Article 18 : law of causality - 因果律の束縛
18-1 [AS ̄] 04
「シュレーディンガー博士?」
遅めの昼食をすませてカフェを出たところで、背中から声がかかった。
振り向くと、スマートフォンを構えた若い女性が破顔した。
「やっぱりそうだぁ。あの、写真を撮っていいですか?」
記者会見の直後の狂騒に比べると最近は落ち着いてきたが、まだこういう人に声をかけられることがある。
「ごめんね。悪いけど、僕は芸能人じゃないし、今はプライベートタイムだから」
残念そうな彼女に手を振って、僕はトラムの駅に足を向けた。
きっとあの子にとって僕の価値は、理論がどうこうよりもツイッターでいいねをもらえることの方が大きいだろう。
そういう意味では、さんざんに追いかけまわして、イズミまで巻き込んだマスコミの取材攻勢も同じようなものだった。もっともマスコミは移り気で、その関心はもうほかのことに移ってしまった。今でもマスコミで僕に関心をもっている人間がいるとすれば……。
僕は、記者会見で質問を投げかけてきた、日本人の女性記者を思い出す。たしか、アヤノと名乗っていた。
ニーナの話では、アヤノはハイゼンベルク博士と一緒になって僕の数式を検証し、なんらかの答えを得たらしい。彼女を敵だとは思いたくないが、立場の違いは決定的なのだろう。できることなら、そんな確執なしに、ゆっくりと語りあってみたい子だった。
そんなことを考えながら近道の裏路地に入った僕は、そのシーンに遭遇した。
風体のよくない男が二人。そのうちの一人が、しゃがみこんだ女の子の髪をつかんでいる。
昼間から往来で痴話げんか……には見えなかった。女の子に危害を加えようとしているのは明白だ。
考えるより先に、僕は声を上げていた。
「おい、何をしている!」
自分でも驚くほど大きな声のドイツ語が、路地に響いた。
男たちの視線が、いっせいにこちらを向く。目つきがよろしくない連中だった。荒事になりそうで嫌だったが、僕は覚悟を決めて足を踏み出した。
だが、案に相違して、男たちはそそくさと退散していった。その手には女物のバッグが握られている。どうやら物盗りが目当てだったらしい。
それなら反撃はないだろう。
僕は安心して、女の子の前に駆け寄った。
放心したように石畳に座り込んだ彼女は、セーターの胸元が無残に切り裂かれていた。下着が覗いているが、それを隠す余裕もないようだった。僕はすこし違和感を覚えたが、まずは彼女に声をかけた。
「大丈夫かい?」
女の子はひきつった表情で、僕を見上げた。
奇しくも、とは言うまい。その顔には見覚えがあった。
「君は……」
目が合ったとたんに、彼女の表情が一気にゆるんだ。おおきな瞳から、涙がぽろぽろとこぼれ落ちる。
差し出した僕の腕にすがるようにして、彼女は低く嗚咽をもらした。
18-2 [AK ̄] 16
よく知らない人、しかも、既婚者である男性の腕にとりすがって泣くなんて。
恐怖が去って気が抜けたせいだとはいえ、あたしはとんでもなく恥知らずで不躾なことをしてしまった。
あの記者会見が最悪の出会いだったとすれば、この再会もろくでもないものだった。
あたしとシュレーディンガー博士は、どうにもめぐり合わせが良くないらしい。
けれど、あまりいい印象はないはずのあたしに、シュレーディンガー博士はとてもよくしてくれた。
泣きやむまで黙って待ってくれて、そのあとホテルで着替えてから警察に被害届と盗難届を出すのにも付き添ってくれた。
そうして、やっと人心地が付いたあたしに、行きつけにしているというカフェで、あたたかい飲みものとパンケーキのご馳走までしてくれたのだ。
ドビュッシーのピアノ曲が低く聞こえる店内には、まどろみに似たおだやかでゆったりとした時間が流れていた。
ガラスの三角屋根を照らした夕陽は、そのまま店内にも降り注ぎ、手にしたカフェオレボウルの丸みを帯びた縁でたゆたっている。掌に感じる柔らかな温かみと、口に含んだまろやかな甘みで、委縮していた心も解きほぐされていくようだった。
あたしは、ほっとひと息をついた。
「素敵なお店ですね」
「研究室を抜け出して、ときどきランチを食べに来るんだ。今日はこれで二度目だけどね」
その言葉の意味をすぐに理解できるくらいには、あたしはもう落ち着きを取り戻していた。
「助けてくださって、ありがとうございました。それに、こんなに親切にしてもらって。なんてお礼を言ったらいいのか」
「いいよ、そんなの。それにしても、ひどい目に合ったね。まあ、連中は現金だけを奪って、あとはゴミ箱にポイだ。パスポートなんかは、すぐに戻るよ。けど……」
おかしいなぁ、とシュレーディンガー博士は首をかしげた。
「連中のやり口はだいたい、置き引きとか、すれ違いざまのひったくりとか、そういうものなんだ。あんなふうに、荒事に及ぶことはないんだけどね。まあ、君はキュートだし、日本人の女の子はスイスでも人気が高いらしいからね」
シュレーディンガー博士は冗談めかしてそう言うと、軽くウインクをして見せた。つい釣られて、あたしもクスリと笑った。
記者会見で受けた印象は、繊細で難しそうな人というものだったけど、こうして話してみると、おおらかで気さくな感じがする男性だった。
親切にしてもらったとはいえ、こうもかんたんに印象が変わるとは、自分でも現金なものだと思う。
でも、そんなことよりも、彼が口にした『日本人』という言葉で、あたしはそのことに気づいた。
「英語……」
あたしのつぶやきに、カフェオレボウルを持ち上げようとしたシュレーディンガー博士の手が止まる。
「なんだって?」
ジュネーブはスイスの中でもフランス語圏に属するので、公用語はフランス語だし日常会話でもフランス語を使う人が多い。最初に来た時のタクシーの運転手も、まずフランス語で話しかけてきた。なのに、あの暴漢たちは、どうだった?
「英語だったんです。あの人たち、最初からあたしに英語で話しかけてきて。それに……」
そうだ、あの台詞。英語だとかいう以前に、あれはあまりにも不自然だ。
「『こんなのニューヨークならあたりまえだろう』って。どうしてあたしがニューヨーカーだってことまで、わかったのかな」
ううんとうなって、シュレーディンガー博士は口を閉ざした。
そして、カフェオレボウルを指でとんとんと何度か叩くと、そういうことか、とひとりごちた。
「知っているかな。アインシュタインは、量子理論の非局所性と不確定性を、絶対に受け入れなかったんだ」
「『神は決してサイコロを振らない』ですよね」
「そう、それ。アインシュタインの主張は間違っていないだろうと、僕は思っているんだ。量子理論は有用だけど、世界が偶然や確率によって支配されているはずがない。ミクロの素粒子もマクロの事象も、因果律の束縛からは逃れることができないんだ。だから……」
シュレーディンガー博士は、すこし間をおいてから不機嫌そうに言葉を続けた。
「君が襲われたのも偶然ではなくて、原因があって、その結果なのだろうと思う」
「それは、どういうことなんでしょうか?」
問いかけておきながら、あたしはシュレーディンガー博士の言いたいことがわかってしまった。
つまり、あたしは警告を受けた、ということだ。相手なら、思い当たるふしはある。
腕を組み、目を閉じて、シュレーディンガー博士はため息をついた。
「もうこの話題はよそう。真相はラプラスの悪魔にでも、尋ねるしかないだろうしね。……それより、君に訊きたいことがあるんだ」
質問なら、あたしの方がしなければならない立場だ。けれど、助けてもらった恩義があるから、博士の問いには答えようと思った。
「なんですか?」
「僕の方程式だよ。あれを見て、君はどう感じた?」
シュレーディンガー博士の質問には、その意味の重さを微塵も感じさせないほど、あっけらかんとした無邪気さがあった。
純粋に理論への意見が聞きたい。そんな博士の心中がわかったような気がして、あたしも率直に答えを返すことにした。
「ひとことで言えば……感動しました」
その答えがよほど意外だったのか、シュレーディンガー博士は目をまるくした。
「感動?」
「はい。数式が、あたしのなかで、勝手に解けていくんです。数式に現れた思考の流れが、なんのよどみもなくあたしのなかに流れこんできました。なのに、あの数式だけは、それがなかった。だから……」
「数式の破綻、ダイバージェンスの存在に気づいたんだね」
あたしがうなずくと、そうか、と言って、シュレーディンガー博士は、とても優しいまなざしを向けてきた。
「やっぱり、君はイズミに似ているね」




