Article 12 : super position - 重ね合わせの世界
12-1 [AK ̄] 11
ベルナルドさんが運転するスバル・アルシオーネSVXは、レマン湖を左手に見ながらジュネーブの街並みに入った。
フロントガラスからサイドウインドウそしてリアガラスまで、ぐるりと特殊成型のUVカットガラスに囲まれたキャビンは、まるで戦闘機のキャノピーのようだった。けれど、本革のシートとアルカンタラを多用した内装は、エレガントで落ち着いた雰囲気をただよわせていた。
「Close to you」と、愛を告げるように歌うカレン・カーペンターの声が、あたしをひとときの夢の世界にいざなう。
今日のお礼にご馳走するよ。
ベルナルドさんはそう言ってあたしを誘った。けれど、CERNをあとにしたときから、あたしはそれ以上のなにかを期待してしまっていた。
さりげなく胸ポケットに触れる。
そこに刺さっている鉛筆のような六角形のボールペンは、ローズピンク色のカランダッシュ849だ。検証会でダメにしたペンのかわりに、ベルナルドさんが使っていたものをプレゼントしてくれたのだ。
サイドウインドウに映ったベルナルドさんの横顔に向けて、あたしは小声で「Close to you」と言ってみた。
けれどそのささやきは、3300cc水平対向六気筒DOHCエンジンの咆哮にかき消されたのだろう。
ガラス窓のなかの彼の顔は、前を向いたままだった。
12-2 [BH ̄] 05
チーズの匂いが満ちた店内には、アコーディオンの伴奏に乗せてヨーデルを歌う声が響いていた。
二人掛けの席に向かいあって、ワインのグラスを掲げる。
「ぼくたちの成果に、乾杯」
口に含んだ白ワインは、まろやかでフルーティな香りがした。白身魚をムニエルにした、フィレ・ド・ペルシュとよく合っていた。
「おいしい」
そうつぶやいたアヤノは、ワイグラスの縁にうっすらと残った唇の跡を、さりげなく指で拭きとった。そのときはじめて、ぼくはアヤノがルージュを引いていることに気づいた。
ぼくは自分のぶしつけな視線を、あわててワインのボトルに向けた。
「これはね、ジュネーブの近郊で作られた、スイスワインなんだよ」
「スイスワイン?」
「ああ。意外に思うかもしれないけど、スイスはワインの生産が盛んなんだ」
アヤノのおおきな瞳が、きらりと光った。ぼくの話に興味を持ってくれたのだろう。
「お酒には詳しくないですけど、神戸でもニューヨークでも、スイス産のワインを見かけたことはなかったです」
「だろうね。作るはしから、スイス人が自分たちで飲んじゃうからね」
ぼくはフォンデュ鍋の溶けたチーズをたっぷりとパンにからめる。この店の料理は美味しいし、ワインの在庫も豊富なのだが。
ヨーデルの歌声が止むと、アルプホルンの音が聞こえてきた。ププゥと間抜けな音が鳴ると、階下の客席からどっと笑い声が起きる。この店の名物のひとつで、楽団員が観光客に吹かせて笑いをとる見せ物だ。
「いきつけのオーベルジュが、今日に限って閉まっていたからね。観光客向けの店だから、賑やかでいいんだけど……ちょっと騒がしいね」
「いいえ。スイスだなっていう雰囲気がして、楽しいです」
デートだなどというつもりはなかったが、せめてもう少し落ち着いた店にすればと後悔していた。だがアヤノが楽しんでくれているのなら、これはこれで良かったのかもしれない。
民族衣装に身を包んだ髭面のソムリエにワインを注ぐよう促してから、ぼくはジャケットの襟を直した。
「今日のこと、あらためてお礼を言うよ。検証会もそうだし、その後もね。あのときアヤノがテーブルを揺らせてくれたから、アルバートの実験結果を突き崩す手がかりを見つけることができたんだ……」
ワインに酔ったのか、アヤノの頬はほんのりと朱に染まった。
「多重世界露出実験の当日、ハドロン衝突型加速器が異例の大出力で稼働していたんだ。その磁気振動で、実験に使われていた超高感度重力プローブが誤動作した可能性がある。さぞや警報音がうるさかっただろうね」
口ではそうしゃべりながら、ぼくは、頭ではちがうことを考えていた。
あのとき、アヤノを抱きしめるような真似をしてしまった。気持ちがよそにいっていたとはいえ、騒がれてもしかたのない行為だ。
けれど、ぼくが気づいて腕の力をゆるめるまで、アヤノはなにもいわずに待っていてくれた。日本人によくある遠慮というものか、あるいは……。
それを知るには、あまりに時間が短かった。できることなら、もっとアヤノと話をしたかった。
ぼくは意を決して尋ねた。
「アヤノは、ジュネーブにはいつまでいるんだい?」
「明日の夕方の便で、ニューヨークに帰ります」
明瞭で簡潔な答えだった。ジュネーブには、心残りはないのだろう。
気付かれないようにしているつもりだが、ぼくの落胆はたぶん表情に出てしまっただろう。
「もう、お別れなのか。アヤノがいなくなると思うと、さびしいね。でもきっと素敵な恋人が君の帰りを待っているんだろうから、しかたないか」
そう言ってから、ぼくはワインを飲み干す。未練がましいなと、自分でも思う。どうも、いつもと勝手がちがう。
「そんなひと、いませんよ。あたしを待っているのは、いじわるな教師だけです」
その答えに、ぼくはほっとする。
社交辞令にちがいない。それはわかっているのに、それでもぼくはつまらない言葉を口にする。
「そうなんだ。それならぼくにも、チャンスはあるわけだね」
笑って受け流してくれればよかったのに、アヤノは言葉をさがすようにだまりこんでしまった。だからぼくは、よけいに……。
ヨーデルの生演奏が終わり、店内にはフォーレの『夢のあとに』の甘くてせつないメロディがながれてきた。
12-3 [AK ̄] 12
不意打ちのようなベルナルドさんの言葉に、あたしは気の利いた返事ができなかった。
きっとつまらない子だと思われているだろう。でも、焦れば焦るほど、無意味な言葉しか思い浮かばない。
なにか言ってほしい、そう思った時だった。
「こんばんは、ベルナルド」
アナウンサーのような、いや、街頭演説をする政治家のような、明瞭な女性の声が彼の名前を呼んだ。
あたしは驚いて顔を向けたが、ベルナルドさんはもっと驚いたように目を見開いた。
その先には、ブロンドをショートヘアにした美女が立っていた。
女のあたしから見ても、美しいひとだった。碧眼に掛けた眼鏡が、その美形を台なしにしているのがもったいなかった。
「おじゃまなのはわかるけど、席くらい勧めてもらえないかしら?」
ベルナルドさんは、はっきりとわかるくらいに顔をしかめてから、どうぞ、とため息まじりに言葉を吐き出した。
「なんでここにいるんだよ」
「それはこちらの台詞だけど答えてあげるわ。あなたに用があってわざわざ来たのよ。そもそもあなたの行動なんて、私には筒抜けよ。おまけにヨーロッパ中を探したって二台とないあんなクルマを玄関先に停めていれば、ここにいますって旗を立てているようなものよ」
ベルナルドさんの隣に当然のように座った彼女は、あたしに敵意をむき出しにした眼差しを向けてきた。
「まあ、ずいぶんと可愛らしい子を連れているじゃない。これはいったいどういうことか、説明してくれるわよね、ベルナルド」
言葉に込めた棘を隠しもせずに、彼女がベルナルドさんとあたしをなじる。その態度は、親しい間柄などという薄っぺらい関係ではないことを、まるであたしに見せつけているかのようだった。
ベルナルドさんは、盛大にため息をもらした。
「彼女――アヤノはジャーナリストだよ。CERNを取材しにきているんだ。……それだけだよ」
それだけ、って……。
ベルナルドさんの言葉はとても残念だけど、たしかにその通りではある。それに彼の言葉は、わざとらしいほどによそよそしい感じだ。
たぶん、彼のためにも、そしてあたし自身のためにも、ここに長居はすべきじゃないのだろう。
「博士、ご協力ありがとうございました。あたし、これで失礼しますね」
席を立ちかけたあたしを、彼女は「ちょっと待って」と制した。
まずいな、とあたしは思う。もしかしたら、ベルナルドさんに迷惑がかかることになるのではないか。
けれど、そうではなかった。それよりも、むしろ……。
「もしかして、CNSのアヤノ・カスガって、貴女のこと?」
「はい、そうですけど」
ああよかった、と彼女は笑みを浮かべた。悪魔の微笑みたいだ、とあたしは思った。
「これを預かっているのよ。ベルナルドを通して、確実に渡るようにしてほしいって念を押されてね」
手渡されたものは、CERNのロゴが打たれた封筒で、宛名はあたしの名前になっていた。ひっくり返してみると、ご丁寧に封蝋が施してあった。けれど、差出人の名前などはいっさい書いていない。
「これは?」
「ある人から、としか言えないわ」
「何が入っているんでしょう?」
さあね、と彼女は肩をすくめた。
「なんていったかしら、ほら、ナントカの猫……」
「エルヴィン・シュレーディンガーの猫箱のことか?」
ベルナルドさんが、うんざりした声で答える。彼女は、そうそうそれよ、とうなづいた。
「開けてみないとわからない、ってやつ?」
「現役の物理学者を目の前にして、聞きかじりで適当なことを言わないでくれ。それを言うなら、箱を閉じた状態では猫が生きている可能性と死んでいる可能性が重ね合わされて存在している。そして箱を開けて観測した瞬間に、可能性はひとつの結果に収束して猫の生死が決まる、だよ」
どっちでも同じじゃない、と彼女は口をとがらせ、いや違う、とベルナルドさんは首を振った。
「常識的に考えれば、箱を開けなくても猫の生死は決まっているはずだ、と続くんだ。量子理論をマクロの世界に拡大したときに起きる、異常な状況を揶揄したパラドックスさ」
「それこそ、どうでもいいわ。物理学者って、どうしてこんなにバカばっかりなのかしら。じゃあ私は忙しいから、これでね」
彼女はワインの一杯も口にせずに、席を立った。そして、眼鏡の奥から氷のようなブルーの瞳をあたしに向けた。
「貴女、かしこい子ね。気に入ったわ。でもベルナルド、遊びなら大目に見るけど、本気なら承知しないわよ」
そう言い残して、彼女は店を出て行った。
あたしは、深いため息をついた。
一日に二度も、年上の美女からいじめられるとは。今日はなんて日だろう。
「すまない、アヤノ。彼女、悪気はないんだけど、どうにもがさつで」
ベルナルドさんが、ぼそりと告げた。
謝られるようなことではない。でも、彼女にあたしのことを説明したように、あたしにも彼女のことを説明してほしかった。なのに。
「訊かないんだね、なにも」
そう尋ねられて、あたしはその問いを口にする機会を失った。
「なにを訊けば、いいんですか?」
「いや、訊きたいことがないのなら、いいんだ」
優しいのか意地悪なのか。ベルナルドさんの方から説明してくれるつもりはないらしい。
でもそれを知って、あたしはどうしようというのか。ベルナルドさんと彼女の距離感は、他人のそれとは明らかにちがっていた。
ならば、シュレーディンガーの猫箱を、無理に開ける必要があるのだろうか。可能性が重ねあわされた曖昧な世界で、もうすこしくらい夢を見させてもらってもいいのではないか。
そう思ったけれど。
「それにしても、マルガレーテを使いによこすなんて、普通じゃない。その封筒の中身、かなり問題のあるものかもしれないな。なんにせよ、それはアヤノに託されたものだ……」
ベルナルドさんは青い瞳にあたしの姿を映しながら、あたしを突き放すような言葉を告げた。
「その意味と結果は、観測者たる君が決めればいい」
やはり猫箱の蓋を開けるしかないようだ。そしてたぶん、それがあたしの夢の終わりなのだろう。




