Article 21 : excited state - 反発の行方
21-1 [AK ̄] 18
ホテルに戻ってすぐに、あたしはジョセフに電話をかけた。
ニューヨークはちょうどランチタイムだ。最初はのんきな口ぶりで応じていたジョセフだったが、暴漢に襲われたことを話したとたんに口調が変わった。
「取材は中止だ。すぐに帰ってきなさい」
「パスポートもビザも盗られてしまったので、帰れません。だから……」
ニューヨークに帰るには、パスポートだけでなく留学生用のF1ビザの再発給も必要だ。
幸いなことに、ニューヨークで取ったバイクの免許証や、CNSの記者証、それにコロンビア大学の在留資格証明書が手許にあるから、日本に帰らなくても手続きはできそうだ。でも、今日はもう時間外で領事事務所は閉まっているし、明日は土曜日だから申請は週明けになる。そこからどんなに短く見積もっても、一週間はかかるだろう。だとしたら……。
「あたし、ウィーンに行きます。学会がどうなるのかも気になるし、エリザベート・アセット・マネジメントの取材をすべきだと思うし」
ベルナルドさんから聞いた会社の名前に、思い当たることがあった。
エリザベート・アセット・マネジメントといえば、ナノテック・エレクトロニクスの大株主だ。シュレーディンガー博士の研究に多額の出資をしているというのは、偶然とは思えない。
けれどジョセフは即答で、「だめだ」と、あたしの提案を却下した。
「シェンゲン協定違反じゃないか。アヤノの容姿なら外国人だとすぐにわかるから、駅やホテルでパスポートの提示を求められる可能性がある。紛失したままでの越境がばれたら、拘留されるだけでなく、最悪の場合はしばらくシェンゲン協定圏に渡航できなくなるかもしれない。それに、むしろこちらの方が重要だが、これ以上は危険だ」
危険だという警告はつまり、シュレーディンガー博士が示唆した可能性に、ジョセフもまた思い至ったということに他ならない。確たる証拠があるわけじゃないけど、あたしを襲った男たちを裏で操っている人物とその目的については、ほぼ見当がついたと考えていいようだ。
あたしの脳裏に、ニーナ=ルーシー・ボーア博士の顔が浮かぶ。今ごろ、あの男たちから報告を受けて、ほくそ笑んでいるにちがいない。
その姿を想像したとたんに、煮えたぎるような怒りに身体が震えた。
脅せば逃げだすだろうと見くびられたことも悔しかったけど、なにより、あんな醜態をさらした自分の無様さが腹立たしかった。
だから筋違いだとはわかっていたけど、あたしはその怒りの矛先を電話の相手に向けた。
「あんな脅迫をしてきたのは、相手にやましいことがあるからですよ。なのに、このまましっぽを巻いて逃げろと言うんですか」
あたしの剣幕を受け流すように、ジョセフは淡々と答えた。
「そうだ。いいかいアヤノ、私たちは諜報機関でも捜査当局でもない。この仕事のプロなら、自身の安全確保は最優先事項だ。もしアヤノの身になにかあったら、とりかえしがつかないんだ」
ジョセフの口からそんな言葉を聞いたのは、これが初めてだ。意外なことに、本気で心配してくれているらしい。でも……。
「心配してくださるのはうれしいですけど、それはあたしが女で、まだ子どもだからですか」
「落ち着きなさい。これはもう、君の手に負える事件じゃない」
冷静に考えれば、ジョセフの言うとおりだろう。
この事件を扱いきれるのかと問われれば、任せてくださいと言える自信も根拠もない。わかっている、そんなことは……。
「でも行かないと。あたしはジャーナリストだから。先生は、危ないからとか、手に負えないからといって、途中で投げ出したりしないですよね。ご自分がしないことを、あたしにはしろと言うんですか」
自分で自分をほめてやりたいほど、完璧で狡猾な台詞だった。
電話の向こうでジョセフが考え込む姿が、手にとるようにわかった。数秒の沈黙が、数分にも感じられた。
「わかった、許可しよう。ただし、ウィーンに行ったら、私のエージェント“スクルド”と接触しなさい。彼女と連係をとることが絶対条件だ」
それは、今までに聞いたことがない、低くて静かな、しかし有無を言わせない迫力のある声だった。たぶん、眼鏡を光らせて、そのまなざしを読ませないようにしているはずだ。
ジョセフが、ウルフパックと呼ばれる自前のエージェントたちを使っていることは、知っていた。けれど、そのエージェントを実際に紹介されたのは、初めてのことだった。
まるでスパイ映画でも見ているかのように、現実感がなかった。けれどそこには、得体の知れない不安があった。一線を越えてしまったことを、あらためて突き付けられたように感じた。
あたしは気圧されつつあることを悟られないように、あえて軽い口調で尋ねた。
「スクルドって、ノルンの泉に住む三女神の一人ですよね。それ、本名なんですか」
冗談だ、と笑って本名を教えてくれたら、いくらかでも不安は薄らいだかもしれない。けれど電話の相手は、そんな気づかいをしてくれる人ではない。
思ったとおり、感情をともなわない乾いた声が、電話口から聞こえた。
「もちろんコードネームだよ。ウィーン在住の女性で、政財界に独自のパイプを持っている。それ以外は、正体も本名も私は知らない。だから君も本名ではなく、”レイヴン”を名乗るといい」
「レイヴンって……」
「不満かい?」
こういうところは、ほんとうに分かっていないな、と思う。「鴉」と名乗らされてよろこぶ女の子がいると、本気で思っているのだろうか。いやそんなことより、気をつかう方向が、絶望的にずれている。
あたしは、ジョセフには聞こえないように、ため息を落とした。
「あたりまえです。でも、高い知能と飛行能力を持った鳥だし、八咫烏は神の使いであり太陽の象徴でもある……。使わせてもらいます」
翌朝、ホテルを引き払ったあたしは、ジュネーブ・コルナバン駅からスイス連邦鉄道の特急列車インターシティに乗り込んだ。
車窓にいくつかの湖を望みながら、二時間ほどで列車はベルンに着いた。
ベルンはスイスの首都で、U字型に蛇行するアーレ川に囲まれた丘に建設された、中世の都市国家を基盤にして発展した街だ。緑の森と青い川面、そして赤い屋根の石造建築が肩を並べるように連なる美しい旧市街は、「欧州の真珠」と形容される。
ベルンに立ち寄ったのは、スイス知的財産庁でシュレーディンガー博士の特許を調べたかったからだ。
閲覧させてもらった申請書類の内容はNPU素子の製造技術で、シュレーディンガー博士とメーカーのナノテック・エレクトロニクス社の共同出願になっていた。
これで目的は果たせたわけだけれど、あたしはわずかな列車の待ち時間を使って、アインシュタイン・ハウスを訪ねた。旧市街の一角にあるありふれたアパートメントの一室に、博士と家族の写真や実際に使われていた家具などが展示されていた。
若き日のアインシュタインはここに家族とともに住み、特許庁の職員として働きながら光量子理論や相対性理論の研究をした。
頭のなかで、アインシュタイン方程式をひもといてみる。たった一行の方程式で物質と時空の歪みの関係、つまりこの宇宙の構造を記述しようとする試みは、まさに天才の所業だとしか言いようがない。その美しさは、ひとときだけれど、淀んでいたあたしの気持ちを、高い場所にすくいあげてくれた。
でも、時間の経過は相対的だ。愉しい時間は、そうでない時間より短く感じる。
あたしは時間に追われるように駅に戻り、チューリッヒ行きのインターシティに飛び乗った。
チューリッヒ中央駅で、オーストリア連邦鉄道の高速列車レイルジェットに乗り継ぐ。それが、今日中にウィーンまで行ける最終列車だった。
先鋭的なデザインのインターシティとは違って、レイルジェットはトラムを大きくしたような、丸みを帯びたかわいらしいデザインの列車だった。
あたしが座ったのはエコノミークラスのシートだったけど、ファーストクラスやビジネスクラスの座席もあって、その名の通り飛行機を思わせる座席構成だった。
レイルジェットは時速二三〇キロを誇る高速列車だけど、チューリッヒからウィーンまで行くには、オーストリアのほぼ全土を東西に横断しなければならず、ウィーン西駅に着いたときには午後八時を回っていた。
長時間の列車の旅と、その間にパスポートチェックがあるのではという不安に神経をとがらせていたせいで、心身ともにくたくただった。けれどこれは、あたしが始めたことだ。今さら、泣き言なんて言えない。
すぐにホテルで休みたかったけれど、その前に”スクルド”と接触しなければならない。不法入出国の現行犯なので、ホテルにチェックインすることもできないのだ。
スクルドとの待ち合わせ場所は、シュテファン寺院に近い広場に面したカフェが指定されていた。観光客に人気のある有名な店だから、東洋人と現地人が面談していても目立ちにくいだろうという理由だった。
取り決めどおり、あたしは窓際の席を確保してモカを注文した。
石畳の舗道を行き交う人々に視線を投げながら、あたしは”スクルド”に思いを馳せた。このなかに、その人がいるのだろうか。
約束の時刻ちょうど。
賑わう店内を颯爽と歩いてきたひとりの女性が、迷うことなくあたしの前の席に腰を下ろした。
その女性のたたずまいを見て、あたしの胸はどきりと鼓動を打った。
淡いベージュのコートに、白いニットのセーターと、ブラウンのチェックのプリーツスカート。地味ともいえるほどオーソドックスな装いだけど、あたしが身に着けている量販店のものとはちがう、高級ブランドの服だった。なのに普段着のようになじんでいる。着こなしているというか、着なれていることはすぐにわかった。小柄で細身なのに、ボリューム感のある身体にフィットしているところをみると、オートクチュールなのかもしれない。
でも、あたしを驚かせたのは、彼女の服装よりも若さだった。ファッション雑誌のモデルでもできそうな美女だけど、年齢はあたしより年下、つまりティーンエイジャーに見えた。
「グリュース・ゴット」
透明感のある声が、きれいな発音のドイツ語を話した。オーストリアだから当然だけど、この女性にはフランス語の方が似合うと思った。
グーテンタークとあいさつを返すと、彼女は世間話のように、さりげなく問いかけてきた。
「オーディンは鴉を放った?」
打合せ通りの言葉だった。やっぱり、この人が……。
「『フギン』は西に、『ムニン』は東に」
合言葉を返すと、彼女の栗色のストレートヘアがふわりと揺れて、トパーズのような瞳がまっすぐにあたしを見た。
「ようこそウィーンへ、”レイヴン”。わたしがスクルドよ」




