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Article 32 : incorrect answer - 不正解の答案

32-1 [AK ̄] 29


 ベルナルドさんも、そしてジョセフも、今回のことであたしを責めなかった。

 だからといって、あたしのやらかしたことが正当化されたわけではない。だれよりも自分自身が、それをわかっていた。とくに、泉美さんがマスコミに囲まれている映像は、あたしの胸をえぐった。

 せめて泉美さんにだけでも謝罪をしようと、スクルドに面談のアレンジを依頼したけど、電話に出た彼女の反応は冷淡なものだった。


「どうしてあなたが謝るの? 報道された内容は、ぜんぶ事実だったじゃない。プライベートなことも含めて当人たちが認めているんだから、あなたのやったことは何もまちがってないでしょ」


 そうだけど、と言いかけたあたしの機先を制して、スクルドは言葉を続けた。


「それより、あなた自身、身辺に気をつけたほうがいいわよ。いまやちょっとした有名人なんでしょ」


 スクルドの言うとおりだった。

 白状すると、ちょっと困ったことになっているのだ。

 特ダネをものにしたのが、まだ無名の学生記者だということ、そしてジョセフ・クロンカイトの教え子だということで、業界ではあたしにかなり注目があつまっているらしいのだ。事実、あたし個人への取材の申し込みも入ってきている。

 でも、いまは自分の心配なんかより、泉美さんに頭を下げることの方が、はるかに大事だと思う。このままウィーンを去ることになったら、一生後悔するにちがいない。

 泉美さんの連絡先を聞いておかなかった不手際にため息を落としたとき、雑踏のなかに見知った人の姿をみつけた。

 あまりの偶然に、胸がどくんどくんと波をうつ。

 どこかさびしげな表情をうかべたその男性は、シュレーディンガー博士だった。

 あたしはその背中を見失わないように、必死で後を追った。



 たどりついた先は、オペラ座の向かい側にある、アルベルティーナ広場に面したカフェだった。

 テラスの席でうつむく博士の前に、あたしは立った。

 博士は、ぶあつい革の手帳に、なにかを書きつけていた。声をかけるのがはばかられて、あたしはしばらくその場にたたずんだ。

 やがて、西に傾いた太陽があたしの背中を照らし、長く伸びた影が博士の手元に落ちた。

 ペンを持つ博士の手が止まる。同時に、カラン、カラン、とシュテファン寺院の乾いた鐘の音がした。

 驚いたように鳩が舞い上がり、博士がゆっくりと顔を上げた。


「シュレーディンガー博士」と、あたしは声をかけた。

 そんなことは、許されるはずもなかった。けれど、博士の顔を見たとたんに、いま話しかけないとどこかに消えてしまうのではないかという、恐れのようなものを感じた。

 博士は目を細め、ああ君かとつぶやいて頬をゆるめた。


「できれば、ファーストネームで呼んでくれないか」

「でも……」

「周りに聞かれたくないんだ。だいいち、僕はもう博士じゃないからね。身から出た錆とはいえ、何年もかかって積み上げてきたのに、失われるのは一瞬だった。……怖いね」


 その言葉は、自嘲するでもなく、あたしを責めるでもなく、まるで他人事のような空虚な響きをともなっていた。

 だからこそ、取り返しがつかないことをしてしまったのだと思い知らされた気がして、あたしは深々と頭を下げた。


「あたしのせいですよね。謝って済むようなことではありませんが」


 非難されることを覚悟していたけれど、頭の上から降ってきたのは、意外なほど柔らかな声だった。


「立ったままじゃ目立つ。話があるのなら、座ってくれないか」


 顔を上げたあたしに、アルバートさんはとなりの席を指さした。あたしは店員にブラウナーを注文して、椅子に座った。

 しばらくのあいだ、気まずい沈黙が続いた。

 あの、と切り出したものの、なにを話せばいいのか、なにを話すべきなのか、あたしにはまったくといっていいほど準備がなかった。

 アルバートさんの手が動いて、革の手帳に触れた。それであたしは、苦しまぎれの問いを思いついた。


「さっき、なにをなさっていたんですか?」


 これかい、とアルバートさんは手帳を取り上げた。


「手記だよ。CERNに入ってからずっと付けているんだ……それより、僕になにか用があったんじゃないのかい?」


「すみません、なにもないんです」と、あたしは正直に答えた。「偶然お見かけしたので、ひとことお詫びをしたかっただけです。アルバートさんと、それから泉美さんにも」


 アルバートさんはきょとんとしたあとで、苦笑した。


「君たち日本人は不思議だね。自分が悪いわけでもないのに、なぜ謝るんだい?」

「アルバートさんや泉美さんに、ひどいことをしたと思っています。お二人から責められて当然のことです。だから謝罪するのは、あたりまえだと……」


 あたしの言葉を、ふうん、とアルバートさんは鼻であしらった。


「謝れば許される、と思っているわけだ。それは誠実なようでいて、じつのところは責任回避でしかないよ」


 予想もしていなかった、痛烈なカウンターだった。

 だからジョセフはあたしを責めなかったのかと、そのとき気づいた。

 あたしの前に、クリームが添えられた濃いコーヒーがサーブされた。クリームをすべて入れても、そのコーヒーは口に苦かった。


「あたし、どうしたらいいんでしょうか」


 自分でもみっともないと感じるほどの、泣き言だった。

 アルバートさんは間違えた答案にバツ印をつけるように、「それは君が考えることだよ」と切り捨てた。

 けれどなにかを思いついたように、だが、と言葉をつづけた。


「もし今回のことになにか引け目を感じているのなら、すべての始まりだった、あの実験の真実を調べてほしい」


 そう言って、手帳のページを開いた。去年の八月の日付が見えた。


「三行六列に配置したNPUスピン素子を動作させたとき、その近傍に微小な重力変化の発生を検知した。それは、パイロット波の集積によって、多重世界への扉が開いた瞬間だった。そして、そのひとつである『アリス』に、物理的な接触を試みて……」


 たしかに成功したんだ、とアルバートさんは、吐き出すように告げた。


「なのに、なぜ追試で再現しない? なぜ実験データは残っていない? 疑問だらけだよ。もしかしたら、僕たちはあの実験の結果が出たときに、実験が成功しなかった世界の住人になったのかもしれない。だったら、実験が成功した世界もあるのかもしれない。そんなことまで考えたよ」


 あたしはその言葉を聞いて、愕然とした。

 それはベルナルドさんが冗談めかして言い、泉美さんが祈りを込めるように話した言葉と、同義だった。だとすると……。


「NPUには、現実世界を分岐させる能力がある、ということですか」


 あたしの問いかけに、アルバートさんがゆっくりと首を横に振る。


「そんなことはありえない、と言えるほど僕は自分の理論を見捨てていないし、その通りだ、と言えるほどに僕はNPUの能力を掌握しているわけでもない。そして、その答えをみつけることは、僕にはできなかった」


 そう告げたアルバートさんのまなざしが、ふっと焦点を失った。

 あたしは、それがひどく怖かった。


「過去形で語らないでください。アルバートさんにも、まだチャンスがあるはずです」


 博士はあたしから目をそらせて、アルベルティーナ広場を見やった。


「やはり、君はイズミに似ているね。君たちは、僕にはまぶしすぎるよ。僕にはもう、チャンスはないだろうからね」

「どうして、そんなことを仰るんですか」


 アルバートさんの横顔から、表情が失われた。そして、ふたたびあたしに向けた彼のまなざしは、まるで他の世界を見ているかのようだった。


「僕はユダヤ人だからね」


 ユダヤ人と聞いても、あたしにはピンとくるものがなかった。

 その歴史は悲劇の連続だったが、優秀な人材も多く輩出している民族だという程度の知識があるくらいだ。かのアインシュタインも、そういえばユダヤ人だった。

 それとアルバートさんの将来が、どうつながるというのだろう。


「わかりません。どういうことなんでしょうか」


 あたしの問いに、シュレーディンガー博士は、かすかに微笑んだ。


「その反応こそが、答えさ。君たち日本人のように、ユダヤ人に対する偏見がない人たちには、けして見えないし感じられない。でも目に見えないからといって、存在しないわけではないんだ。それはまるで量子理論の波動関数のように、巧妙に姿を隠している。けれど、いったん観測されてしまえば、それは悪意や差別という形で実体化されるんだ」


 アルバートさんの言葉を聞いて、あたしは泉美さんが語ってくれた、ある出来事を思い出した。

 オーパンバルのデビュタントのオーディションで、アルバートさんが不合格になったとき、審査員は『出場に相応しくない』『ああいう人たちとつきあわないほうがいい』と言った。

 つまりは、そういうことなのだ。


「あたし、なにも知らなかった」


 アルバートさんは、モカをひとくちすすると、ふっと息を吐いた。


「気にしなくていい。けれど、無知や無関心がだれかを傷つけることもある、ということだけはわかっておいてほしい……」


 そう言って、アルバートさんは腕時計に目を落とした。


「ところで、そろそろいいだろうか。このあと、人と待ち合わせをしているんだ」


 そう言われて、あたしは反射的に「お邪魔しました」と言って、席を立った。

 けれど別れのあいさつをして背を向けたとたんに、なぜか後ろ髪をひかれてあたしは振り返った。


「あの……よかったら、また話を聞かせてもらえませんか」


 あつかましい申し出だということは、百も承知だった。でも、もしかしたら、という期待もあった。

 けれど、アルバートさんは目を閉じると、首を横に振った。


「君と話をしながら、僕はずっと疑問に思っていたんだ。なぜ僕は、この人と会っているのだろうとね。科学者としての僕は、君に対してネガティブな感情はない。でも、ひとりの男としての僕は、君を憎いと思っている。どちらがほんとうの僕の感情なのか、わからないんだ。ただ、イズミを巻き込んだことは、どうしても許せそうにない。だから……」


 アルバートさんは、おだやかに、けれど決然として告げた。


「君と会うことは、二度とないだろう」


 その言葉を最後に、アルバートさんは口を閉ざした。そしてその目が開くこともなかった。

 あたしは、だまって一礼をした。

 夕陽に照らされたアルバートさんの顔には、だれに向けられているのかわからない、透き通った笑顔が浮かんでいた。

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