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Article 25 : offset distance - 離隔距離の概算(後)

25-1 [NB ̄] 06(承前)


 しまった、という後悔とともに、つい先日のアルバートの言葉が胸をえぐった。


『NPUの研究は完了しているんだ』


 私のなかに、苦々しさが満ちていく。

 多重世界探査計画の余禄としてNPUの製造があると思っていた私は、あの言葉で本末が転倒しているのではないかということに思い至った。アルバートにとってはNPUの製造が目的であって、私の計画はそのための手段でしかなかったのではないか、と。

 いまとなっては、もはや疑問ではなく確信に近かったが、私はそれを認めたくはなかった。


「私たちは、ボランティアをしているんじゃないもの。研究にもお金はかかるわ。だからスポンサーは大切で、その要望に見合った研究も必要なのよ。NPUはたしかにスポンサー企業の製品に搭載されているけど、それは研究成果のごく一部を社会に還元しているだけのことよ」


 いいえ、とアヤノは首を振った。


「逆です。シュレーディンガー博士がおっしゃっていました。NPUは多重世界を探索するための装置じゃない、まともに動作する範囲でコンピュータの部品として使えればいいんだって。そしてそれは、お金や名誉を手に入れることが目的だったって。これはもう、企業の営利活動のための技術開発です」

「研究が人の役にたつことの、なにがいけないの。研究のための研究、理論のための理論なんかより、よほどいいと思うけど」

「NPUが搭載された量子コンピュータ『オラトリオ』の納入先は、軍需企業じゃないですか。人殺しの道具をつくる手助けをしているようなものですよ。それでも人の役にたっているって言うんですか」


 アヤノが言っていることは、まさしくそのとおりだ。だが、それはものごとの、いや世界のひとつの側面しか見ていない者の言い分だ。


「それは使う側の問題でしょう。貴女の論理は、交通事故で人が怪我したり死んだりするから自動車メーカーは悪い、そう言っているのと同じよ」

「それは詭弁です。ようするに、自分たちがいい思いをできれば、他の人がどうなってもかまわないということですね。そんなの科学の名を借りた、自己満足の追及じゃないですか。……結局、それがこの事件の真相だったというわけですね」

「事件? 真相? なにか証拠があって言っているのかしら。でなければ貴女の妄想でしかないわよ」


 否定しながらも、私にはアルバートの目論見が読めてしまっていた。ありがたいことに、それをアヤノはていねいにトレースしてくれた。


「シュレーディンガー博士は、博士号を得ると同時に、ナノテック・エレクトロニクス社の大株主になっています。『オラトリオ』の成功で株価がはね上がったから、多額の利益が出ている。世俗的な権威と利益を、両方ともしっかり得ています。これ以上の証拠がいりますか」


 私は、アヤノの言葉を遠くに聞いていた。やはりそうか、という妙な納得があった。


『彼はすでにその目的を果たした。だからもう、君もCERNもどうでもいいんだよ』


 あの男の電話の言葉は、文字通りの意味だったのだ。

 アルバートにとってあの理論は、実用的な範囲でNPUの動作を保証できればいいだけのもので、多重世界露出実験の成否なんて、最初からどうでもよかったにちがいない。

 ならばその後に続いた言葉もまた……。


『アルバート・シュレーディンガーという足場を失った君は、転落するしかない』


 私は、自分の立っている場所が、波にさらわれる砂のように失われていくのを感じた。でも、だからといって、いまさらどこに戻れるというのだろう。

 そこまででもじゅうぶんなダメージだったのに、続いてアヤノの口から出た言葉は、私を決定的に打ちのめした。


「あなたはあなたで、この研究の功績でCERN所長という地位が転がり込んでくる。……いいえ、そうじゃない。所長改選の時期に合わせた、というところですか。そのうえ、シュレーディンガー博士との関係で、身体の快楽まで満足させていたんですよね……。そんな人がCERNのトップに立つなんて、あたし絶対に許せません」


 なぜこの娘が、私とアルバートの関係まで知っているのだ。情報源はいったい……。


「私とアルバートのこと、だれから聞いたの?」

「否定しないんですね」

「なによ、一人前に誘導尋問のつもり? そんなどうでもいいことを、ごまかしたりしないわよ。どうせベルナルドから聞いたんでしょうし」


 アヤノは何も答えなかった。調子に乗って口を滑らせすぎたと、反省でもしているのかもしれない。でもその沈黙は、むしろそうであると雄弁に物語っているようなものだった。


「そう……やっぱり、彼も……。いいわよねえ、あの人は。実家の言うとおりにさえしていれば、使いきれないくらいのお金をもらえて、遊びのような研究をさせてもらえるんだから。口ではきれいごとを言っているくせに、裏では自分たちに都合の悪い研究をつぶして回っている。そんな人に、私たちのことをとやかく言われたくないわ」


 いままで冷静だったアヤノの顔色が、一瞬で熱を帯びた。


「ベルナルドさんは、そんな人じゃありません!」


 早口な言葉とともに、ストレートな嫌悪のまなざしが、私に向けられた。

 だれかを、いや、あの男をそこまでまっすぐに信じられるなんて……。私はなんだか、哀れに思えてきた。目の前の少女を、ではなく、私がとうになくしてしまった少女の心を、だ。

 でも、それを認めるわけにはいかなかった。誰よりも、この娘に対しては。


「あらあら、ベルナルドさん、ですって。彼にずいぶん肩入れしているみたいだけど、それで貴女たちがご大層に掲げている公平性とやらは、保てているのかしら」


 アヤノは唇を噛んで、口にしかけた言葉を飲み込んだようだった。どうやら図星だったらしいが、それだけで言い返せなくなるとしたら、ばか正直もいいところだ。ジャーナリストなんかじゃなく、いっそ科学者にでもなればいいのに……。

 自分の思いつきに驚いて、私は自嘲する。


「まあいいわ。夢中になるのもわかるけど、せいぜい気をつけることね。ベルナルドもアルバートも、いいえ、ほかの男もみんな同じ。若くてきれいな女を抱きたいだけよ。どうせ飽きたら捨てるつもりなんだから、こちらも適当に楽しみながらスペアを用意しておかないとね」


 アヤノは私をにらみつけたまま、不潔です、と吐き捨てた。

 軽蔑したいのなら、すればいい。だが、それはいずれめぐりめぐって、自分に向けられることになるのだ。今はまだ、それにすら気づいていないのだろうが……。

 この娘をいじめたいのか、あるいは自分をなぐさめたいのか。よせばいいのに、私はまた言わずもがなの言葉を口にしてしまった。


「いろんな男と関係することが、不潔だというの? ベルナルド・フォン・ハイゼンベルクとジョセフ・クロンカイトを二股かけてる貴女に、そんなこと言われたくないわよ。ほんとに、どうやったらそんなにうまく、男の気を引けるんだか。……そうだ。ねえ、女どうしのよしみで教えてよ。どんなふうに誘ったの? どっちとやったときが、よかったの? 興味あるのよねえ」

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