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Article 29 : doubly-charmed baryon - ふたつのチャーム(後)

29-1 [IY ̄] 01(承前)


 デビュタントのオーディションに、私はすんなりと合格できたけれど、彼は不合格だった。理由はダンスが稚拙だったからではなく、出場に相応しくないというものだった。

 説明を求めた私に、審査員の女性は、嫌悪感もあらわに言い切った。


「貴女も社交界にデビューするのなら、ああいう人たちとはお付き合いしない方がいいわよ」


 このときになってはじめて、私は彼とのあいだに立ちはだかっていた壁の厚さと高さを、思い知らされた。私と彼とでは、立っている場所が違っていたのだ。

 私は「アルバート兄さんと一緒でなければ出ない」と言って駄々をこねたけど、当の本人から悲痛な表情で出場を説得されては、従うしかなかった。


 デビュタントの当日、私に会いに来てくれた彼は、CERNに入って学者になると告白した。突然のことで、私は動転した。

 どうして、という驚きと同時に、やはりそうかという、痛みを伴った理解もあった。

 思えば私は、彼を自分の世界に引きずり込もうとしていた。彼はそれに応えようとして挫折した。私の無知と傲慢が彼を苦しめ、そしてその報いがこの別離なのだ。

 だから私は、ジュネーブに行くと言った彼を、引き止めることはできなかった。

 自分の力で立ち、自分の足で歩いて行こうとしている彼と、万事が親だのみの私では釣りあうわけがなかったのだ。

 でも、あのとき――私の十三歳の誕生パーティのときに、彼にまとわりついて見えた孤独の影が、このときもはっきりと見てとれた。だから私は……。


『ずっと一緒にいてあげる』


 どんな障壁があろうとも、あの約束を守り通すのだと、心に決めた。


「じゃあ、わたしも学者になるわ。そしたら、またアルバート兄さんといっしょにいられるよね」


 私の言葉に、けれど彼は逃げるように顔をそむけた。

 待っているよ、と言ってくれなかった。喪失の予感に、身体の震えが止まらなかった。

 もう、なにもかも、遅いのかもしれない。でも、それでも私は、彼の立っているところに行きたかった。

 デビュタントから帰った私は、父と母にかけあって、ウィーン大学に進学して将来は物理学者になるというわがままを認めてもらった。




 綾乃のこげ茶色のおおきな瞳が、まっすぐに私を見ている。

 ニューヨークの大学で天体物理学を学びながら、ジャーナリストの修業もしている彼女は、私とアルバートの物語をどんなふうにうけとめたのだろう。

 願わくは、この世界に潜んでいる悪意、個人ではどうしようもない歴史の汚泥を、浄化するようなジャーナリストになってほしいと、私は勝手な期待を寄せた。

 そんな私の思いが届いたわけではないだろうけど、彼女は真剣な面持ちで頭を下げた。


「あたし、まだまだ知らないことがあるみたいです。いろいろ教えてくださって、ありがとうございました」


 まだ知らないことがある、という綾乃の言葉は、耳に心地よかった。

 学者としても記者としても、もちろん人間としても、それは大事なことだ。私もそうあろうと、あらためて思う。

 しかし、感心している私をよそに、ところで、と短い前置きをして彼女はその問いを発した。


「シュレーディンガー博士の実験と理論のことですが、あたしはあの理論は未完成だと思っています。泉美さんはどう思われますか」


 当然といえば、当然の問いだった。だが、その問いを私に対して投げかけてきたのは、予想外だった。

 記者とはそういうものかと思ったが、綾乃のまなざしは、まるで研究室の先輩に教えを乞うているように屈託がなかった。

 たぶん、いやきっと、この子はその答えを知りたいだけなのだ、と私は確信した。だから私は、かわいい後輩に、それを教えてあげようと思った。

 彼女が専攻している天体物理学と、私やアルバートが研究している素粒子物理学とはジャンルが違いすぎるが、アルバートの理論に問題(・・)があることを見抜いたくらいだから、その才能は推して知るべしというものだろう。

 私はイメージを膨らませてから、彼女に問い返した。


「ねえ、この宇宙に、世界はいくつあると思う?」


 綾乃は「えっ」と、意表を突かれたように口ごもった。


「聞き方を変えるわ。もし宇宙がユニ・ヴァース(単一世界)ではなくて、マルチ・ヴァース(多世界)だとしたら、それらの世界の物理法則は同じかしら。この世界で成立しないことが、他の世界では成立すると思う?」


 それは、と答えてから、綾乃はすこし考えをめぐらせたようだった。けれど、ほどなく首を横に振った。


「わかりません。あたしの考えがおよばないレベルです」


 そう、それが正解だ。

 私は、アルバートからはじめてあの式を見せてもらったときのことを、話して聞かせた。



 最初は、ひたすら難解に思えた。

 けれど私はすぐにそれに思い至った。

 数式に現れている、アルバートの思考の流れを感じ取ればいいのだ、と。気づいてしまえば、結論にたどり着くのはすぐだった。


 それはまるで、五線譜に描かれた音符のようだった。

 聞こえてきたのは、ヨハン・シュトラウス二世の『美しく青きドナウ』だ。ワルツのステップのように正確で、奏でられるメロディのように調和に富んだ、この世界のありのままの真実がそこに綴られていた。

 わたしは数式の美しさに感動を覚え、同時にその残酷さに戦慄した。あんな経験は、アインシュタインの一般相対性理論の方程式を見たとき以来だった。

 そう、それは、もはや神の啓示だった。

 一点の疑問もなく言える。あの数式は正しい。

 けれど。

 ……その答えは、この世界では得られない。



 私の話に耳を傾けていた綾乃は、首をかしげた。


「間違っている、ということですか。多重世界も存在しない、と?」

「ううん、そうじゃないわ。多重世界は存在する。でもね……」


 私は、まだ誰にも話したことがない、私だけの答えを、綾乃に披露した。



 エヴェレットが言うように、観測の度に世界が分岐し続けているのなら、私はどうしてこの世界にいられるのだろう。

 ついさっきまで、ひとつだった世界と自分――ユニ・ヴァースが分岐して、それぞれにおなじ質量を備えた世界と自分――マルチ・ヴァースとして存在していくということが、ありうるのだろうか。

 ならばあちらの世界に存在する私は、なにを思惟するのだろう。この世界の私と同じ疑問を抱くのだろうか。


 それが、原初の問いだった。そして私は、結論を得た。


 そんな世界の構造は、ありえない、と。

 ならば、観測されて分岐した瞬間に、片方の世界を消滅させるしかない。

 いまもどこかでNPUが稼働しているのなら、そんな「世界たち」が生成されては消滅していることだろう。波動関数のゆらぎのなかに浮かんでは消える、可能性という名の泡沫のように。

 虚数項から導出された反物質世界との対消滅なら、まだそれぞれの世界に存在意義はあった。接触して消滅するまでは存在した、という歴史を残せるのだから。

 でもNPUで生成された世界は、生成と同時に消滅していく。世界が存在したという意義も歴史も与えられないままに。


 それはなんという悲劇だろう。

 アルバートの理論が残酷なのは、世界がふれ合えないことではなく、意味もなく消滅するしかないことにこそある。


 私は、アルバートの研究を、そんな悲しい結論で終わらせたくない。

 アルバートの隣りに私がずっと居てあげるように、世界もまたそうであってほしいと、心からそう思うのだ。



29-2 [AK ̄] 25


 あたしは泉美さんの話を聞いて、シュレーディンガー博士が違法な株の取引に手を出した気持ちが、なんとなくわかったような気がした。

 このひとのために、このひとと同じ場所に立つために、地位や名誉やお金を短期間で手に入れなくてはならないとすれば……。

 でも同時に、そんな必要はなかったのではないか、とも思った。泉美さんなら、ありのままのシュレーディンガー博士でも、愛して寄りそってあげたにちがいないと。

 だからあたしは、やはりそれを確かめておきたい、と思った。

 慎重に言葉を選び、文章を組み立ててから、あたしは彼女に問いかけた。


「もしシュレーディンガー博士が、泉美さんのために罪を犯したとしたら、どうしますか」


 泉美さんは、なにかあったの、と問い返してきた。夢から覚めた直後のように、艶然と微笑みながら。

 あたしはもう、その時点で、彼女の答えを予想していた。だから、はっきりと告げた。


「違法なことをして、お金や地位を手に入れたということです」


 泉美さんの笑顔は、揺るぎもしなかった。

 そしてその口からでた言葉は、あたしの予想を軽々と越えていった。


「彼はそんなことをする人じゃないわ。でも、もしそれが私のためだというのなら、その罪の半分は私が背負わなければならないわね。だって、彼をそこまで追い込んだのは、私なのだから」


 泉美さんの背後で、ミー散乱を起こした木洩れ日が、白い光の帯になって地面に降り注いだ。

 ためらいもよどみもなく、彼女は言葉を続けた。


「彼がCERNでなにをしていたのかは知らないけど、そんなことはもうどうでもいいの。彼は私を迎えに来てくれたし、私は彼に応えることができた。私、やっと彼と同じ場所に立てたの。私たちの世界は、これから始まるのよ」

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