告発していたが、あるいは彼女も同じようなことをしていたんじゃないですかねぇ」
あたしは、自分が汚泥のなかに引きずり込まれたような気がした。
いわれのない侮辱だ。けれど……。
清廉潔白だと胸を張れない後ろめたさが、たしかにあった。あたしとボーア博士との間には、直接的な行為の有無という差しかない。むしろ、無自覚にそれをしていたあたしの方が、質が悪いのかもしれない。
だとすると、そんなあたしの恥部が、世間にさらけだされたことになる。
そう思ったとたんに、あたしは身の震えがとまらなくなった。
このワイドショーを皮切りにして、アルバート・シュレーディンガーの死亡と、ニーナ=ルーシー・ボーアの失踪は、あたしの売名行為と乱倫による、いきすぎた取材と報道が原因だという論調が主流になった。
あの報道があってから二日足らずだというのに、立場は完全に入れ替わってしまった。
それは、強烈なしっぺ返しだった。
あたしは自分のしたことの意味を、身をもって思い知らされた。




