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Article 24 : offset distance - 離隔距離の概算(前)

24-1 [BH ̄] 10


 ニーナを見送ったあと、ぼくはアヤノに電話をかけた。


「多重世界露出実験のデータは、存在しなかったよ。論文に添付されていたデータや画像は、部外者が撮影していたスマホの動画からキャプチャしたものだ」


 ぼくの話を聞いたアヤノは、あっと声をあげた。


「だから記者会見のアジェンダの画像、あんなに不鮮明だったんだ」

「記者会見のアジェンダ?」

「はい。あたし写真が好きなので、画像や印刷物のできばえは気になるんですよ。あれはちょっとひどかったので」


 なるほど、そういう目のつけどころもあったのか、とぼくは思う。


「なんにしても、あれでは学会で発表させることなんてできない。そう思ってニーナとアルバートに、論文の取り下げを勧告したんだ」

「ボーア博士、承諾しなかったんじゃないですか?」

「よくわかったね」

「はい。なんとなくですけど、彼女ならそうだろうなって」


 ご明察だとほめてあげたいところだが、正直に言って、これはかなり困った状況なのだ。


「論文を取り下げないとなると、学会で問題点や不備を指摘することになる。世界中の物理学者に、自分たちの恥をさらすようなものだ。CERNのガバナンスも疑われるだろうしね」

「でも、なにも言わなければ、論文の正当性を認めたことになりますね」


 アヤノの指摘は、あいかわらず当を得ている。だが、それが簡単にできないから困っているのだ。

 ああ、と答えたぼくの声は、自分で言うのもなんだが、とげとげしかっただろうと思う。


「その通りだよ。追いつめたつもりでいたけど、追いつめられたのは、むしろぼくたちの方だというわけだ。もっとも、ニーナがそこまで考えているかは、わからないけどね」


 理論や実験の不備、シュレーディンガー博士の不法行為、もしかしたらアヤノへの暴行と脅迫。どう考えてもこちらが有利なはずなのに、なぜかニーナの思惑どおりに事が運んでしまう。


 アヤノはわずかな沈黙のあと、どうしましょうか、と問いかけてきた。

 どうするか教えてほしいのは、ぼくのほうだ。事態を打開する切り札を握っているのは、ほかならぬアヤノなのだから。報道という伝家の宝刀をちらつかせれば、ニーナが折れるかもしれない。

 だが、それをぼくから頼むわけにはいかない。もし学会の前に報道されたら、会場はマスコミ関係者に占領されかねないからだ。

 このアイデアは捨てるしかないだろう。


「プランク所長に相談してみるよ」


 ぼくは、そう答えた。とりあえず問題を先送りにするという、安直で短絡的な選択だ。

 電話を切ったあと、これが最悪の選択だったのではないかという、嫌な予感がした。



24-2 [AK ̄] 20


 ベルナルドさんとの通話を終えて、あたしは近くのカフェでランチをとることにした。

 昼どきとあってか、店内は混雑していた。コーラとBLTサンドイッチの乗ったトレーを持って、あたしは途方に暮れる。入ったときにあたりをつけておいた空席は、いつのまにか体格のいいビジネスマンに占領されていた。

 どこか席が空けばいいけど。

 そう思いながら視線を落とすと、目の前の二人掛けのテーブル席にひとりで座っている女性と目が合った……いや、合ってしまった。

 できれば会いたくなかった人物だった。

 あたしは、気づかなかったふりをして通り過ぎようとした。けれど。


「座れば?」


 ニーナ=ルーシー・ボーア博士はそう言って、自分のサンドイッチにかじりついた。


「ありがとう。おじゃまします」


 あたしは観念して、いちおうのお礼を言った。そして目を合わせないようにしながら、BLTサンドイッチをコーラで喉に流しこんだ。

 さっさと食事をすませて席を立つつもりだったけど、ボーア博士の一言で状況は変わった。


「どうして貴女がここにいるの?」


 いろいろな意味で、今さらな問いだ。そんなこと、言わなくてもわかっているだろうに。

 あたしはわざとらしく、ため息をついてみせた。


「取材です……決まってるじゃないですか」

「そうじゃないわ。パスポートも持たずに、どうやってウィーンまで来たの?」


 ボーア博士は、そこでなにかに気づいたように息を飲んだ。


「シュレーディンガー博士からお聞きになったのか、実行犯からお聞きになったのか知りませんけど、よくご存知ですね」


 ふん、とボーア博士は、そっぽを向いた。


「取材なら私のところに来いとは言ったけど、それを真に受けてこんなところまで追いかけてくるなんて、あきれたわ。正直、迷惑でしかないけど、逃げたと言われるのも癪だから、ランチの間だけならつきあってあげてもいいわ」

「わかりました。それなら訊きますけど……」


 あたしは思い切って、一気に核心に迫った。


「シュレーディンガー博士の論文ですけど、本当に正しいと思っているんですか?」


 ボーア博士の表情が、苦々しげにゆがむ。

 あたしは手ごたえを感じて、畳みかけるように言葉を続けた。


「虚数項まで持ち出してつじつまを合わせた数式に、一瞬たりとも存在することができない多重世界モデルじゃないですか。シュレーディンガー博士ご自身も、間違いを認めて撤回なさっているんですよ。なのになぜ、あの論文を学会で発表するんですか」



24-3 [NB ̄] 06


 アヤノの問いに、私はやはりそれか、と思った。

 この娘はジャーナリストを気取っているようだが、興味と能力はアカデミック方向に偏っている。アルバートに理論の不備を認めさせたことは健闘だと思うが、私からすればそんなことは……。


「数式が正しいとか、間違えているとか、そんなのどうでもいいじゃない」


 その返答を想定すらしていなかったのだろう。アヤノは丸い目をさらに丸くして、間抜けな声で「えっ」と答えた。

 私はこのまま押し切ることにした。


「数学的に成立しても、現象を説明できなければ意味がないのよ。逆に、数学的にありえなくても、現象を説明できる理論のほうが優れているの。アルバートの理論は、まさに後者のタイプだわ。だから数式の些細な誤りなんて、問題じゃないのよ」


 これでぐうの音も出ないだろう。そう思ったが、アヤノはすぐさま反論してきた。


「納得できません。数学の持つシンプルで絶対的な正しさこそが、あらゆる理論に求められていることです。それを追求しないで、現象が説明できればいいなんて、そんなの科学じゃないです」


 記者会見の時のうろたえぶりからすれば、格段の成長だ。でも、その思考は古くさく、その主張は青くさい。大学なんてところで学ぶと、こういう人間ができあがるのだろう。

 議論を続けても、平行線をたどることは明らかだった。私のサンドイッチは残りも少なく、いい切り上げどきだった。なのに……。


「それなら、なんだと言うの?」


 怒りと驕りで引き際を誤った私は、受けてはならない問いをアヤノから引き出してしまった。


「あなたたちの研究は、真理の探求のためじゃなく、スポンサー企業のためだったんじゃないんですか?」

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