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Article 03 : equation - 博士たちの方程式

03-1 [NB ̄] 01


 時計の針が午後二時を指し、司会の女性アナウンサーが開会を告げた。

 順番に名前が呼ばれ、簡単な紹介がなされる。


「CERN所長マクシミリアン・プランク博士。標準理論検証グループ統括責任者ニーナ=ルーシー・ボーア博士……」


 私の胸が、大きく鼓動を打った。

 落ち着け、と私は自分に言い聞かせる。私がプレゼンをするわけではないのだから。


 記者会見が行われる大会議室には、思っていたよりも大勢の記者が詰めかけていた。ざっと見て百人は下回らないだろう。

 会見をプロモーションした者として、それは喜ばしいことではあった。だが、これほど大ごとになったイベントを無事にこなせるのか、心配で緊張が高まってくる。


 私は、隣の席に座っているアルバートの表情を、そっと盗み見る。

 このひとは私よりすこしだけ年下だ。そして私と同じように童顔だから、二十代の青年にすら見える。顔つきも体格もそして性格も線が細く、どこか頼りなげで、私が守ってあげなければ何もできないのではないかと思う。

 けれど、時おりだが、そんな印象とは裏腹の落ち着きというか、覚悟のようなものを感じることがある。あのときも、そうだった。



 控室でプレゼンテーションの原稿を読みなおしているアルバートの緊張をほぐそうと、私はつとめて穏やかな口調で話しかけた。


「やっとこの日が来たわね。あなたなら大丈夫よ」

「ああ。できることはすべてやった。でも、やっと来た、じゃないよ、ニーナ。今日から始まるんだ」


 そう答えて微笑んだアルバートは、まるで心強い兄のように感じられた。



「……NPU研究ユニットリーダー、アルバート・シュレーディンガー博士」


 私のまなざしを、そして、会見に集まった記者たちの視線を一身に受けて、アルバートが席を立った。


 いよいよ始まる。

 私たちを新しい世界に誘うセレモニーが。



03-2 [AS ̄] 01


 僕は、CERNのロゴが映し出されたスクリーンの横に立った。

 会場を見回して、深呼吸をひとつ。


「アルバート・シュレーディンガーです」


 名乗ってから、型通りの挨拶をする。

 これほどの大人数の前でしゃべるのは初めてだが、思ったよりも緊張はしていない。それはそうだ。僕にとって、プレゼンや記者会見は、あまり価値のあるイベントではないのだから。


 レーザーポインターのリモコンを操作すると、スクリーンのCERNのロゴが消えて、パワーポイントの画面になった。

「Well」と、僕は切り出した。


「皆さんご存知のとおり、量子理論では、粒子は、観測されていないときにはあらゆる状態が重ね合わされ、確率の波が雲のように広がったものだとされています。そして観測が行われることで、雲のような確率の波は消滅して粒子が出現します。

 観測という行為によって起きる急激かつ不可逆の変化の理由については、いくつもの解釈が提唱されてきました。

 なかでも、観測した瞬間に雲のような波が一点に収束して粒子になるという、コペンハーゲン解釈と呼ばれる考え方が主流になっています。

 しかし、状態の急激な変化を伴う解釈を嫌う物理学者は、けして少なくありません。プリンストン大学院の学生だったヒュー・エヴェレット3世も、そんな学者のひとりでした。

 エヴェレットは、観測するたびに観測者を含む世界そのものが枝分かれして、いくつもの世界がお互いを認知できないまま並存している、という解釈を提唱しました。観測される側だけでなく、観測する側もまた量子的であるべきだという点において、これは画期的なアイデアです。

『多世界解釈』と呼ばれるこのアイデアは、量子理論の多くの問題に有効な答えを与える可能性を秘めていますが、現在にいたるまで実験では検証のしようがないと思われていました」


 画面を切り替えながら、説明を続けていく。

 ここから先は、慎重にいかなければならない。声のトーンをすこし落とし、言葉のテンポも心持ち遅くした。


「私が発明したNPUは、特殊な組成の金属でできたスピン素子を集積したものです。スピン素子の配列は自由に設定できますが、三行六列のマトリックスに配置して動作させると、NPUの近傍に微小な重力の変化が起きることがわかりました。

 スピン素子自体のサイズはナノメートル単位で、質量は極めて小さい。そんなものが、測定可能なレベルの重力変化を引き起こすことはありえません。

 ならばいったい、何が起きているのか。

 様々な可能性を検討するなかで、私はひとつの仮説を立てました。

 それは、スピン素子近傍に多重世界が露出し、その重力変化をセンサーが検出しているのではないか、ということです……」



03-3 [AK ̄] 02


 ちょっと意外だな、とあたしは思う。

 プレゼンをするシュレーディンガー博士は、若くて繊細な印象の男性だった。


 物理学史に名前を残すことになるような学者だから、きっとそれなりに年齢を重ねた人だろうと思っていた。所長だと紹介されたプランク博士はくたびれた感じの男性だけど、てっきりそちらが今回の発見をした人物だと思ったほどだ。


 主任のボーア博士にしても、まだ三十代そこそこだろう。艶やかな雰囲気の美女で、シュレーディンガー博士と並んだら、きっといい画になると思う。でもそのイメージは、研究発表をする物理学者というよりも舞台挨拶をする俳優だ。


 ばかなことを考えている間に、パワーポイントの画像がまた切り替わった。

 あたしはアジェンダを目で追う。

 ページをめくると、簡潔な説明文と図表、そして数式が並んでいる。

 アジェンダもパワーポイントも、画像は少なめだった。しかも、縮小率かアスペクト比を間違えたようで、全体的に不鮮明で見にくい。超一流の研究機関が用意した資料にしては、ちょっとお粗末だ。

 でもシュレーディンガー博士のプレゼンを聴いていると、そんなことはどうでもよくなった。


 波動関数、デコヒーレンス、量子ポテンシャル、そして多世界解釈。

 次々に飛び出すそれらの言葉に、あたしはぞくぞくするほどの興奮と感激を覚える。

 素粒子というミクロな世界を扱う量子理論は、あたしが大学で学んでいるマクロな天体物理とは相性が悪く、いまだにその溝は埋められていない。けれど、数学という「言語」で語られる概念には、そんなボーダーもギャップもない。



「……以上が発表の要旨です。ご清聴ありがとう」


 シュレーディンガー博士のプレゼンが終わり、会場に盛大な拍手が起こる。

 質疑応答に移ります、という司会者の言葉に、記者たちの手がいっせいに上がった。

 

 多重世界とは何なのか、世界はいくつあるのか、などといった質問が繰り返されている。

 年配の男性が、異世界旅行ができるということかと訊く。現時点では不可能と言うしかありません、という苦笑まじりのシュレーディンガー博士の回答に、その男性が、いつになったら実現できるのか、と食い下がる。


 なんだろう、この人たち。

 たしかにセンセーショナルな内容だ。浮かれるのもわかるけど、どうしてそんな質問なのだろう。記事を書くために必要なことには思えない。

 それよりも……。


 あたしは、もういちどアジェンダに目を落とす。プレゼンの途中から、その数式が気になってしかたがなかったのだ。

 提示されている数式の解法を、頭のなかでトレースしてみる。どれも複雑な微積分の方程式だが、物理学をかじったことのある者なら、おおよその見当はつく程度の代物だ。

 事実、どの数式も簡単に解が導き出されていく。ただひとつ、その積分式を除けば。


 ――やっぱり、おかしい。


 そう、それは解けないのではなく……。


「では最後の質問を受け付けます」


 司会者の言葉が終わる前に、あたしは右手を上げた。

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