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Article 02 : duality - 二重と双対の少女

02-1 [AK ̄] 01


 澄みきった空気をきらめかせる陽光に、あたしは目を細めた。


 秋空を映したレマン湖に、大噴水が虹をかけている。

 その彼方には雪を頂くなだらかな山々が、蒼穹(そうきゅう)にくっきりとした輪郭を描いていた。

 湖面を渡ってきた風が、肩口までのロブヘアを揺らし、頬をなでていく。清冽(せいれつ)という表現がぴったりなほど、その風は冷たかった。


 生まれ育った瀬戸内の秋とも、いま暮らしているニューヨークの秋とも、空気がまったく違う。

 初めて訪れたジュネーブの印象は、そんな当たり前のものだった。



 ロンドンで開催された若手研究者のための物理学会に、研究室の代表として参加していたあたしは、昨夜遅くに受信した一通の電子メールでここに来ることになった。

 To Ayano Kasuga と始まるビジネスライクな電子メールは、その内容もシンプルなものだった。


『明日、CERNで行われる記者会見を取材して、記事を電子メールで提出すること』


 メールの差出人は、ジョセフ・クロンカイトだった。

 コロンビア大学ジャーナリズム・スクールでのあたしの教師であると同時に、ニューヨークのテレビ局CNNでニュースキャスターをしている人だ。


 ジョセフの教育方針は、徹底した実践主義のスパルタ方式だった。

 与えられた課題に従ってあたしが記事を書くと、ジョセフが「acceptance(合格)」か「non-acceptance(不合格)」かの評価を付ける。

 合格になった記事は、通信社コロンビア・ニュース・サービス(CNS)を通じて、全世界に配信される。不合格なら、もちろん記事は不採用になる。そして、それで終わりだった。

 どこが悪かったのか、どうすれば良かったのかは、一切教えてくれなかった。すべて自分で考えろ、ということなのだ。

 本学で学んでいる天体物理学のカリキュラムをこなしながら、ジャーナリズム・スクールの課題に取り組んでいくのは、想像以上にきついものだった。

 とはいえ、大学生でありながら、ジャーナリズム・スクールでも学ぶという二足の草鞋(わらじ)を選んだのは、あたし自身だ。面接でそのことをジョセフに問われたとき、できますと答えた以上、弱音を吐くわけにはいかない。


 そういう相手からの指示ではあるし、CERNの記者会見となれば興味をそそられる。けれど明後日には、ロンドンを発って帰国する予定だ。必然的にジュネーブまで日帰りをすることになる。


 ネットで調べてみると、飛行機に乗るのが早くて楽なようだった。けれど今日の明日では、もう行きも帰りも空席なんてなかった。

 あとは鉄道だ。ユーロスターとTGVリリアという、ヨーロッパを代表する高速列車を乗り継げば、片道で約五時間。指定席も空いているから、未明に出発すれば日帰りは可能だ。可能だけど……。

 できれば明日は休みたい。学会の準備と発表はとにかくハードワークで、神経も使ったからくたくたに疲れていた。せめて最終日くらいは、カフェやショップでのんびりすごしたい。


 どうしようかと悩んでいると、まるでそれを見越したように、ジョセフからとどめをさすメールが届いた。


『ロンドンからジュネーブは遠いが、それでも君にとって赴く価値があるイベントだと思う。記者会見の内容は、量子理論に関する新発見だ』


 かくしてあたしは、イギリスからスイスまで列車で日帰りをするという、日本人の旅行者がよくやる弾丸ツアーをする羽目になった。



 ロンドン・セントパンクロス駅からユーロスターでパリ・北駅へ、パリ・リヨン駅に移動してTGVリリアでジュネーブ・コルナバン駅へ。

 三か国を結ぶ国際列車の旅とはいえ、シェンゲン協定のおかげでパスポートのチェックもなく、国内旅行をしているかのような気軽さだった。おまけに列車の座席は幅も前後もゆとりがあったし、電源がついていてパソコンも使えたから、快適な旅でもあった。


 そしてなによりのご褒美は、目の前に広がる景色だ。ロンドンの薄暗い曇り空と、なんという違いだろう。

 考えてみれば、理不尽ともいえるジョセフの指示に従った結果として、あたしが今までに得たものは多かった。

 だから、この爽快な眺望と引き換えに、今回の横暴も大目に見てあげようと思う。



 腕時計を見ると、記者会見まであと三十分ほどになっていた。

 郊外のメイラン地区にあるCERNへはトラムやバスも通じているけれど、ここはタクシーを使ったほうがいいだろう。


 大通りに出て手を挙げると、目の前にシトロエンXMが停まった。カロッツェリア・ベルトーネがデザインした、宇宙船のような車体は一見でそれとわかる。

 ナンバープレートを見ると、スイス国旗とGEというアルファベットの後ろに1729という数字が見えた。

 ラマヌジャンのタクシー数として有名な数字だ。12の三乗と1の三乗の和と、10の三乗と9の三乗の和。異なる組み合わせのふたつの三乗数の和では、最小の数として知られている。

 こんな数字に出会えるとは。なにか良いことが、あるいは、なにか珍しいことが起きる前触れかもしれない。


 そう思ったのもつかの間だった。

 そのタクシーのドアノブは、横合いから突き出された厳つい手に横取りされた。

 スーツ姿の男のビジネスバッグに直撃され、日本人女性としても小柄なあたしのからだは、あっけなく弾き飛ばされた。

 手を離れたディパックとカメラが舗道に落ちる。

 思わず上げた悲鳴で、男はようやく自分がしでかしたことに気づいたようだった。


 あわてて拾い上げたキャノンのデジタル一眼レフEOSに、あたしと男の恐々とした視線が集まる。

 幸いなことに、レンズにもボディにも損傷はないようだった。スイッチを入れてみると、何事もなかったように起動した。

 あたしは――たぶんその男もだと思うけれど、ほっと胸をなでおろした。


 男が何かを告げた。

 フランス語で、しかも早口だったので、ほとんど聞き取れなかった。意味など、もちろんわからなかった。

 首をかしげると、男はあらためて英語で言いなおした。


「すまない。先を急いでいたんだ。もし弁償が必要なら、ここに連絡してくれ」


 男は名刺を差し出すと、そのタクシーに乗り込んでしまった。

 レディファーストがどうとか言うつもりはないけど、少なくともニューヨークではこんなひどい扱いをされたことはなかった。

 手元に残った名刺は厚みのある上等な紙で、ナノテック・エレクトロニクスという社名と秘書室長という肩書があった。

 いまさら文句を言っても、はじまらない。

 あたしは名刺入れにそれをしまうと、別のタクシーを停めた。



 フランスのナンバーを付けた白いプジョー406の後部座席に納まり、行き先を告げる。

 運転手はウィと答えたあと、振り向いて愛想よく微笑んだ。


「D'ou venez-vous?」

「どこから来たのかって、えっと……Je……viens……du NewYork」


 トラベル会話集に書いてあった挨拶文を思い出しながら、たどたどしいフランス語で答える。

 運転手は肩をすくめると、英語で話しかけてきた。


「あんたもマスコミかい?」


 あたしは、ええと曖昧にうなづく。まだ一人前じゃないけれど、記者証を持つ身ではある。


「CERNでなにかあるのかい? これでもう十人目だ。いつもなら一ヶ月分くらいの人数だよ」

「量子理論の教科書が、明日から変わるかもしれない。そういう発表があるんです」


 運転手はおおげさな身振りで、驚いた顔をした。


「そいつはすごい。なら、急がないとな」


 プジョーはぐんぐん加速し、タイヤを鳴らしながら街並みを駆け抜ける。腕に自信があるのだろうけど、事故を起こされても警察に捕まっても困る。


「スピード違反はだめです」


 と、あたしは警告したが、運転手はどこ吹く風という感じだった。


「オーケイ、わかってるよ。ところで、さっきの話だが、どんなふうに教科書は変わるんだい?」


 なんだか、うまくはぐらかされたような気がする。でも興味をもってくれるのは、ちょっとうれしい。

 そうですね、とすこし考えた後で、あたしは切り出した。


「月は……」

「ムーン?」

「ええ、ムーンです。量子理論では、あたしたちが見ていないとき、月は存在するか存在しないか、そのどちらでもあるんです。それで昨日までは、あたしたちが見た瞬間に、月は存在するか存在しないかが確率的に決まることになっていた。明日からは、あたしたちが見た瞬間に、月が存在する世界と存在しない世界が出来上がることになる。そういうふうに変わる可能性があるんです」


 ううん、と低くうなったまま、運転手は黙り込んだ。

 どうもうまく伝わらなかったようだ。あたしの英語が下手すぎる、というわけではないだろう。量子理論を手短な説明で、しかも正確に理解してもらうなど無理なことなのだ。


 タクシーがCERNの正面玄関に着くのと入れ違いに、見覚えのあるシトロエンが走り去った。ナンバープレートは1729だった。

 どうやら、あの失礼な男も、ここに用があったらしい。

 料金を支払って車を降りようとすると、運転手が話しかけてきた。


「間に合ったかい?」

「ええ」

「そうか、良かった。なあ、俺はバカだからよく分からなかったけど、あんたの話は面白かったよ」


 そう言ってもらえて、あたしはすこし気分が良くなった。

 サンキュと答えると、運転手は茶目っ気たっぷりにウインクして見せた。


「あんた、マスコミというより、学者みたいだな」

「そうですか?」


 ああ、と運転手は大きくうなずいた。


「ひとを見る目だけは、自信があるんだ。あんた、学者が向いているよ」


 大学で物理学を学んでいる身としては、悪い気はしなかった。

 あたしは、彼に笑顔を向けてもういちどサンキュと告げ、車を降りた。

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