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Article 17 : critical state - 無自覚の臨界

17-1 [AK ̄] 15


 CERNのあるメイラン地区から、ホテルのあるコルナバンに向かうトラムは空いていた。


 あたしは席に座って、はあっと長いため息を吐き出す。

 背伸びをしすぎていることは、わかりすぎるほどにわかっていた。だれの思惑でこうなったのかわからないけど、もう動き出してしまったことだ。そこにあたしの意志が少なからず介在していることを思えば、できるところまで全力を尽くさなければならないだろう。

 それに、CERNでベルナルドさんという心強い味方が得られた。そちらの線は任せるとして、あたしが今日の午後だけでできることは……。


 ナノテック・エレクトロニクス、か。

 スマホで公式ウェブサイトや、フィナンシャル関連のサイトを巡ってみる。沿革や業績の資料に混じって、主要な株主の名簿が公開されていた。

 グローバル・ユリウス・インダスリー・アンド・フィナンシャル・グループやエリザベート・アセット・マネジメントなどの名前が見える。前者はジョセフが追いかけている軍産複合体だし、後者はジョセフとともに取材したフォアエスターライヒ公国の領主が代表を務めているファンドだ。

 なにかが、ひっかかる。これは、たんなる偶然だろうか。

 その予感は、アルバート・シュレーディンガーという名前を見つけたことで、ひとつの確信に変わった。告発文にあった利益供与や見返りというのは、このことにちがいない。

 こうなると、取材をせずに帰るという選択肢はない。


 あたしは名刺入れから、一枚の名刺を取り出す。去年の秋、記者会見に向かう途中で、タクシーを横取りした男から渡されたものだ。

 ヴォルフラム・パウリという名前の後ろには、秘書室長という肩書が添えてある。

 秘書室ならば社内の事情に通じているはずの部署だし、あの記者会見のときにCERNに来ていた人物でもある。取材の相手としては、もってこいだ。


 ナノテック・エレクトロニクスに電話をかける。

 呼び出し音が三回鳴る前に、電話はつながった。



 面談のアポは、拍子抜けするほどあっさりととれた。

 レマン湖にほどちかい停留所でトラムを降りると、芝生に低木が配された公園のような敷地に建つ立方体の建物が見えた。それがナノテック・エレクトロニクスの本社だった。

 巨大なサイコロみたいだ、とあたしは思った。『神はサイコロを振らない』という、アインシュタインの有名な言葉が脳裏をよぎった。


 通された応接室には、縦に細長い二つのスリットから、柔らかな外光がさしていた。会議室のようなシンプルな椅子とテーブルが置いてある他には、絵の一枚、花の一本も飾られていない殺風景なインテリアだった。

 案内してくれた女性スタッフと入れ違いに、見覚えのある男が現れた。

 お互いに名乗ると、パウリさんは明らかに仕事用だとわかる笑みを浮かべた。


「あのときは失礼をした。ご用件はカメラの弁償かな?」

「いいえ。カメラはなんともありませんでした。今日は、お話を聞きたいことがあって来たんです」


 パウリさんの目が、怪訝そうに細められる。


「それは、私への取材という理解でいいのかな?」

「そう思ってくださってかまいません」

「貴女のようなチャーミングな女性と話ができるのはうれしいが、残念ながらマスコミへの対応は広報IR課の仕事でね」

「IRの方から聞くようなことは、すでに調べてあります……」


 あたしは、ウェブサイトに掲載されていた沿革を暗唱した。


 ナノテック・エレクトロニクスは、世界有数の製薬会社ナノテック・ファーマの子会社で、MRIやPETなどの医療機器メーカーとしてスタートした。

 だが先発メーカーの牙城を切り崩すことは難しく、業績は伸び悩んだ。

 転機は、量子コンピュータ技術を応用した、シミュレーション用の大型コンピュータの開発に成功したことだった。それで業績を大きく伸ばし、ついには銀行やファンドなどの機関投資家から集めた資金をもとに、単独で株式を上場するに至った。


「……そして、NPU素子搭載の量子コンピュータ『オラトリオ』の開発で、医療業界だけでなく軍需産業からも受注が入り、株価は連日のように高値を更新している」


 パウリさんは、わざとらしい驚きの表情で、ゆっくりと三つ拍手をしてみせた。


「驚いた。当社の社員でも、そこまですらすら言える者は少ないよ。そうなると、私が答えられることはもうないと思うが」


 みえすいたお世辞には取りあわず、あたしは一気に核心に迫った。


「御社とCERN、そしてアルバート・シュレーディンガー博士とは、どういう関係なんですか?」

「貴女がさっき言った『オラトリオ』のCPUには、シュレーディンガー博士が開発した素子が使われていてね。産学協同というヤツだよ。そういう関係だと言えば、理解してもらえるかな」

「理解はできますけど、納得はできません……」


 あたしは、失礼ですが、と前置きをして、自分の考えを披露した。


「あの素子の研究開発には、CERNの予算が使われています。なのに、その成果は御社が独占していて、シュレーディンガー博士は御社の大株主として多額の利益を得ている。これはもう、産学協同というスキームを逸脱しているといえませんか?」


 笑顔はそのままだったけど、パウリさんの目元から笑いが消えた。


「やはり、私は貴女の質問に答える立場にないようだ」


 それは、あきらかな予防線だった。ここで面会が打ち切られるかと思ったけれど、ただ、とパウリさんは言葉を継いだ。


「これは独り言だがね。『オラトリオ』は、この業界でのわが社の地位を一気に押し上げてくれた製品だ。そして、それはシュレーディンガー博士の多大な協力がなければ、なしえないことだった。貴女がどう評価しようとかまわないが、あれくらいは、ささやかな見返りだと思うがね」


 協力というパウリさんの言葉に、あたしはひっかかりを感じた。

 ずっとおかしいと思っていたのだ。シュレーディンガー博士の理論に誤りがあるのは去年からわかっていたのに、CERNでそれを取り上げたのはベルナルドさんだけだし、この会社のように製品化までしているところもある。

 すこし迷ったが、あたしはその疑問を投げかけてみた。


「検証の結果、シュレーディンガー博士の理論には、誤りがみつかっています。なのに、あの素子を製品化なんかして、大丈夫なんですか?」


 そこまで言ってから、しまったと後悔した。未発表の事実なのだから、まだ口外してはいけなかったはずだ。

 けれど、あたしの失言は意外な効果をもたらした。いままで余裕すらあったパウリさんの表情が、色を失ったように見えた。


「それは初耳だ。ちょっと待ってくれ……」


 パウリさんはスマホを取り出すと、手早く電話をかけた。


「秘書室のパウリだ。ステファニー・ゲイツ主任を頼む……ああ主任、忙しいのに悪いね。『オラトリオ』の例の素子だが、なにも問題はないのだろう? ……うむ。そうか、大丈夫なんだね。いや、それならいいんだ。手を止めさせて、すまなかったね」


 通話を切ると、パウリさんはすこしだけ間をとってから、口を開いた。


「NPU素子は、試作品から製品までの品質テストをすべてクリアしているし、設計どおりの性能を発揮している。理論うんぬんのことはわからないが、『オラトリオ』はわが社の社運がかかった製品だ。根拠のない誹謗中傷はやめてもらいたい。……さて、こう見えて、私も忙しくてね。そろそろ、お引き取り願えないだろうか」


 正式な取材の申し込みをしていない以上、この辺りが潮時だろう。

 あたしは、取材に応じてくれたことに礼を告げて、ナノテック・エレクトロニクスをあとにした。


 準備不足の取材だったから、あまりめぼしい成果は得られなかった。

 けれど、うすぼんやりとではあるが、ナノテック・エレクトロニクスとシュレーディンガー博士――たぶんボーア博士もだと思うが――との関係が見えてきた。

 たぶん彼らは、暗黙で認められていた産学協同の限界を、踏み越えてしまったのだろう。そして、それがあの告発文につながったのだ。



 そんなことを考えながら、あたしはコルナバン駅に向かって歩いていた。

 このあたりはビルが立ち並ぶビジネス街だけど、どこか雑然としたダウンタウンのような雰囲気があった。ジュネーブは治安のいい町だけど、街角にはごろつきの一歩手前のような男たちがいたりするし、歩きすぎる人々もそういった連中には警戒の眼を向けている。

 そう感じていたのに、もっと慎重に行動すべきだった。


「Hi,Are you free now?」


 近道をしようと裏通りに入ったところで、二人連れの男に絡まれたのだ。

 着古したジャンパーとジーンズ姿だったが、それほど悪い身なりではなかった。だからてっきり、若い女の旅行者と見てのナンパだと思った。


「Sorry, I am in a real hurry」


 お決まりの問答だ。ナンパなら、これ以上しつこくされることもない。

 でも男たちに笑顔がないことに、あたしはすぐに気づいた。

 片方の男が、さっと背後に回る。


 物盗りだ。ニューヨークで何度かこういうことはあったので、ぴんときた。

 落ち着こう、とあたしは自分に言い聞かせる。

 男は周囲に目を配ったあとで、ポケットから何かを取り出して見せた。赤い柄に十字のマークが入った、ビクトリノックスのスイスアーミーナイフだった。


「Be quiet,You know what I saying?」


 あたしは首を縦に振る。

 キャッシュやカメラは奪われてもしかたない。でもパスポートとメモリーカードだけは守らなきゃと思った。


 どう交渉すればいいだろう。

 そんなことを考えていたあたしは、背後からいきなりバッグとカメラを奪われて動転した。

 目の前の男に気を取られすぎていて、もうひとりの男の動きに気がつかなかったのだ。

 次の瞬間、胸元にナイフの切っ先が突き付けられた。


「Shut up!」


 低い声でもういちど言われ、そのときになってあたしは自分の甘さを痛感した。

 金目のものが狙いなら、奪ったらすぐに立ち去るはずだ。でないとすれば、目的はひとつしかない。

 男がいやらしい視線をあたしの全身に這わせる。舌なめずりをして、男はナイフを逆手に握りかえた。


「ニューヨークなら、こんなことあたりまえだろう?」


 ナイフが胸元に挿し入れられ、そのまま一気に引き下げられた。セーターとカットソーがざっくりと切り裂かれ、白いブラジャーが露わになる。

 頭は思考を、足は立っていることを、それぞれに放棄した。舗道にへたりこむと、髪をつかまれ無理やりに顔を上げさせられた。

 頬に当るナイフの冷たさに、身も心も凍りついた。


「いい子だ。そのままおとなしくしていろ。たっぷりと可愛がってやるからな」


 こんなところで、こんなやつらに……。

 くやしくて、でも怖くて。

 あたしは悲鳴を上げることもできなかった。

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