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Article 13 : decoherence - 失われゆく自由

13-1 [AK ̄] 13


 封筒から出てきたのは、折りたたまれた一枚の上質紙だった。

 CERNのレターヘッドが入った便せんで、英語でつづられた文章の冒頭には、Dear Ms. Kasugaという宛名があった。

 日付はあったが、差出人の記名もサインもなかった。


 文章の内容は重大だった。

 けれど、どこか非現実的で、あたしの目は文字の上を滑っていた。

 二度読み返してから、あたしはそれをベルナルドさんに差し出した。


「ぼくが読んでも、いいのかい?」

「はい。ぜひお願いします」


 レターに目を通したベルナルドさんは、不快げに顔を歪めた。


「これは……内部告発ということか」

「ここに書かれていることは、事実なんでしょうか」

「ぼくが知っている範囲でいえば、事実が相当に含まれているね。……それで、アヤノはどうしたいんだい?」


 どうしたい、か……。

 Ms. Kasugaという宛名を、もういちど確かめる。

 なぜ、あたしなんだろう。

 わきおこったのは、匿名の差出人への疑問とも非難ともつかない感情だった。だって、このレターを見た時点で、あたしがするべきことは決まっているのだから。

 つまり、どうしたいか、ではなく、どうすべきか、なのだ。


「せっかくのディナーですけど、ここで切り上げてもらっていいですか?」

「まあ、そうなるだろうね。それはかまわないけど、かわりにひとつお願いがあるんだ」

「なんでしょう」

「この一件が落ち着いたら、あらためてぼくとデートをしてくれるかい?」


 どうしてそうなるの、とあたしは思う。どう考えても、はいと答えられる状況ではない。

 返答に窮していると、ベルナルドさんはナプキンをくしゃっと丸めて、テーブルの上に置いた。


「マルガレーテの言ったことは、ただのいやがらせだから、気にしなくていいよ。こんどは、ちゃんとデザートまで食べたいからね」


 それも気にかかるけど、この事件が落着するなんて、いったいいつのことだろう。明日の夕方までしかジュネーブにいられないあたしに、そんな機会があるとはとても思えなかった。


「わかりました」


 それだけを答えて、あたしはジョセフに電話をかけた。

 ジョセフはすぐに電話に出た。重要な報告です、と前置きをして、あたしはレターを読み上げた。そして、ベルナルドさんの見解を付け加えた。

 最後まで黙って聞いていたジョセフは、わずかな沈黙のあと低い声で告げた。


「いまの段階では、まだ真偽は不確かだな。事実関係の裏付けをとること、差出人を特定すること、そしてその文書を作った目的を知ることが必要だ」


 言っていることはもっともだけど、こちらの状況も考えてほしいと思う。手配してくれた航空券が、いつの出発だかはわかっているはずだ。


「あたしにそれを今からやれと、本気で言っているんですか。明日の夕方までしか、時間がないんですよ?」

「もちろんだ。時間がないのなら、CERNの幹部をまきこめばいい。そのレターはいい材料になる。協力を得る約束をとりつけておけば、ニューヨークに帰って来てからでも調査はできる」


 雑用をいいつけるような口ぶりだけど、とてつもなくレベルの高い指示だった。先月バイクの免許をとってスクーターを買ったばかりのあたしに、ニューヨークからロサンゼルスまでツーリングに行って来い、というようなもので……。

 でも思えば、電話の相手はそれを言う人だった。


「CERNの幹部に面識もないのに、いきなりそんな交渉なんて、上手くいくわけないじゃないですか。先生のコネで、なんとかしてください」

「あいにくCERNには知り合いがいなくてね。むしろ記者会見の一件があるから、アヤノの方が顔も名前も知られているはずだ。だから君に任せたんだよ。それに、こちらもいろいろ忙しくてね。手を貸している余裕がない」

「忙しいって、先生はいつでも忙しいでしょ。肝心なときになると、そうやって見捨てるんだから」


 不満を訴るあたしの言葉は、電話のむこうでジョセフを呼ぶ声にあっさりと遮られた。


「ああ、ちょっと待ってくれ……。とにかく、さっき言ったとおりにやってみなさい。悪いが、これで切るよ。生放送の時間なんだ」


 言葉が終わらないうちに、ぷつんと通話が切れた。

 ほんとに、頭にきた。

 通話履歴に表示されたジョセフ・クロンカイトという文字に向かって、あたしは思わず「もうっ」と口走っていた。


 目の前で、ベルナルドさんが驚いたように目を丸くする。

 油断していたあたしは、またしても頬が熱くなるのを感じた。今日だけで何回目だったか、わからなかった。

 ジョセフが手を貸してくれないのなら、あたしはこの人に頼るしかない。でもちょっと妙な雰囲気になってしまったあとだけに、たとえビジネスライクな用件でも切り出しにくかった。

 どうしようか悩んでいると、ベルナルドさんの方から声をかけてくれた。


「アルバート・シュレーディンガーか、ニーナ=ルーシー・ボーアか、それともマクシミリアン・プランクか。だれがいい?」

「えっ?」

「だれとでも、秘密の会談を設定できる。ぼくならね」


 ベルナルドさんの青い目は、まっすぐにあたしに向けられていた。

 その眼差しは険しかった。怒っているという感じではなく、まるでなにか不満があるように見えた。


「いいんですか?」

「ああ、もちろんだよ」

「では、あつかましいお願いだとは思いますが、プランク所長と会わせていただけますか」


 うん、と答えたベルナルドさんは、表情を緩めた。


「それがいいだろうね。オーケー、明日の午前中にセッティングしておくよ。でもそれは、ニューヨークの誰かさんのためじゃない。アヤノのためだからね」



13-2 [MP ̄] 02


「いかがですか、プランク所長」


 目の前に座っている少女――コロンビア大学の学生記者、アヤノ・カスガは、おそるおそるという感じでそう言った。

 いまさらいかがも何もないだろうに、と私は思った。


 彼女が私に見せたレターは、じつによくできた告発文だった。いわく。



 エヴェレットの多世界解釈を実証したとするアルバート・シュレーディンガーの理論と実験には、重大な疑義と不正行為が存在する。

 シュレーディンガー博士の理論には誤りがあることが指摘されており、実験も成功していない。事実、実験のデータは存在しておらず、論文に使用したデータや画像は捏造されたものである。従って、論文には重大な欠陥があり、専門家による再検証が必要である。

 また、実験装置だとされるNPUやSoC『ヘラクレスの柱』は、民間企業が製造した量子コンピュータ用の素子であり、実験は事実上CERNの公費の流用による同社への利益供与である。当該企業からなんらかの見返りがあった可能性は、極めて高い。

 なお、一連の背任行為は、シュレーディンガー博士と統括責任者のボーア博士との共謀によってなされている。両名はプライベートでも関係をもっており、それがこの不正の動機になっている。

 マスメディアを通して、この不正が明るみに出ることを期待する。



 読み進めながら、私はじつに不快な気分を味わっていた。

 アヤノの隣には、難しい顔をしたハイゼンベルク博士が座っている。この様子では、すでに彼も、これを読んでいるにちがいない。


 相手が半人前の学生記者だけなら、簡単に握りつぶすこともできただろう。だが、この娘の背後には、かのジョセフ・クロンカイトがついていると聞いている。おまけにハイゼンベルク博士が絡んでいるとなれば、そんなことをするわけにはいかないのだ。彼の実家が動き出せばやっかいだということは、CERNの誰もが承知している。

 もとより、とるべき態度はひとつしかない、ということだ。


「ハイゼンベルク博士が君を私に引き合わせたということは、今さら隠しだてしてもしかたがない、ということだろう。調査をしてみないことには、肯定も否定もできないが……。個人の率直な意見としては、ありえることだと思う」

「それは、正式に調査をしていただける、と理解していいのでしょうか」

「当然のことだ……」


 アヤノの言葉を肯定しておいて、しかし私は、いかにも残念そうに肩をすくめて見せる。


「と言いたいが、すこしばかり遅かったようだ。ボーア博士は、次期所長に就任することが決定していて、数日後には彼女がこの椅子に座っているだろう。それまでに調査を終えて結論を出すのは、どう考えても無理なことだ」

「調査もなにもしない、ということですか?」


 アヤノは気色ばんで、そう訊きかえしてきた。

 どうやら、すこし言葉がたりなかったようだ。このままでは、誤解をさせることになりかねない。いわずもがなだと思っていたが、私は説明を加えることにした。


「調査をしても無駄だ、と言っているのだ。いまからでは調査が終わらず引継ぎ案件になるだろうが、引継ぎを受けるのは当の本人だ。私の退任後も調査が行われるかどうかわからないし、結果が公表されるかどうかもわからない。そういうことだ」

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