Article 31 : negative accelaration - 負の加速度(後)
31-1 [AK ̄] 28
「あきれた……」
そう言って、スクルドはため息を落とした。
「ワタリガラスに国境はなくても、人間の世界にはあるんだから、分別のない行動は慎んでもらわないと」
生まれて初めて留置所なんてところのお世話になった翌日のお昼前、あたしを迎えに来てくれた女神は、警察にかけあって一週間のオーストリア滞在許可をとりつけてくれた。
あたしの所持品のなかにフォアエスターライヒ公国で取得したIDカードがあったことと、欧州委員会の下位組織から身柄の保護要請があったことで、パスポート不所持での越境と公務執行妨害については、お咎めなしにしてくれたようだった。
「たとえ欧州委員会の公務であっても、国境を越えるときにはパスポートの携帯は必要ですので、今後は注意してください」
これは異例中の異例の措置ですからね、と警察官から釘を刺されたあと、しぶしぶという感じで滞在許可書が手渡された。
欧州委員会なんていうところから保護要請が出るなんて、いったい誰とあたしを間違えたのだろう。でもそのおかげで、こうして大きな問題にならずにすんだのだから、ラッキーだったと感謝しておこう。
あたしはもう何度目になるかわからない謝罪の言葉を述べて、警察署をあとにした。
警察署を出たところで、スクルドはくすくすと笑いだした。
「あのでぶっちょの警官、内心はひやひやしてたでしょうね。欧州委員会の関係者を逮捕したなんて、あとで上からお叱りをうけてもしようがないからね」
「あたし、そんな組織の関係者ではないんですけど」
「ふうん、まあいいわ。それより、あなたがオーストリア国民の血税で優雅にお泊りしている間に、世間は大騒ぎよ。CNNのトップニュースでCERNと民間企業による研究不正疑惑が取り上げられたと思ったら、タブロイドには当事者のアルバート・シュレーディンガーとニーナ=ルーシー・ボーアのスキャンダル記事だからね」
はいこれ、と言ってスクルドが差し出したのは、アンジェラが勤めている新聞社の朝刊だった。
『ノーベル賞候補どうしの熱愛。研究不正の温床』なんて扇情的なタイトルが紙面に踊っている。
やはりそうなってしまったか、とあたしは後悔した。
警察に拘留された際に、スマホなどの私物は取り上げられたから、外部との連絡はいっさいできなかった。プレスの身分証を見せて、せめてアンジェラにだけでも連絡をと頼んだが、取りつく島もなかった。逃走しようとしたことが、あたしへの心証をかなり悪くしたようだった。
結果として、ゴシップ記事を止めることはできなかった。
誤報ではないけれど、シュレーディンガー博士を必要以上に貶め、泉美さんの心を傷つけるものにはちがいなかった。
一時の感情に任せた、軽率な行動の結果が、これだ。
いまさらどうすることもできない。シュレーディンガー博士や泉美さんに会うことができたら、心からお詫びをしようと思った。
スマホを見ると、何通かのメールが届いていた。
ジョセフからの連絡を催促するメールのなかに、ベルナルドさんからのメールが紛れていた。それを読んで、あたしは血の気が引いて足が震えた。
31-2 [BH ̄] 13
「すみません、あたしのせいで……」
アヤノは涙声で、謝罪を口にした。ひとことの言い訳もしなかった。
マルガレーテからおおよその事情は聞いたが、パスポート不所持のアヤノが街頭で警官から職務質問を受けるなんて、運がわるいとしかいいようがなかった。
そう、運がなかったのだ。ぼくはそう思うことにした。
昨夜のCNNの報道と今朝のタブロイド判の記事が出てからの騒動は、ぼくの予想をはるかに上回っていた。
アルバートもニーナも、学会にはもちろん出席しなかった。
なのに、どうやって嗅ぎつけたのか、マスコミの群れはホテルの玄関に押しかけてきた。とり急ぎバンケットホールを記者会見の場にして、そこに集めるしかなかった。
事前準備もないままで行われた記者会見は、当然のごとく混乱を極めた。
半年前にはあれほどもてはやしていた記者たちは、掌をかえしてアルバートとニーナを糾弾した。
「実験が一回しか成功していないって、捏造じゃないんですか」
「研究や実験のデータがないのに、なぜ論文が認められたんですか」
「公費も入った研究で、いち企業との癒着は問題ですよね」
記者たちは最初から、研究は不正だったと決めつけていて、アルバートたちの説明にまったく耳を貸さなかった。聞いたところで、理解できる人数は限られているだろうが、その態度はぼくを失望させた。
理論には興味を示さなかった記者たちだったが、アルバートとニーナのゴシップには必要以上に執着した。そして、その非難の矛先は、独身のニーナではなく既婚者のアルバートに集中した。
「ボーア博士と肉体関係にあったことを認めますか」
「研究不正をごまかすために、ボーア博士との関係を利用したんですか」
「婚約者がいるのに、別の女性と肉体関係になることを不適切とは思わなかったんですか」
「いまでも関係は続いているんですか」
まるで、芸能人のゴシップ会見だった。
収拾のめどは、つきそうもなかった。
プランク所長は、時間切れを理由にして、会見の打ち切りを宣言した。
所長としての責任を問う声があがったが、すべてはニーナとアルバートの問題であり、アルバートの論文撤回と博士号のはく奪、ニーナの所長就任辞退、徹底的な再調査と再発防止策を実施する、と回答して、プランク所長は強引に会見の幕引きをした。
31-3 [AS ̄] 07
ニュースショーとタブロイド判。ふたつの報道を境にして、世界は一瞬にして反転した。
プランク所長は査問委員会の答申も理事会の承認も待たずに、僕の論文の取り下げと、博士号のはく奪を決めてしまった。
ナノテック・エレクトロニクス社からは、量子コンピュータ『オラトリオ』の製造中止と回収を行うことを決めたという連絡があった。正式な発表は後日になるが、損害はどのくらいになるかわからないという。株価はすでに急落していて、このままなら、僕が買い付けした価格を下回るのも時間の問題だろう。
その後、会見が行われ、インサイダー取引については、『会社はいっさい関知していない』というコメントが発表された。株の売買について『インセンティブとして、なんの問題もない』と言っていた男が、そのおなじ口で『投資家個人の責任であり、会社はどうしようもない』と弁明するのを、僕は他人事のように聞いていた。
なにが起きているのか、なにをすればいいのか、よくわからないままに時間が過ぎていった。
テレビのニュースショーをぼうっと見ていた僕は、その映像にくぎ付けになった。ウィーン大学のルネッサンス様式の入口を背にしたイズミが、記者たちに囲まれていた。
「ご主人と、ボーア博士の関係、どう思いますか」
「慰謝料はどれくらい請求するつもりですか」
やめてくれ、イズミは……。
僕のひとり言など、もとより記者たちに届くはずもなく、彼女への質問が次々に繰り出される。
「インサイダー取引のこと、あなたも知っていたんじゃないんですか」
「研究不正のことは、なにか話はなかったんですか」
もうやめろよと言って割り込んだのは、結婚式で紹介されたイズミの友人たちだった。しかし、記者たちは追求の手を緩めなかった。
「ご主人が犯罪者になって、いまのお気持ちは?」
「離婚ということもありえますか」
黙って質問攻めを受けていたイズミだったが、最後の質問をした女性の記者には、にらみつけるようなまなざしを向けた。
そして、離婚はありえません、と言いきった。
「わたしは、なにがあっても、彼の味方です。これ以上、お答えすることはありません。お引き取りください」
それまで何も感じなかった僕の心が、そのときはじめて熱を帯びた。熱はそのままこみあげてきて、気が付いたら僕は涙を流していた。
なにに対して泣いているのか、僕にはその理由がわからなかった。
イズミの母親から電話があったのは、その番組が放送された直後だった。
「いまさらだけど、私は後悔しています。泉美の気持ちにほだされて、あなたとのことを許したのはやはり間違いでした。どうせこんなことになるだろうと、さいしょからわかっていたのに……」
彼女は体温を感じさせない声で、話し続ける。
僕はなにも言い返せずに、彼女の言葉を聞くしかなかった。
「主人と相談して決めました。泉美は日本に呼び戻します。すぐには納得しないでしょうけど、どんなに時間をかけてでも説得します。ほんとうならあなたの方から、離婚の話をしてもらいたいものだわ」
彼女の言葉は不当なものだったが、イズミのあんな姿を見せつけられては、応じるしかないと心の底が弱音をはいていた。
考えておきます、とだけ答えて僕は電話を切った。
最後に残っていた熱が、僕から失われたことを感じた。拡散しきったエントロピーは、どうやっても元の状態には戻りそうもなかった。
ホテルの部屋を出て、暮れなずむウィーンの街をさまよった。
見慣れた街角に、歩きなれた舗道。なのに。僕の故郷だったはずのこの街が、イズミとの思い出がつまっているはずのこの街が、ひどくよそよそしく感じた。
得体のしれない心細さが、僕を苛んだ。
そして。
シュテファン寺院の鐘の音が遠くから聞こえたとき、僕は不意に気がついた。
もう、行くあても、帰るところも、ここにはないのだと。




