Article 23 : alpha decay - 崩壊の予兆
23-1 [BH ̄] 09
「エリザベート・アセット・マネジメントに取材に行きました。高層ビルの上層階にあって、ドナウ川とウィーンの森の眺めが、すごくよかったです」
スマホから、アヤノの元気な声がした。
一昨日はすこし不安定だったが、まる一日すぎた今日は声の調子も話しぶりも、本来のアヤノにもどっているように感じた。
「ほんとうにウィーンに来たんだね。ずいぶん危ない橋を渡るものだ」
「途中で投げ出したくなかったから。でも……」
「でも?」
「はい。自業自得だからしかたないんですけど、初めてのウィーンが不法入国なんて。いままで校則も破ったことなかったのに」
アヤノのぼやきで、彼女がまだ学生だったことを思い出して、ぼくは思わず吹き出してしまった。
笑うなんてひどいです、というアヤノの非難は聞きながしたけど、ぼくはあることに気づいた。
「そういえば、ホテルはどうしたんだい。まさかこの寒空に、野宿じゃないだろうね?」
「先生の伝手があって、その人のお世話になってるんです」
「男の人?」
反射的に聞きかえしてから、ぼくはしまったと思った。これではまるで、ぼくがその人物に嫉妬しているように聞こえる。
ぼくの脳裏を、ふっとあの子の姿が過った。近づきすぎたパーソナルスペースは、時間と空間を超えて、彼女とのそれと同じに思えた。なぜだか不愉快な気分になった。ささくれ立った感情をなだめて取り繕おうとした矢先に、アヤノがあっと声を上げた。
「心配かけてすみません。危ないことはしてませんから、安心してください……」
そう答えてからアヤノは、その人物が若い女性であることと、宿泊しているホテルが有名なチェーン店であることを教えてくれた。それで安心したけど、心の水面に立った波は収まりはしなかった。
それより、と前置きして、アヤノは興奮ぎみに言葉をつづけた。
「先生に裏をとってもらっていますが、ナノテック・エレクトロニクス社からシュレーディンガー博士に、不適切な利益供与があったことが確認できました。株式のインサイダー取引です」
「驚いたな。どうやって、そんな情報を手に入れたんだい?」
それは、と言いよどんだアヤノだったが、淡々とした様子でとんでもない台詞を口にした。
「あたしがただひとつ差し出せるものと、交換しました。ごめんなさい」
その言葉にひそむ覚悟のようなものと、文脈から脳裏にうかんだ妄想に、ぼくはうろたえた。
「ちょっと待って。それってまさか……」
アヤノはもう一度、ごめんなさい、と言った。
「しかたなかったんです。でも、大丈夫ですよ」
「大丈夫って、そんな」
思わず気色ばんだぼくに、アヤノの返答は落ち着いていた。
「いちおう、実名は伏せましたから。まあでも、情報をもらしちゃったことには、かわりないですけど」
くわしく聞けば、引き換えにぼくたちの動きを教えたのだという。拍子抜けすると同時に、ぼくは自分の下劣さを恥じた。
これで、あの告発文書の内容が、またひとつと裏付けられた。アヤノの決断力と行動力が勝ち取った大手柄だ。たいしたものだと思ったが、ジャーナリストとしての才能を見せつけられたような気がして、ぼくは素直に喜べなかった。
こうなると、ぼくの方もそろそろ結論を出さないといけないだろう。
電話を切ったぼくは、覚悟を決めてその場所に向かった。
アルバートが泊っているホテルのラウンジで、ぼくはアルバートとニーナとにらみ合っていた。
ぼくの呼び出しに二人がすんなりと応じたのは意外だったが、思えば学会発表を明日に控えているから、そのための地ならしのつもりもあったのだろう。
そんな思惑は無視して、判明している事実をもとに、ぼくは単刀直入に切り出した。
「実験のデータのことだけど……」
二人の顔が、同時にこわばったように見えた。
「まだ提出されないのは、どういうことなんだい? 論文の審査が未了の状態で学会発表なんて、前代未聞だよ。じつはぼくの耳に、実験のデータが存在しない、という話が入っているんだ。これは、理事としては聞き逃せない。事実を正直に答えてくれるかい」
ニーナは肩をすくめると、なにごともないかのように答えた。
「実験のデータはあるし、論文に添付したとおり、証拠の画像もあるわ」
その答えに、ぼくは落胆する。ニーナには、正直に認めてほしかった。出世のためには手段を選ばない人だと知っているが、研究に関してだけは嘘のない人だと信じていたからだ。結果として、ぼくがつぶしてしまったけど、『テルスノヴァ・プロジェクト』だって、あんなにまっすぐに熱意を傾けていたのに……。
「……残念だよ」
ぼくはすこしもったいぶって、その宣告を行った。
「CERNのサーバーを調べた。IT部門の協力を得て、隅から隅までね。でも、多重世界露出実験のデータも記録も、いっさい存在しなかった。あの論文の画像やデータは、いったいどうしたんだい?」
「それは……」
ニーナが言葉に詰まる。
「まさか、捏造じゃないだろうね?」
違うわと激しく首を振って、ニーナがぼくの言葉を否定した。
どうやらその一線だけは、超えていないようだ。ぼくは内心で、胸をなでおろした。
「実験に立ち会っていた人が撮影したスマホの動画を、提供してもらったのよ。それを加工したものだわ」
「立ち会っていた人?」
「ええ。フォアエスターライヒ公国大公、エリザベート四世殿下よ。現場を撮影していたことは、私たちだけじゃなくて、プランク所長も承知しているわ」
実験に部外者を立ち会わせ、動画の撮影までさせていたというのは初耳だった。普通なら、それだけで懲戒委員会に呼び出される行為だ。だがプランク所長が了解していたとなると、おそらく不問になるだろう。いずれにせよ、そっちはどうでもいい。
「規程違反については、いまさらあれこれ言わないけど、データの件はそれじゃすまないよ。悪いけど、スマホの動画なんて加工も改ざんもやり放題だから、資料としての価値なんてゼロに等しい」
ニーナは、悔しそうに唇を噛んだ。
「実験は成功したわ。そして、多重世界にこの指が届くところまでいっていたのよ。データだって、まちがいなく記録しておいた。なのに、残っていないのよ、なにも。きっと、だれかが消してしまったんだわ」
ぼくは、ゆっくりと大きく首を横に振る。
「CERNのサーバーのセキュリティは厳重だ。データを書き換えたり消したり、そんなことが簡単にできるわけがない。それは、君もよく知っているだろう?」
ぼくの問いかけに、ニーナは答えなかった。
追試では再現しなかったこと、LHCの高出力運転で測定機器に影響があっただろうこと。二つの否定的な事実があるうえに、実験の結果を裏付けるデータがないとなれば、科学者として選ぶべき道はひとつだ。
「ニーナ、アルバート。悔しいだろうけど、ここはいったん論文を取り下げるべきだ。このまま学会に出して、そこで不備や不正が暴かれてしまったら、もう取り返しがつかない。実験が成功したというのなら、きちんとデータを取りなおして、あらためて発表すればいいじゃないか」
しばしのあいだ、ニーナはぼくをにらみつけた。
アルバートは、どこか泰然としたような顔で、ぼくとニーナを見比べている。
くっという苦しそうな声とともに、ニーナの口から感情の激流がほとばしった。
「あなたは……あなたはどうして、私の邪魔ばかりするの? もう一歩、あと一歩というときに、私からすべてを奪っていく。いったい、なんの権利があって、あ、あなたはっ……」
声を詰まらせたニーナは、コートとバッグをつかんで席を立った。
「どこに行くんだい?」
ぼくの問いかけに、ニーナは答えを返さずに背を向けた。
優美なという形容がぴったりな背中ごしに、意地っ張りな少女のような声がした。
「論文は予定通りに発表するわ。アルバート、準備を進めておいてちょうだい」
23-2 [NB ̄] 05
ホテルの近くのカフェに入って、私はランチにサンドイッチを買った。
ベルナルドの言葉はどれもこれも正鵠を射ていて、耳に痛いものばかりだった。でも、ここで引くわけにはいかないのだ。
あの論文を引っ提げてCERNの所長の座に就く。それこそが、多重世界探査計画を推進する原動力になるのだから。
なのに。
私の決心をあざ笑うかのように、その男から電話がかかってきた。
「やあ、ニーナ」
スマホから聞こえてきたなれなれしい声に、私はいらだちを抑えるのに苦労した。
いまは誰とも話したくない気分だ。ましてや、この男とは……。
「いい加減にして。もう声も聞きたくないんだから」
「ひどい言われようだね。君のためを思って、こうして連絡しているのに」
「おためごかしでしょ、どうせ」
「どう受け取るのも君の自由だ。とはいえ、この話は聞いておいた方がいいと思うよ。……アルバート・シュレーディンガーのことだが、あの男に肩入れするのは、やめておいたほうがいい」
あなたには関係のないことでしょう、と言いかけた私よりも先に、相手は言葉を継いだ。
「アルバートは君を利用しているだけだ。いずれ近いうちに切り捨てられる。彼の目的は、地位と金だけだからね」
「そんなことないわ……いいえ、そんなことは知っているわ。だから彼は私とともに、CERNを……」
「さて、それはどうかな。アルバートの結婚相手は、代々に渡って日本の外務官僚を出している家の娘だ。そしてその母親の実家は、日本でも有数の名家だ……」
それはアルバートから聞いて知っていた。
でも、イズミというその娘はアルバートの幼なじみで、兄のように慕われていて、彼もまた妹のようにかわいがっていたという話だった。だから、アルバートはイズミとの結婚を切望していたのだと思っていた。
だが、この男の言葉は、そうではないと言いたげだ。
たしかに、結婚してからアルバートの態度は、がらりと変わった。私の肉体への興味を失うのは仕方がないと思っていたけど、まるで研究への熱意まで失ってしまったように感じられることがしばしばある。さっきだって、助け船を出そうとすらしてくれなかった。
わたしは、そこまで考えたところで、はっとなった。
まさか、彼の野心の到達点は、もう……。
私の動揺を見透かしたかのように、電話の声は続く。
「わかってくれたようだね。そう、彼はすでにその目的を果たした。だからもう、君もCERNもどうでもいいんだよ。このままなら、アルバート・シュレーディンガーという足場を失った君は、転落するしかない。それを、よく考えてみることだ」
その言葉を残して、電話は切れた。
震える手でスマホをバッグにしまい、ため息をついて、それからサンドイッチに手を伸ばす。そのときになってようやく、私はその不愉快な現実に気がついた。
いちばん会いたくない、しかもここにいるはずのない人物が、私の目の前に立っていることに。




