Article 15 : potential barrier - 越えられない障壁
15-1 [BH ̄] 07
「テルスノヴァ……ラテン語だね。『新たな世界』か」
ええ、と答えたニーナ=ルーシー・ボーアは、ワイングラスを置くと、身を乗り出すようにテーブルに肘をついた。
稼働が間近にせまったハドロン衝突型加速器(LHC)のリソースを、どの研究に振り分けるか。それを決定する理事会の前夜、ぼくはボーア博士と夕食をともにしていた。
薄茶色の髪に彩られた彼女の美しい顔が、ほんのりと朱に染まっている。
ぼくの理事就任を祝うというのが名目だったが、いろいろと浮いた噂の多い彼女からのお誘いだったから、そういう期待をしていなかったといえば嘘になる。けれど……。
「重力特異点における多重世界探査計画、『テルスノヴァ・プロジェクト』。マイクロブラックホールを足掛かりにして、多重世界への扉をこじ開けるのよ。これが成功すれば、物理学どころか、世界のありかたそのものが変わるわ。あなたなら、きっと興味を持ってくれると思って。ちがうかしら、ハイゼンベルク博士」
ボーア博士が口にしたのは、真面目ではあるが荒唐無稽な研究計画だった。
いろんな意味でやり手であるとは聞いているが、彼女の言葉には、まるで少女のような純粋さが見え隠れしていた。
ぼくはよこしまな欲望を、ほおばっていたブラートヴルストとともに、赤ワインで飲み込んだ。ソーセージの味は故郷のフランクフルトのものに似ていた。ザウワークラウトが付いていないのが残念だった。
「おもしろい話だと思うよ。だけど、それは机上の空論ってやつだ。そんなことが実際に……」
できるわけがない、と言いかけたぼくの口を、ボーア博士は立てた人差し指で塞いだ。
「可能なのよ。LHCなら、ね」
「いくらLHCが破格のパワーだと言っても、実験の対象になるサイズのブラックホールなんて、とても生成できるレベルじゃないよ」
「だからLHCの中間部分にターンアウト・アクセラレータを追加して、粒子を再加速するのよ。それで二倍ちかいゲインが得られるわ。プランク所長には、すでに内々に承諾を得ているの。ハイゼンベルク家の……いえ、あなたの協力が得られれば、実現は確実だわ」
いささか危険ではあるが、魅力的な研究テーマだ。
だが理屈はともかく、実行するとなると現実的な問題がある。それを無視した提案など、理事会の審議の対象にもならないだろう。
「費用はどうするんだい。LHC計画の予算はもう使い切っていて、そんな装置を追加する資金はないはずだ」
「お金の目当てなら、ちゃんとあるわ。そのために、所長の内諾をとりつけたんだから」
「……サスーン・グループか」
ボーア博士は、ご名答と言わんばかりにうなづいた。
サスーン・グループは、中東を本拠地とする金融コンツェルンだ。十九世紀、大英帝国支配下の東アジアで行った三角貿易で巨万の富を築き、それから今日まで世界経済の動向に大きな影響を与えつづけている。
そのサスーン・グループから、プランク所長が多額の研究資金の提供を受けているのは有名な話だ。学者としての実績はたいしたこともないのにCERNの所長になれたのは、そのおかげだと言われている。
「総帥のディビッド・サスーンが死んで落ち目になっていると言っても、その資金力は膨大だわ。そして、ディビッドの後継者候補のひとりが、CERNでの利権を狙って、私に近づいてきているの」
「それはまた……いろんな意味で、ずいぶん危険な火遊びだね。うかつに手を出すと、やけどをしそうだ」
ふふっ、とボーア博士は含み笑いをした。
「それなら今夜、あなたが私を止めてくれる?」
話題が変わった途端に、彼女の印象も変わった。
どこまで本気で、どこまで社交辞令なのか。思わせぶりな仕草や表情のあちこちに、男を虜にしようとする魔性がちらついていた。
その引力に捕まるまえに、ぼくは理性という斥力を発動した。
「ぼくの言葉なんて、君の行動にも、この世界にも、なんの影響も与えないよ」
「そうよね、あなたは止めてくれないだろうし、私もやめないわ。でも、私の言いたいことはもうわかっているわよね。テルスノヴァ・プロジェクトは、あなたの量子重力理論ととても相性がいいわ。そしてわたしたちの相性も、それ以上にいいと思うの。だから、ね」
どうかしら、と濡れた唇がささやく。ぼくを見つめる瞳は、甘えてねだるような色気を放っていた。
そこにいるのは科学者ではなく、ひとりの魅惑的な女だった。
そこまで話したところで、ぼくはアヤノの表情を窺った。ボーア博士との絡みはぼかしたから、勘付かれてはいないはずだ。
アヤノはわずかに首をかしげてから、そういえば、と言って目を輝かせた。
「LHCで極小のブラックホールが生成できるという話は、あたしも聞いたことがあります。暴走すれば、地上に大きな被害が出るって。都市伝説だと思ってましたが、ほんとうにそんなことができるんですね」
アヤノは、『テルスノヴァ・プロジェクト』を夢物語だと嗤うことはせず、実現可能なことだと理解したようだった。
思わぬ反応に、ぼくは少なからず動揺した。
どんな可能性も、ないがしろにしない。その思考の根本的な部分においては、アヤノとマルガレーテは極めて同質性が高かった。ただ、そのベクトルが違うだけだった。だから案外、ふたりはいい関係になれるかもしれない、とぼくは思う。
けれど、そんなことは……。
「できないよ。LHCではどうやったって、ブラックホールなんて作れないんだ。あれは、純粋に研究のために設置されたものだからね」
苦しい言い逃れだった。だから純粋という言葉が、ぼくの口先でひっかかってしまった。
アヤノならもしかすると、ごまかしや嘘など見破ってしまうかもしれない。そんな不安が、一瞬だけよぎったのだった。
案の定、そうですか、とつぶやいたアヤノの眼差しは、わずかに宙をさまよったあと、なにかを問いかけるようにまっすぐにぼくを捉えた。
「それなら、安心ですね。それで、その計画はどうなったんですか?」
アヤノの興味がそちらに向かったので、ぼくは胸をなでおろした。
ボーア博士の計画をどこから聞きつけたのか、その夜のうちにマルガレーテから電話がかかってきた。
「それで、実際のところはどうなの。あなたの見立てでは、テルスノヴァ・プロジェクトは実現可能なことなの?」
「現段階では、成功する見込みは、ほぼないと思う」
「将来はどうだかわからない、ということね?」
「ああ。技術の革新や新理論の発見は、いつどういうふうに起きるかわからないからね」
そうね、と言ってマルガレーテは黙り込んだ。わずかな沈黙のあとで、冷ややかな声がした。
「それなら、つぶすしかないわね」
やはりそうなるのか。
ぼくは暗澹たる気持ちになった。たとえ成功の可能性は低くても、ボーア博士の研究テーマは、この世界を記述する理論に近づこうとする試みだ。なのに……。
「言うまでもなく、私の言葉はハイゼンベルク家の総意です。物理学者なんて気軽な立場でいたいのなら、やるべきことはわかっていますね?」
姉には、いや、ハイゼンベルク家には、どうやっても逆らえない。
フランクフルトの屋敷から逃げ出したところで、一族のくびきから脱することなどできはしなかった。ぼくは一言の反論もできないほどに、骨の髄までそれを思い知らされているのだ。
無意識についたため息に、マルガレーテは乾いた笑い声を返してきた。
「ニーナ=ルーシー・ボーアは、科学者にしておくには惜しい美人だそうね。でも、きれいな女が抱きたいのなら、余計なことはせずに私に言いなさい。今夜のうちに五人でも六人でも、必要なだけあなたの部屋に届けてあげるから」
そういうことじゃない。ぼくが女遊びに呆けているのは、それが理由じゃないことは、姉さんがいちばんわかっているはずじゃないか。
言えるはずもない言葉は、飲み込むしかなかった。
ぼくは、わかった、とだけ答えて電話を切った。
「理事会は賛成と反対の真っ二つに割れたけど、ぼくが反対に回って、一票の差でテルスノヴァ・プロジェクトは却下されたんだ。おかげで、ボーア博士やプランク所長にはすっかり嫌われている。今回のことでは、アルバートからも嫌われそうだし。まあ、自業自得なんだけどね」
アヤノが、ふるふると首を横に振った。
「ハイゼンベルク博士は、悪くありませんよ。しかたがないことだと思います。でもボーア博士って、どうしてそんなに多重世界にこだわっているんでしょうか?」
「多世界解釈は、コペンハーゲン解釈の弱点である、状態の急激な変化を考慮しなくていいからね。観測者に見えている世界の違いだとする多世界解釈は、数学的にはとても魅力的なんだよ。もっとも、ボーア博士が求めているのは、そういうものとは違うんじゃないかと思うんだ」
「それなら彼女は、いったい何を求めているんですか?」
首をかしげるアヤノから、ぼくは窓の外に目を移した。
雲ひとつない青空の下に連なる山並みは、この世界を取り囲んでいるように見えた。それは、すり抜けることのできるポテンシャル障壁なのか、それとも越えることのできない世界線なのか。
ニーナ=ルーシー・ボーアは、どちらだと考えているだろう。
わかりようもないことのはずだ。けれど、ぼくにはなぜだか、それが答えのように思えたのだ。
「『テルスノヴァ』じゃないかな」




