Article 16 : event horizon - 世界線の向こう側に
16-1 [NB ̄] 03
フロントガラスの向こうには、早春の陽光でさざ波を輝かせるレマン湖があった。
見わたす空には、雲ひとつない。
白い雪を被った山々が、青空をその稜線で切り取っている。
世界が――空や山や森や湖というものたちが、季節の流れのなかでこんなに美しくその姿を変えるのだということを、私はスイスに来て初めて知った。
それまでの私にとって世界とは、マンハッタンのダウンタウンのことだった。
きらめく高層ビル群の足元に、ニューヨーカーたちがさっそうと行き交うストリートのすぐ横に。寄り添うようにひっそりと、けして日が当たることのないの場所が存在していた。
落書きだらけのコンクリート壁と、ホームレスが寝転がる街角。その日の食事にも事欠く貧困と、それを手っ取りばやく解決するための犯罪。どうしようもない現実から目をそらせるために、ドラッグやセックスに頼ってまがいものの夢を貪る。
そんなみすぼらしい事象たちが、私の世界をかたちづくるすべてだった。
そしてそこは、家出をしてからの私のねぐらであり、仕事場でもあった。
シャツの胸元を開けて、夜の街角に立つ。
待つほどもなく、ゆきずりの男が声をかけてくる。
かんたんな交渉のあと、そのまま違法駐車のクルマのなかですませることが多いが、ときにはホテルに連れて行ってくれる上客もいる。
「あんた、ほんとに美人だな。このあたりの人間じゃないだろ。どこの出身だい」
そういう客は、無下にはしない。金を持ったリピーターは、ありがたい存在だ。
スラブ系よ、と答えると、男はフリーマーケットで掘り出しものでも見つけたように喜んだ。
「またあんたと遊びたい。いつもこのあたりにいるのかい?」
「警察の世話にはなりたくないから、ここに来るのは週に一回くらいよ」
「名前を教えてくれないか」
「ニー……ううん、ルーシーよ」
そんな日々のなかで、私を通り過ぎていった男たちは――私を「女」にした父親がわりの男も含めて、ひとときの快楽と生活の糧を与えてはくれたが、心地よい居場所を与えてくれることはなかった。
世界は、狭く、希望もなく、閉ざされていた。
でも。
「そんなことはないよ、ニーナ」
あの人は、優しくて強い声でそう言ってくれた。
これをごらん、と差し出されたのは「Nature」という雑誌だった。表紙には不思議な図形とともに、「量子理論の多世界解釈」という文字が踊っていた。
ページをめくってみたけど、何が書いてあるのか、まったくわからなかった。
でも。
「世界ってのは、私たちが知っているよりもはるかに、広くて豊かなんだよ。私たちが暮らすちっぽけな場所が世界のすべてだなんて、決めつけちゃいけないんだ」
彼がそう言うのなら、きっとそうなのだと思えた。
「だから、いつか……」
そうつぶやいて、彼はイーストリバーの彼方にまなざしを向けた。
彼の唇から、その歌が流れ出す。
「そうね、いつか……」
あの川を越えることができれば。
そこにはきっと、違う世界が待っているのだと、無邪気にそして切実に信じた。
だから、私もその歌を……。
「『ムーン・リバー』だね」
突然の声に、私はわれにかえった。
不覚にも、懐かしい歌を口ずさんでいたようだ。
追憶を振りはらった私は、運転席に座る男に目をやった。
カラーシャツに地味なネクタイを締めた男は、すこし体格のいいエグゼクティブのように見えた。事実、表向きはナノテック・エレクトロニクス社の執行役員で秘書室長ということになっている。
だが、実際にはアンダーグラウンドで、さまざまな「雑音」や「面倒ごと」を片づけてくれる男だ。強気な経営で成長している会社には、こういう人間も必要なのだということだろう。
男は、電子メールをプリントアウトした紙を斜め読みすると、差出人の名前をぱんと指で弾いた。
「アヤノ・カスガ……いったい誰だい?」
「去年の記者会見で、数学の質問をした子がいたでしょう」
「ああ、あの記者のタマゴか。生意気ざかりの小娘って感じだったな」
私に言われて、思い出したようだった。そしてその言葉のはしはしには、女を見下すような響きがあった。
だがそれは、なにもあの子に対してだけではない。こうして関係を重ねている私に対しても、同じような感情を抱いていることはとうに気づいていた。それが鼻につくこともあったが、役にたつ男であることにはちがいなかった。
「ジャーナリスト志望の学生を装っているけど、背後にはCNNのジョセフ・クロンカイトがいるわ」
「ジョセフ・クロンカイトか。やり手とは聞くが、専門は社会問題だ。科学ジャンルには手を出さないんじゃないのか?」
仕事柄、マスコミへの対応は手慣れているはずだ。だが、いやむしろそれだからこそなのか、男は相手を見誤っているように思えた。
「だから、あの子なんでしょう。高校生のころから選抜メンバーとして、マサチューセッツ工科大学やプリンストン高等研究所に派遣されていた理系のエリートらしいわ。現役の学生なのに特例でジャーナリズムスクールに入学が許可されて、ジョセフ・クロンカイトが専属で指導に当たっているそうよ。まちがいなく『ウルフパック』のメンバーだわ」
「ウルフパック? 第二次世界大戦で、ドイツのUボートが得意とした通商破壊戦術だな」
「なにそれ。そういうのじゃなくて、ジョセフ・クロンカイトのエージェントたちの通称よ」
「ずいぶんジョセフのことに詳しいじゃないか。彼と知り合いなのか?」
私の心臓がどくん、と跳ねあがる。相手を見誤っていたのは、自分も同じだったようだ。
気取られないように、すこし間をおいて、気持ちを落ち着かせる。
「さあ、どうかしら。ただ、彼らを甘く見ない方がいいわ。それで煮え湯を飲まされてきた人が、どれほどいるか」
「ジャーナリストにつつかれては困ることがある、ということか?」
ただのジャーナリストなら、どうということはない。専門知識がないから、こちらの言うことをそのまま記事にするのがやっとだ。
だがあの子は違う。あんな短い記者会見の間に、アルバートの理論の綻びを看破してしまった。たいした問題ではないと高を括っていたが、いくら検討を重ねても、根本的な解決法は見つからなかった。
しかも、忌々しいことに、ベルナルド・フォン・ハイゼンベルクとも結託しているのだ。検討会で彼らが成果をあげたらしいことは、すでに耳に入っている。
アルバートは泰然としていて、問題があるのならまた数式を組み直せばいい、くらいにしか考えていないようだ。
だが、事態はそんなレベルではなくなりつつある。
それに気づいているのは、たぶん私だけだ。
ジョセフ・クロンカイトもハイゼンベルク家も、そしてあの子も。個々に見れば対応できない相手ではない。
だがもしも、あの子を介して、ジャーナリズムと政界と学界が結びつくようなことにでもなれば、極めて危険で深刻な事態になる。
それよりも、なによりも、あの子は私の……。
「そんなことはないけど……ちょっと目障りではあるわね」
「……ジェラシー、かい?」
おおきなお世話だ。わかったような物言いが、しゃくにさわる。
でも。
私は深いため息をついて、感情をコントロールした。
「なんでもお見通しなのね。こわい人」
さりげなく相手のプライドをくすぐる。こういう男は、言い負かすよりも、こちらの方が効果的だ。
「それで、私にどうしろ、と?」
案の定、男はいかにも恩着せがましく話に乗ってきた。
私は、男の手の甲に、そっと自分の手を重ねる。さりげない上目遣いも忘れない。
「してほしいことなんて、なにもないわ。ただの愚痴よ」
男は、いかにも面倒くさそうに、しかしどこか満足そうに、オーケイとつぶやいた。
「よくわかったよ。またなにか愚痴が言いたくなったら、声をかけてくれ」
私は男にキスをして、クルマを降りた。
風の冷たさが、薄いコートを通して身に染みた。
「ニーナ……」
その男は、とんでもない上客だった。
「私と一緒に、スイスで暮らさないか」
ザ・プラザ・ニューヨークのダブルルームで、ワインを飲みながら誘われたときは、夢を見ているような気持ちになった。
スイスといえば、万年雪を頂くアルプス山脈とそれを映す青い湖水、テレビドラマで見た少女ハイジが暮らした美しい国だ。
この私が、そんなところで暮らすことができるのだ。
心のなかの大切な場所を、ちいさな棘がちくりと刺した。けれど、その誘いを断る理由など、どこにもなかった。
そして、私は、いまここにいる。
でも。
ジュネーブの冬の寒さは、ニューヨークとあまり変わらない。それに、ニューヨークほどではないにしろ、ここにも日の当たらない場所はあった。
結局、人のなすことなど、どこでも同じなのだ。
イーストリバーどころか大西洋を越えて来ても、私が憧れた世界は存在しなかった。その程度のことでは絶対に、世界線の向こう側にはたどりつけないのだ。
世界は、やはり狭く、希望などなく、固く閉ざされている。
私は、ジュネーブに来て、それを思い知った。




