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Article 30 : negative accelaration - 負の加速度(前)

30-1 [AK ̄] 26


 泉美さんと別れてから、あたしはあんなに燃え上がっていた怒りの炎が、すっかり消えてしまったことに気がついた。

 彼女のひたむきさに、あたしはすっかりほだされていたのだ。


 泉美さんの正義は、愛情と不可分な、ある意味ではゆがんだものだった。

 本来、それらは切り離されるべきものだ、と思う。そうでなければ、相対的であいまいな正義が氾濫して、世界は感情で支配されることになってしまう。

 けれど……。

 ならば、そういうあたし自身は、どうなのか。


 ベルナルドさんのことを思うと、あたしの胸はいつも温かくなる。

 検証に協力を求められたとき、あたしは社会的な正義よりも、個人的な欲求を優先したのではなかったのか。あたしは、ボーア博士に追いつめられていた彼を、助けたかった。あたしにはその能力があったから、それで彼の役に立ち、感謝され、そして……。

 彼にマルガレーテさんという女性がいることがわかっても、ボーア博士と関係していたらしいことがわかっても、それでもあたしは、まだベルナルドさんとのことをどこかで期待している。

 結局は、そういうことなのだ。それは、正義だの倫理だのという以前の、あさましい欲望にほかならない。


『それで公平性は、保てているの?』


 ボーア博士の言葉が、いまさらのように心を刺した。

 あたしが激昂したほんとうの理由は、ボーア博士の言葉への怒りじゃなく、それを完全に否定できなかった自分への怒りだったのだ。

 研究不正やインサイダー取引は、まちがいなく社会正義に反することだと思うけど、ボーア博士とシュレーディンガー博士のプライベートな関係への不満は、あたしの私怨でしかない。ベルナルドさんやジョセフの言うとおりで、暴き立てるほどの公共性も必要性もないことだ。

 ――もう、やめよう。

 あたしはスマホを取り出して、アンジェラに電話をかけようした。

 そのとき。


「やあ、記者さん」


 聞き覚えのある、けれどずいぶん場違いな声に、あたしは驚いて振り向いた。そこにいたのは、ナノテック・エレクトロニクスのパウリさんだった。

 あたしは思わず周囲を見回して、身構えた。


「そんなに警戒されるとは、いささか心外だ」

「……あたしのパスポートとカメラ、返してください」


 パウリさんは、やれやれというふうに首を振る。


「なんのことを言っているのか、わからないな。そんなことより、取り引きをしてもらいたい」

「取り引き……ですか?」

「そうだ。君たちが公表しようとしている記事を、買い取りたい」


 暴力で威圧したかと思えば、こんどは金銭による懐柔だった。節操がないなと思うけど、それだけ彼らも必死だということなのだろう。

 もちろん、彼らの身勝手な思惑に付き合う必要などない。あたしに決定権があるわけではないけど、仮にジョセフに話を持ちかけたとしても、どのみち同じ答えを返すだろう。


「お断りします。売り買いするようなものでは、ありませんので」


 パウリさんは、あたしの答えを想定していたようだった。かるく肩をすくめて、クラフト封筒から小切手を取りだすと、その券面をあたしに見せた。

 スイスの有名なプライベートバンクが発行した、預金小切手バンカーズ・チェックだった。だれから受け取ったか、だれに渡ったかわからないままで、現金が手に入るという代物だ。額面は一〇万ドルだった。


「このとおり、こちらは本気だ。買うという表現が気に入らないのであれば、記事に対する報酬だと言いかえよう。新聞社やテレビ局から受け取るのと、なにも違わないはずだ。あの記事が世に出れば、君たちはさぞ痛快だろうが、多くの人が困ることになる」

「御社も、ですか?」

「無論だ。だからこうして、取引を持ちかけているんだよ。この取引に応じてもらえれば、君たちを含めて、関係者の全員が利益を得られる。だれも傷つかず、だれも不幸にならない。どちらがいいか、考えるまでもないだろう?」


 パウリさんの言っていることは、ある意味では正しい。けれど、それはジャーナリズムそのものの否定に他ならない。

 あたしは首を横に振った。


「あたしたちは、特定の個人や団体の利益のためではなく、社会全体の正義や利益のために存在します。だから、やはりお断りします」


 正義か、とつぶやいて、パウリさんは小切手を懐にしまった。


「社会にとって、ではなく、君たちにとっての正義だろう? だが、まあ、それもやむを得ないことか。……ならば、こちらもいろいろと準備をする時間が必要なのでね。しばらくは、おとなしくしていてもらおう」


 そう言って、にやりと笑ったパウリさんは、だれかに合図を送るかのように、右手をすっと差し上げた。



30-2 [BH ̄] 12


「わかりました。共同執筆者の僕が論文の取り下げを決めれば、ニーナも発表を強行できませんから」


 ぼくの説得に、アルバートはようやくうなずいた。そして、そのかわりに、と言って、彼は二つの条件を出した。


「指摘された数式の不備は、特定の条件下でのみ理論が破綻する可能性を示唆したものであり、理論全体を否定しているわけではないという、CERNの公式見解を出してください。それと、ニーナとのプライベートな関係については、いっさい公表しないでください」


 前段はもともとそういう評価だから問題ないし、後段はたんなるゴシップだからこちらが言わなくてもジョセフ・クロンカイトは取り上げないだろう。

 ぼくは了承して、アルバートと握手を交わした。

 時刻は夜の八時をまわったところだ。これならじゅうぶんに間に合う。胸をなでおろしながら、ぼくはアヤノのスマホをコールした。

 ところが。


『電源がはいっていないか、電波がとどかない状態です』


 いつもならすぐに出るはずなのに、なぜかそんな応答だった。

 まだ時間はある。ぼくはそう思って、メールを送っておいてから、アルバートと善後策の検討にとりかかった。


 だが、深夜といえる時刻になっても、アヤノに電話がつながることはなかった。

 報道を先延ばしすることに、彼女は不満そうだった。もしかしたら、わざと電話にでないのではないか。

 ぼくはそんな思いつきを即座に否定した。アヤノなら、そんな卑怯なまねはしないだろう。それに、電源が入っていないというのは、やはり不自然だ。


 ……まさか。

 ぼくはつい先日のことを思い出す。ジュネーブで彼女はいちど襲われている。あのときは偶然にもアルバートに救われたが、そんな幸運は二度も続かないだろう。だが意図的な悪意は、必然的に繰り返されるものだ。

 思えば、アヤノはずっと無防備な状態で動き回っている。不法な越境も辞さないという彼女の行動力に目がくらんで、その状況をまったく考慮していなかった。

 しかも彼女への連絡手段は、スマホひとつしかない。


 動転したぼくは、最悪の選択をした。いや、せざるをえなかった。

 ぼくはその人物の携帯電話をコールした。こちらから頼みごとなんて絶対にしないと決めていたが、そんなことを言っていられる状況ではなかった。

 電話に出た彼女に、ぼくは開口いちばんに言った。


「頼みがあるんだ、姉さん」


 ぼくの必死な口調は伝わったはずなのに、マルガレーテの反応は冷淡だった。


「あとにしてくれないかしら。いま素敵な男性と食事中なのよ。それとも、このまえデートの邪魔をしたから、しかえしのつもり?」


 受話口から、がやがやと賑やかな声が聞こえた。どこぞの政治家のパーティといったところだろう。


「姉さんの都合や嫌味に付き合っている暇はないんだ」


 受話口から、マルガレーテのため息がきこえた。


「それが人にものを頼むときに態度かしら。まあいいわ、なに?」

「ひと探しなんだ。しかも、緊急の……」



30-3 [AK ̄] 27


 パウリさんは「ちょっと君」と、辻に立っていた警官を呼び寄せた。

 何事かを耳打ちされた警官は、あたしに険しい目を向けた。


「失礼、お嬢さん。外国の方だそうですが、パスポートを見せてください」


 まずい、とあたしは思った。そして、どうしよう、という焦りが、あたしに決定的なミスを犯させた。


「ホテルに預けてあります。コピーはとっていません」

「どちらのホテルですか?」


 宿泊先のホテルを答えそうになって、あたしは思いとどまった。そこには、あたしではなくスクルドが泊まっているということになっている。

 彼女に迷惑をかけるわけにはいかない。


「答えないといけませんか」

「ええ。国際物理学会の開催に合わせて、警戒を強化していましてね。外国人でパスポートが確認できないとなると、いったん警察署まで同行してもらうことになります」


 答えに窮しているあたしを怪しんだのだろう、警官は無線で近くの同僚を呼んだ。

 ここで警察や領事館のやっかいになると、ジョセフやCNNに迷惑がかかるだけでなく、今後、シェンゲン協定国への入国が難しくなるだろう。


 ――逃げよう。


 あたしのなかで、悪魔がささやいた。

 次の瞬間、あたしは警官に背を向けた。背後から腕をつかまれたけど、それを振りほどいて一目散に走りだした。

 もともとスキニーパンツにスニーカーという動きやすい服装だし、高校の三年間を通して短距離走でも長距離走でも運動部の女子と競り合ったくらいだから、脚力には自信がある。体格のいい、ありていにいえば小太りの警官くらい、簡単に振り切れるはずだ。見失った外国人の小娘ひとりを、しつこく追ってきたりはしないだろう。

 けれど、そんな安直な判断が大きな間違いであったことを、あたしはすぐに思い知らされることになった。


 背後からホイッスルの音が響くと同時に、あたしは別の警官に行く手をさえぎられていた。どこに身をひそめていたのか、あっという間に二人の警官にはさまれ、あたしの目論見はあっさりとついえた。

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