Article 20 : reaction force - 思いがけない反作用
20-1 [NB ̄] 04
ランチだと言って出かけておいて、夕方になってから帰ってきたアルバートは、なぜか不機嫌だった。
「さっきまで、アヤノと一緒だったんだ」
「アヤノって、あのひよっこ記者の子でしょう。なにをしていたの?」
「なにをしているのか聞きたいのは、僕の方だよ。どうしてあんなことをしたんだい?」
実行グループから、あらかたの報告は受けていた。だから、私はどきりとしたが、そしらぬ顔で答えた。
「あんなことって、なによ」
「アヤノを襲わせただろう。君の仕業だって、すぐにわかったよ」
それなら、と言いかけて、私は言葉を飲み込んだ。
そう、それならば、その理由についても理解してくれているはずだ。なのに、なぜ私を責めるような口調なのか。
「ニューヨークに帰ってもらうために、ちょっと脅しただけよ。そうでもしないと、しつこくまとわりついてくるじゃない」
「やっぱりそうか。理論の問題なら、僕がちゃんと解決してみせる。そう言ったよね」
「もう、きれいごとを言っている場合じゃないのよ。あの娘、ナノテック・エレクトロニクスにまで出向いて、あなたの理論の不備を言いふらしてきたのよ。このままじゃ、学会にまで押しかけてくるかも……」
いいじゃないか、とアルバートが、私の言葉をさえぎった。
「NPUについては、ナノテック・エレクトロニクスの技術者と、きちんと話ができている。量子コンピュータのスピン素子としては、なんの問題もない。『オラトリオ』が製品化された時点で、NPUの研究は完了しているんだ」
それはとんでもない不意打ちだった。
NPUの研究が完了したって、どういうことなの。そんな話は聞いていないし、そんなことはあってはならない。
「ちょっと待ってよ。それじゃあ、私の多重世界探査計画はどうなるの?」
「NPUはもともと、そんなことのために製造されたものじゃない。多重世界は存在するかもしれないけど、接触なんてできっこないんだ。アヤノともそういうことで話がついたよ」
「なによ、それ。さっきから、アヤノ、アヤノって親しげに。あの娘が日本人だから、気に入ったとでも言うの。まさかあなたまで、あんな小娘に転ぶとは思わなかったわ」
ベルナルドもアルバートも、どうしてあんなのがいいんだろう。若くて頭はいいかもしれないけど、たいした容姿じゃないし、あの様子じゃまだ女にもなっていない、乳くさい娘なのに。
アルバートは、わざとらしくはあっと息を吐きだした。
「なにを言っているんだ。そんな話じゃないよ」
「じゃあ、どういう話なの?」
「人を出し抜くのも、追い落とすのも、かまわないさ。でもそれは暴力を使ってということじゃない。それに、理論に多少の不備があっても、修正すればいい。だからもう、卑怯なことはしないでくれ……」
卑怯という言葉が、私の胸に刺さる。
たしかにあの娘は、まだ子どもみたいなものだ。見ようによっては、かよわいと言えるかもしれない。だが、その背後には、ジョセフ・クロンカイトがいる。たったひとこと、たった数秒のニュースで、世論の潮流を作り出してしまうほどのジャーナリストだ。自分より強大な相手に立ち向かうのに、もっとも有効な手段を使うことの、どこが卑怯だというのか。
それなのに、唯一の味方であるはずのアルバートは、私の気持ちなど知らん顔で言ってのけた。私がいちばん聞きたくなかった、その言葉を。
「理論には理論で、僕は堂々と実力でやりあいたいだけだよ」
いまさら、なにを……。
熱と痛みを伴って急速に膨張した感情が、そのまま口をついて出た。
「実力って、あなたはそれでいいでしょうけど、私はどうなるの。あなたには打ち明けたわよね。ここまできて、私を裏切るつもりなの?」
あっと声をあげたアルバートは、気まずそうに視線を泳がせた。短い沈黙のあと、すまない、と告げて、彼は私に背をむけた。
「今日はもう帰るよ。……ウィーンで会おう」
アルバートが出て行ったドアを、私はじっと見つめる。
あの娘は聡明だから、事件の意味を悟ったら、わざわざ危険に身をさらすよりも、あきらめてニューヨークに帰ることを選ぶだろう。そしてジョセフも、これ以上の深入りは危険だと気づくだろう。
私は勝ったのだ。
そう、いままでそうしてきたように、これからも、私は負けるわけにはいかないのだ。誰にも、どんなことをしても。
ウィーンでの学会を乗り切れば、今度こそCERN所長の椅子が待っている。もうすぐ、すべて私のものになるのだ。CERNも、NPUも、そして……。
そのための布石は整えてきた。テルスノヴァ・プロジェクトの失敗は、繰り返さない。
そして、もう誰にも、じゃまはさせない。
アルバート・シュレーディンガー、たとえあなたであっても。
20-2 [BH ̄] 08
研究室を出たところでスマホが震えて、アヤノからの着信を知らせた。
ニューヨーク行きの飛行機はとっくに出発した時刻だったので、ぼくはすこし驚いた。
電話に出るとアヤノは沈んだ声で、まだジュネーブにいるんです、と言った。事情を聞けば、暴漢に襲われて現金やパスポートを奪われたという。アルバートに助けられたというところが気に入らなかったが、アヤノが無事だったことには素直に胸をなでおろした。
「ぼくで役に立つことがあったら、なんでも言ってくれ」
「いいえ、なにもありません……それより、お聞きしたいことがあるんです」
「なんだい?」
「ボーア博士と……」
アヤノにしては珍しく、歯切れが悪かった。
なんでもありません、と自分で否定したアヤノは、ところで、と話題を変えた。妙に不自然だった。
「明日から、ウィーンでなにかあるんですか」
そんなことが訊きたかったのかい、という問いを、けれどぼくは口にしなかった。それには触れない方がいい、そんな直感がしたからだ。
「学会だよ」
「シュレーディンガー博士、学会に出るんですか」
「ああ、そうだよ。アルバートはそこで、例の理論の論文を発表することになっているからね」
ええっ、という、かなり驚いたような声がした。
「数式の問題が解決されていないのに?」
「論文が取り下げられたわけじゃないし、アルバートとしてはスポンサーの手前もあるから、発表しないわけにはいかないのさ」
「スポンサー?」
「彼はウィーンにある投資顧問会社から、かなりの額の研究資金を出してもらっているんだ。たしか、エリザベート・アセット・マネジメントといったかな」
あ、という声に続いて、ぼそぼそとつぶやく声が聞こえた。なにを言っているのか、よく聞き取れなかった。
「ハイゼンベルク博士も、ウィーンに行かれるんですよね」
「その予定だけど」
「あの……ボーア博士も一緒に、ですよね?」
さっきから、やたらとボーア博士のことを口にする。しかも、気のせいか言葉がとげとげしくなっているようだ。
そうだよ、と答えると電話のむこうのアヤノが、ため息をついた。それから、独り言のようなつぶやきをもらした。かろうじて「IYADANA」という発音の言葉が聞き取れた。意味はわからない。アヤノの母国語――日本語だろうか。
なのに、なんの根拠もなく、そのときぼくは不意に合点がいった。
暴漢に襲われて、アヤノはショックをうけているはずだ。それに見知らぬ地で、甘えられる人間もいない状態で放り出されて、混乱して心細いにちがいない。
それなら……。
「そんなことより、なにか困っていることは、ないのかい。もし泊まるところがないのなら、ぼくがなんとかしてあげるよ」
「それって、どういう意味ですか」
いかにも感情を押し殺したような、緊張した声だった。
やはりそうなのだと、僕は確信した。なぐさめてあげたい、と思った。そして、もっと甘えてほしい、と願った。
もちろん、下心からだ。
「言葉どおりの意味だよ。心細いのなら、ぼくがいっしょにいてあげても……」
誘惑の言葉を最後まで聞かずに、アヤノが大きな声をあげた。
「いやですっ」
「アヤノ?」
「あたしとボーア博士を、いっしょにしないでっ。誰とでもいいなんて、最低だわ。ハイゼンベルク博士もひどいです……」
アヤノの剣幕には驚いたが、ぼくはすぐに自分の勘違いを悟った。
いままでの経緯からしても、純真さを多分に残したアヤノの性格からしても、ボーア博士を嫌うことは理解できた。その脈絡でぼくを非難しているところをみると、ボーア博士とぼくが関係していたときのことを、アルバートから聞かされたのだろう。
余計なことをしてくれたものだと、ぼくはアルバートを恨んだ。けれど。
「どうして隠していたんですか」
詰問するようなアヤノの声で、ぼくの怒りは向けられるべきではない人に、向いてしまった。
それでもぼくは、いらだちをなんとか抑えこんだ。そして、できうるかぎりの冷たい声音で答えた。
「逆に聞くけど、どうしてアヤノに、そんなことまで教えないといけないんだい?」
これが正論だと、アヤノならわかるはずだった。
思ったとおり、アヤノは、くっと声を詰まらせた。そこにぼくは追い打ちをかけた。
「アヤノは、どんな資格があって、ぼくにそんなことを聞けるんだい。取材だというのなら、答えるかどうかは、ぼくに選択する自由がある」
「そんなことを言ってるんじゃ、ありません」
さっきに比べて、声のトーンが落ちていた。けれどぼくは、攻める手を緩めなかった。
「じゃあ、なんだって言うんだい。不用意に他人のプライバシーに踏み込むのは、マナー違反だし、とても危険なことだよ。ジャーナリストとしても、ひとりの人間としてもね。いっときの感情に流されるなんて、アヤノらしくないよ。がっかりさせないでほしいな」
「そんな言い方、ずるいです。だって博士のこと、あたし……それでも信じて……」
まるで、聞き分けのない子どものようだった。
いい加減にしてくれ、と言いかけて、けれどぼくは口をつぐんだ。電話口から、鼻をすする音とともに、かすかな泣き声が聞こえた。
まずい。ぼくはうろたえた。
「アヤノ……」
こんどは、できうるかぎり優しい声音で、呼びかけた。
はい、と答えたアヤノは、思ったとおり涙声だった。
さっきまで熱く昂っていた気持ちは、後悔というエントロピーの増大によって、あっという間に冷却されて消えていった。
アヤノの方が不当なことに変わりはなかったが、それでも女の子を泣かせてしまった言い訳にはならない。
「ごめん、言い過ぎたよ。……この会話のことは、おたがいに忘れよう。今夜は、ひとりでゆっくりするといいよ」
うん、と短く、そして少女のように、アヤノは答えた。
ぼくはそれで、仲直りができたと思った。おたがいにすこし理解が深まったと、喜びさえ感じた。
けれど、ほんのわずかな沈黙のあと。
「ハイゼンベルク博士……」
呼びかけられた声は、ぼくが知っているアヤノのものとは、まったく違っていた。
それは、悪さをしたぼくをなじるマルガレーテの声のようで……。
「あたしも、ウィーンに行きますから」




