Article 34 : fall in gravity - 抗いがたい重力(中)
34-1 [BH ̄] 14
ぼくを見上げるアヤノのまなざしが、その焦点を失ったように空中をさまよう。
あの告白に、とまどっているのだろう。
気落ちしているアヤノにつけこむことになってしまって、ずるいといわれてもしかたがない。だが、ぼくにとっても、タイミングは今日しかなかったのだ。
応じてくれるか、拒否されるか。それはもちろんわからない。
だが、もしアヤノが受け入れてくれたなら、こんどこそぼくは、この人をハイゼンベルク家から守り通そうと思う。
うぬぼれと油断から大事なひとを失うことになった、あの過ちをくりかえさないために。
彼女――ナディアと出会ったのは、ぼくがまだ大学生だったころだ。
代々にわたって政治家を輩出してきた、ハイゼンベルク一族の本家の継嗣。それが、ぼくの生まれついての身分だった。
幼いころから政治学やら帝王学やらを学ばされていたが、大学を卒業するまでは好きなことをしてもいいというのが、両親の方針だった。
物理学に興味があったぼくは、実家のあるフランクフルトを離れて、ミュンヘン工科大学に進学した。
講義が終わると、ぼくは友人たちと連れだって、よくビアホールに行った。
ぼくたちのお気に入りは、宮廷という名の、ミュンヘンでもいちばん有名なビアホールで、外国からの観光客もたくさんやってくるにぎやかな店だった。
ナディアは、そこの歌姫だった。
黒い髪に白い肌のエキゾチックな女性で、まろやかなその歌声は、素朴な民謡やヨーデルによく合っていた。
ぼくたちがその店に通うのは、彼女が目当てだったと言っても、そう間違ってはいなかった。聞きたい歌をリクエストしたり、ときには彼女たちのダンスに飛び入りしたりした。
彼女と親しくなるにつけ、だれが彼女の心を射落とすかで、友人たちと賭けもしていた。
クリスマスが近づいたある日、ぼくは、雪の舞う街角で寒そうに震えていたナディアに声をかけた。そして、ホットショコラと手作りのシュトーレンをごちそうすると言って、彼女を部屋に呼ぶことに成功した。
「工科大学の学生さんなのに、お菓子も作れるなんて、すごいのね」
ナディアはそう言いながら、シュトーレンを切り分けた。
ハイゼンベルク家のおかかえの菓子職人から作り方を教わったシュトーレンは、素朴な味わいのなかにも、クリスマス菓子らしい華やかさがあった。
シュトーレンを口にしたナディアは、うっとりとした表情で、おいしいわと言った。そして彼女は、ぼくが期待したとおりの言葉を口にした。
「こんどは、ウチに遊びに来てくれないかしら。母から教わった料理を、つくってあげるから」
ナディアの家は、町はずれのちいさなアパートだった。ナディアによく似た母親と、まだ小さな弟との三人暮らしだった。
古くて狭くて、生活に余裕を感じられる家ではなかった。けれど、家具が少いせいか、部屋はこざっぱりと片付いていた。
使い込まれた木製の食卓に、ナディアの手作りの料理が並ぶ。どれも素朴なドイツ料理だった。
「田舎料理だから、あなたの口に合うといいけど」
ナディアはそう言ってはにかむように笑ったが、ひとくち食べただけで、ひとつひとつの料理に手間暇がかかっていることはわかった。
せいいっぱいのもてなしをしようという気持ちが、ぼくには嬉しかった。
そのときの食事は、ぼくがいままで知らなかった、暖かで穏やかな家族のだんらんだった。ナディアだけではなく、彼女の家族にも、ぼくは惹かれていった。
新年の到来を祝うミュンヘン市長主催の舞踏会に、ぼくはナディアとともに参加した。
ステージ用の紅いドレスを身にまとったナディアのダンスは、ワルツもタンゴもさすがと言うほかないほどに情熱的なものだった。ぼくと彼女のカップルは、会場の注目を一身に浴びた。
夜更けまで踊ったあと、ナディアはぼくの部屋で新年の朝を迎えた。
ぼくは彼女との将来を、真剣に考え始めていた。実家を説得するのは難しいが、時間をかければなんとかなるだろう。
そう思っていた。
だが、そんな甘い夢想は、いつまでも続かなかった。
卒業を待つだけになった夏の終わり、自動車の事故で父と母が急逝したのだ。
それで、事態は急変した。
葬儀が終わると同時に、ぼくは一族の面々の前に引きずり出された。姉のマルガレーテ、それに分家の当主たちが、不機嫌そうな顔を並べてぼくを待ち構えていた。
さいしょに口を開いたのは、姉だった。
「ベルナルド。わかっていると思うけど、貴方にはハイゼンベルク家の継嗣として、なすべきことがあるわ。欧州議会議員の補欠選挙で当選すること。そして、あの女と別れることよ」
姉はそう言うと、調査資料をぼくに突き付けた。
「あの女はロマよ。遊び相手だとしても、すこしは自分の身分を考えなさい。ハイゼンベルク家には、絶対に迎え入れることができない人種なのよ」
これが、ハイゼンベルク家のやり方なのか。ぼくはひそかに監視されていて、交友関係まで暴かれていたというわけだ。
それは、やむを得ないことかもしれない。だが、ナディアに対するいわれのない侮辱は、認めるわけにはいかなかった。
「そんな偏見は持たずに、ナディアといちど会ってみてくれないか。彼女のすばらしさが、わかるはずだ。人種で差別するなんて、議会で言っていることと、やっていることが矛盾するじゃないか」
ぼくの主張は正論で、誰も反論できないはず……だった。
だが、姉たちの――いや、ハイゼンベルク家の意思は、そんな薄っぺらな正義など、あっさりとはねつけた。
「これはわが一族の伝統よ。政治とは関係はないわ。ハイゼンベルク家に、ゲルマン民族以外の血を入れることは、認められません」
それは時代錯誤もはなはだしい、カビが生えたような発想だった。
ぼくは、その瞬間に決断した。
こんな家なんて、捨ててやる。なにも好き好んで、ここに生まれついたんじゃない。
ぼくには物理学の才能がある。ぼくの担当教授は、大学院に進まないことを残念がっていたし、伝手のあるCERNの研究員になることを強く勧めてくれもした。そうだ、実家の世話にならなくても、生きていくことはできるのだ。
ナディアにそのことを告げると、彼女はぼくの目を見つめて、力強い言葉ではっきりと答えた。
「あなたの迷惑になるのなら、私は身を引くわ。でも、あなたが望むのなら、どんなところでもついていく。家も財産も、なにもいらない」
その言葉で、ぼくは、完全にのぼせ上った。
教授に事情を話して、ぼくはCERNで研究員として雇ってもらう手はずを整えた。そして、ナディアを連れて、ジュネーブに向かった。
世間知らずだったぼくは、このとき、ハイゼンベルク家の力を過小評価してしまっていた。
ぼくのそんな行動は、実家には筒抜けだったのだ。
ジュネーブに着くと同時に、ぼくたちは待ち構えていた男たちに捕まり、そのままフランクフルトに連れ戻された。
ハイゼンベルク一族の会議が開かれ、本家の後嗣はマルガレーテとすることが決まった。
そしてぼくは、物理学の才能が認められて、ミュンヘン工科大学の大学院に進学することが許可された。
若き女性当主となった姉は、一族の面々の前で、ぼくに対して宣告をした。
「学者になりたいのなら、好きにさせてあげるわ。生活の面倒も見てあげましょう。その代わり、あの女と別れ、私の――ハイゼンベルク家の意思に、忠実に従いなさい」
その後、ナディアとは、二度と会うことができなかった。
彼女も、彼女の家族も、いつのまにかミュンヘンから姿を消していた。人を使ってひそかに探させたが、行方は知れなかった。
姉の仕業だと、すぐにわかった。
問い詰める、というよりも、怒鳴り込むのに近いぼくの抗議に、けれど姉は顔色ひとつ変えなかった。
「ああいう連中は、すぐに住処を変えるのよ。もともと流浪の民だから。そんな者たちに、いちいちかまっているほど、私は暇ではないわ」
ぼくは姉を罵って、部屋を出ようとした。
ベルナルド、という冷たい呼びかけが、ぼくの背中に投げかけられた。
「わかっていると思うけど、あなたにはハイゼンベルク家しか、居場所はないのよ。あなたの義務を果たしなさい。それから、女は遊びだけにしなさい。あなたが結婚すべき相手は、本家が用意するわ」
ハイゼンベルク家の力は、たとえ離れていても、ぼくをがんじがらめにしばりつける。その重力には、絶対に抗えない。まるでブラックホールのシュバルツシルド半径から、なにものも逃れられないように。
狭く、そして閉ざされた、この世界のなかにいるしかないのだ。
だが、逆に言えば、その内側にさえいればいいということになる。
幸いなことに、マルガレーテはアヤノの聡明さを見抜いている。そして、ジョセフ・クロンカイトにつながるジャーナリストとしてはもちろん、CERNでのぼくの立場を強化しうる学者としても、利用価値があると考えているようだ。
だからこそ、あからさまな邪魔はしてこないし、アヤノの身柄をウィーン警察から引き取る手助けもしてくれたのだろう。
こんどこそ、とぼくは思う。
ぼくは、うまく立ち回って見せる。いつか、ハイゼンベルク家の重力から逃れるチャンスがくる日まで。
いま目の前にいるこの女性となら、それができるにちがいない。
だから……。
ぼくは、あのときつかめなかったものに、もういちど手を伸ばす。
「アヤノ、ぼくといっしょに、この世界の秘密を解き明かしてくれないか」




