Article 22 : equivalence - 等価交換のリスク
22-1 [AK ̄] 19
「年上の人だと思ってたから、びっくりした」
「そうかな。わたし、これでもけっこう歳とってるんだよ」
まるで新しいクラスメイトと知り合ったように、あたしとスクルドはすぐに打ち解けた。もしジョセフがスクルドの年齢を知っていたのだとしたら、柄にもなく気の利いたことをするものだと思った。
でも、逆にそれがあたしの疑心を駆り立てた。もしかしたら、あたしが事件に深入りできないように、その程度の人物をあてがわれたのではないのか、と。
スクルドは、お腹が空いたねと言って、サラダとフライドポテトがセットになったシュニッツェルを注文した。
「お酒は飲めるの?」
その言葉づかいからは、とっつきやすそうな人柄がうかがえたけど、だからこそ心配になる。
でも……。
あたしはジョセフの人選を、信用するしかない。もし頼りにならないようなら、ジョセフに文句を言えばいいのだ。
ここはまず、相手をよく知るためにも、仲良くなっておこう。
あたしが「うん」とうなずくと、スクルドは嬉しそうにリースリングのグラスワインを追加オーダーした。
「あなたって、ほんとうに可愛いわ。でもね……」
ホールスタッフが去ると、スクルドは不意にあたしに頬を寄せてきた。
スズランの花のような甘酸っぱいミッドノートとともに、クリスタルガラスを思わせる硬質な声が、耳元でささやいた。
「エージェントとの密会に、素顔でのこのこ来るなんて、不用心すぎるよ。こんな仕事してるんだから、もうすこし気をつけないと」
そう言われてみて、あたしははじめて気がついた。注意深く観察していれば、わかったはずだ。
スクルドの髪は精巧なウィッグだし、目にはカラーコンタクトを入れている。ほんとうの彼女は、この姿ではないのだ。
あたしの耳元でちゅっと音をさせて、スクルドは顔を離した。傍目には、親しい人どうしのチークキスにしか見えないだろう。
すべてが計算された行動だった。見た目や話しぶりで、あぶなく相手を見誤るところだった。緩んでいたあたしの気持ちが、きゅっと引きしまる。
「でも、まあいいか。あなたはまだ無名だし、顔も知られていないみたいだからね。じゃあ、仕事の話ね……」
取材や面談のセッティングはするが立ち合いはできないこと、本名を含めてプライベートに関する詮索はお互いにしないこと、取材であたしが得た情報はすべて共有すること、謝礼の類は一切不要であること。
スクルドが列挙した協力の条件を、あたしは了承する。ジョセフから言い聞かされていた内容とぴったり一致する。
あたしはさっそく、エリザベート・アセット・マネジメントとの仲介を頼んだ。
別れ際に、スクルドからホテルのカードキーを受けとり、あたしはひとりで夜の街に出た。
イルミネーションに彩られた音楽の都は、マンハッタンのけばけばしさとは違って、落ち着いた華やかさがあった。
散歩でもすれば楽しいだろうけど、もう疲労がピークだった。
スクルドがチェックインを済ませてくれていたホテルは快適で、部屋に入ると安心感とともに眠気が押し寄せてきた。
シャワーもそこそこに、あたしはベッドに入った。
目覚まし時計のアラームで、あたしは深い眠りから目を覚ました。
カーテンを開けると、空には鈍色の雪雲が低く垂れこめていた。街並みもセピア色に沈んで見える。
早春という感じだったジュネーブと比べると、ウィーンはまだ冬なのだと思えた。
スクルドの手配は素早く、しかも確実だった。
朝食を食べているところにメールが来て、エリザベート・アセット・マネジメントでナノテック・エレクトロニクスの株を扱っているファンドマネージャーとの面会が、今日の午前中にセッティングできたことを知らせてくれた。会見の場所は、驚いたことに、当のファンドの本社オフィスだった。
ドナウ川の畔にそそりたつ黒い結晶のような超高層ビル、ドナウシティ・タワー1の上層階に、エリザベート・アセット・マネジメントの本社はあった。
応接スペースは、ゆとりのある間隔でウォルター・ノルのオフィスファニチャーが配され、モダンなホテルのロビーのようだった。
壁一面のガラス窓の向こうには、どんよりとした曇り空の下、定規で引いた線のように大地を貫く二本のドナウ川が見渡せた。旧市街地の彼方には、ウィーンの森が黒い広がりを見せている。小高い場所はカーネンベルグの丘だろうか。
着席して待つほどもなく、あごひげをたくわえた壮年の男が現れた。
高級そうなスーツを一分の隙もなく着こなしたその男からは、ジョセフに相通じるものを感じた。
名刺を交換して、取材に応じてくれた礼を言う。
「週末なのに、申し訳ありません」
「なに、かまわない。日曜日でなければ、だいたい出社しているからね。それに”スクルド”には借りがあるんだ。ただし……」
男はそこで、もったいぶるように咳払いをひとつした。
「情報を提供するに当っては、相応の対価をもらいたい。情報はただではないからね。というか、無料で手に入る情報なんて、宣伝が目的のものか信用できないものだから、ビジネスでは役にたたないのさ」
「お金がいるということですか?」
男は首を横に振って「ナイン」と否定した。
「この業界では金なんて、たんなる数字でしかない。情報には情報だ。君が我々の持つ情報を必要としているように、我々も君が持っている情報を必要としている。S博士の理論は正しいのか、それとも正しくないのか。それについて君たちとC研究所は、いつどう動こうとしているのか。その情報と交換ということで、どうだい?」
お菓子の物々交換みたいなものだと言わんばかりの、軽い口調での誘いだった。
けれど、つきつけられたのは、あたしが決断していいとは思えない、重大な提案だった。
イニシャルトークを装っているとはいえ、それらが特定の人物や組織を意味することは、誰が見ても明白だ。
この提案に応じることで、事件は大きく動き出すだろう。そして、もしかしたら、だれかにとんでもない迷惑をかけたり影響を与えたりすることに、なるかもしれない。いまさらのように、あたしが取り組んでいる事件の、あたしが知っている情報の意味が、巨大な質量をもってのしかかってきた。
けれど、もしこの提案を拒んだら、すべてがおしまいだ。なんのために、あぶない橋をわたってここまで来たのかわからない。
ジョセフに相談する時間はない。あたしが、ひとりで決めるしかないのだ。
深呼吸をして心を定める。
オーケーです、とあたしは答えた。
男は、感心したようにうなづいて、握手を求めてきた。
あたしがそのごつい手を握りかえすと、「win winだね」と言って、男ははじめて笑顔を見せた。
これまでの経緯と状況を、かいつまんで説明する。
男はふうんと唸って、コーヒーを口にした。
「ところで、このオフィスの印象はどうかな。気に入ってもらえたかい?」
「とても良い眺めだし、素敵な雰囲気ですね。こんなオフィスで働けるなんてうらやましいです」
はははと、男は軽く笑う。
「このビルが完成するまえは、オフィスは旧市街にあったんだ。歴史のある重厚な建物だったが、さすがにITの設備に限界があってね。ここには最高速の光ファイバーが張り巡らされていて、トレーディングルームもあるしテレビ会議もできる。便利なものだよ。すべて、こういう会社のおかげというわけさ」
そう言って男が差し出したのは、IT企業の株式に投資するファンドの目論見書と運用レポートだった。
よく見ると、小さな緑色の付箋が貼り付けてある。そこを見ろ、ということなのだろう。付箋のページは、ナノテック・エレクトロニクスの株価のチャートだった。
去年の十一月、記者会見のすこし前に、赤い三角のマークと”Buy AS 1 million”という書き込みがあった。
”Buy as”、そんな熟語あったっけ? それに、なんでasが大文字なんだろう……。
あたしは、あっと声をあげそうになった。
アズじゃない、アルバート・シュレーディンガーだ。彼がこのタイミングでナノテック・エレクトロニクスの株を買ったということか。
そしてそのマークから四か月後、ちょうどジョセフがナノテック・エレクトロニクスの新型量子コンピュータのニュースをとりあげたころから、株価は急上昇して今は十倍ちかくになっている。
だとすると、これは……。
「インサイダー取引……」
あたしがもらした答えは、この業界の人間であれば、聞き捨てならない言葉のはずだ。だけど、男は眉ひとつ動かさなかった。
あたしはそのまま推理を進めた。
「会見が行われたときには、すでに特許申請がなされていたから、NPUの技術情報はシュレーディンガー博士と組んでいたナノテック・エレクトロニクスが独占的に使うことができた。そして『オラトリオ』の成功で、あの会社の株価は一気に高騰。その前に安値で株を買っていたASという人物は、巨額の利益を得た」
明白な証拠とはいえないけれど、シュレーディンガー博士の行為は犯罪にあたる可能性が高い。
いい人かもしれない、そう思ったのに。
シュレーディンガー博士に抱きかかっていた好感は、あたしのなかで絶対値をとって嫌悪感に置き換わった。
「ずいぶん想像力がたくましい……。たしかに株式は、ハイリスクだがそのぶんハイリターンな投資対象だからね。それに魅力を感じる人は多い。そして時には、株式の購入資金を我々が用立てることもある。そういえば、かの有名なアルバート・シュレーディンガー博士にも、いくらかの資金をお貸ししていたかな」
男はあたしの推理を暗に肯定してから、どうぞ、とコーヒーを勧めた。男も、もう一口すする。
「もっとも株価というやつは、女性の心のように気まぐれでね。買うタイミングよりも、売るタイミングを見極めることの方が、大事なんだよ。恋愛も、つきあいはじめるときよりも、別れるときの方が難しいものだろう?」




