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Article 11 : resonance - エゴイストたちの共振

11-1 [AK ̄] 09


 目が覚めたら、ソファーの上だった。

 あたしはあおむけに寝かされていて、上半身にはベルナルドさんのジャケットが掛けられていた。

 部屋には、だれもいなかった。

 窓からさしこむ西陽は濃いオレンジ色で、時計は午後五時をまわっている。検証作業が終わってから、二時間ほどがすぎていた。


 頭痛はすっかり治っていた。

 上体を起こして、ベルナルドさんのジャケットをきちんと折りたたみ……気づいたら胸に抱きしめていた。


『すまない』


 ベルナルドさんはたしかに、そう言った。

 彼はたぶん、権力争いのようなものに巻きこまれて、追い詰められていたのだと思う。その相手はボーア博士だ。だからあの検証作業は、純粋に科学的な動機ではなかったのだろう。

 それがわかっていながらあたしは、自らの意志で加担してしまった。


 そもそも、あたしがやるべきことは、CERNでなにが起きているかを取材することだったはずだ。ジョセフからの指示にかこつけて、あたしはいったいなにをしているのだろう。


 けれど、あのときの――シュレーディンガー博士の方程式と格闘しているときの高揚感と充実感は、取材や記事の執筆からは得られないものだった。

 結果論になるけれど、シュレーディンガー博士の理論に数学的なほころびがあることを突き止められたのは、たしかな成果だ。それに、CERNで重要な地位にいるベルナルドさんに接近できたことは、これからの取材で有利になるはずだ。


 ……違うでしょ。

 もうひとりのあたしが、そうささやいた。そんなのは自己欺瞞だわ、と。

 あたしは、ベルナルドさんの窮地につけこんで、体よく自分を売り込んだのだ。この能力と、そして……。


 胸に抱いたジャケットからは、シャネルの有名な香水の匂いがした。


「エゴイスト……」


 口をついて出たつぶやきに。


「そうだよ」


 背後から答えが返ってきて、あたしの心臓が跳ねあがった。



11-2 [BH ̄] 04


 ふたつ返事で検証会に参加してくれたアヤノの活躍は、想像をはるかに上回っていた。

 その疲れが出たのだろう。頭痛を訴えたアヤノを、ぼくは研究室のソファで休ませた。

 静かな場所で休んでもらうために、検証チームを解散して、ぼくは実験棟の様子を見に行った。

 三回目に研究室に戻ったとき、アヤノが起きあがっていた。


 窓を染めた夕陽のオレンジを背にしたシルエットは、とても小さくて、まだ少女のそれだった。そして、両腕を胸の前で合わせた姿は、祈りをささげているかのようで。


 だが、その口から漏れだした『エゴイスト』という言葉は、ぼくの心を深く抉った。


 そもそもぼくがやるべきことは、財界との過剰な関係に突き進もうとしているCERNを、ハイゼンベルク家に代表される勢力――政界に引きとめるための工作のはずだった。なのに、姉――欧州議会議員マルガレーテ・フォン・ハイゼンベルクからの指示を口実にして、ぼくはなにをしているのか。


 けれど、検証会というまともな手段でマルガレーテからの指示を遂行できたのは、CERNを無用な争いから守るという意味で、上出来な成果だった。

 結果論になるが、それもぼくがCERNで一定の地位についているからだと言えるだろう。それに物理学を理解しているジャーナリストのアヤノを味方につけられたことも、今後なにかと役に立つはずだ。


 ……違うだろう。

 もうひとりのぼくが、そうささやいた。そんなのは自己欺瞞だ、と。

 ぼくは、アヤノの好意を利用して、体よく自分の欲求を満たそうとしているのだ。安楽な居場所の確保と、それから……。


 アヤノは聡明だから、そんなことも見透かされているかもしれない。

 だからぼくは、『そうだよ』と答えるしかなかった。

 なのに……。



 驚いたように振り返ったアヤノの胸には、ぼくのジャケットが抱きしめられていた。

 アヤノは大きな目をもっと大きくして、「あ」とも「う」とも聞こえる声を出した。その顔はみるみるうちに上気して、耳まで赤く染まった。


「ち、違います。あの……その」


 しどろもどろになりながら、アヤノはぼくとジャケットの間に視線を泳がせた。それから「ありがとうございました」と小声で告げて、ジャケットを突き出した。

 ボーア博士とのやりとりで見せた大人っぽさとはうらはらの、意外なほどの幼さだった。

 どういうことなのだろう。

 ぼくはもうすこし、アヤノの反応を試したくなった。


「違わないよ」

「えっ?」

「エゴイストだよ。よくわかったね」


 やや間があって、アヤノはなにかを思いついたように答えた。


「はい。とてもいい香りでした」


 やはり、頭の回転も感情の切り替えも速いな、と思う。


「なんだ、香水のことか。てっきり、ぼくのことかと思ったよ」

「博士はエゴイストなんですか?」

「ああ。具合の悪いアヤノをほったらかしにして、他所に行っていた」


 アヤノが声を上げて笑った。


「もうすっかり良くなりました。それにそんなのは、エゴイストって言いませんよ。どちらにお出かけだったんですか?」

「多重世界露出実験の追試の様子を見てきたんだ」

「追試?」

「ああ。数式の検証と同時に進めていたんだよ」


 一連のできごとの発端となったアルバートの実験は、NPUという特殊な素子を使って多重世界の尻尾をつかまえたものだとされている。その真の目的が違うところにあったにせよ、それはコペンハーゲン解釈が主流の量子理論に一石を投じ、多世界解釈の可能性をあらためて示した画期的な成果だった。

 追試で同じ結果が出れば、という条件つきだが……。


「それで、結果はどうでしたか?」

「ぼくはどうも、多重世界から嫌われているようだ。それとも、実験が失敗した世界に全員がいた、と言うべきかな」

「つまり、だめだったということですね」

「ああ。アルバートの実験結果は、再現しなかった」


 アヤノは、そうですかとつぶやいた。


「それでも、見たかったなぁ。その実験」


 放置されていたことへの不満もあるだろうに、それを言い立てることもなく、アヤノはすこしだけ悲しげに微笑んだ。その姿が、あまりにもいじらしくて。いささかの後ろめたさも手伝って、ぼくは思わず言っていた。


「いまから、やってみようか」

「え、いいんですか?」

「ああ。もっとも、アルバートの実験はできないけどね。それよりもっと、おもしろいものを見せてあげるよ」


 ちょっと待ってて、と告げて、ぼくはその実験の準備をはじめた。

 アヤノが座っている位置からも見える机の上に、極細の二本のスリットを開けた金属片と、サングラスなどで反射光を防ぐのに使われている偏光フィルターを設置する。それからプレゼンに使うレーザーポインターを点灯させ、その光がスリットと偏光フィルターを通ってまっすぐに壁に当たるように調整した。

 宵闇が迫る部屋の壁に、ぽつんと赤い光点が映った。


「じゃあ、はじめるよ」


 そのままそっと偏光フィルターを外す。

 壁の光点が消えて、そこには赤い光の縞模様が現れた。


 これほど単純でありながら、とんでもなく深い意味を持つ実験は、たぶん他にないだろう。

 偏光フィルターを付けて、光の経路上で観測をすると、粒としてスリットを通り光点が現れる。偏光フィルターを外して、経路上での観測をやめると、波として二重スリットを通り干渉が起きて縞模様を描く。

 光という同じものでありながら、観測の有無でその性質が変わってしまう。これは、量子理論の精髄といっていい現象だ。


 アヤノが、うわぁと言って、目を輝かせた。


「二重スリット実験ですね。はじめて見ました。ほんとうに、こうなるんですね」

「そうだよ。それなのに、ぼくたちはこんな簡単な現象の仕組みすら、まだ知らないんだ。コペンハーゲン解釈はこの現象を、観測によって瞬間的に波が粒子に収束しているのだ、と説明する。なぜそうなるかという原理はわからないけど、そう考える方が、現象を説明するのに都合がいいんだ」


 ぼくの説明に、アヤノが首をかしげた。


「『都合がいい』なんですね。『正しい』ではなくて」

「量子理論では正しさなんて、もう九十年も前に放棄してしまったからね。今さら、なにをかいわんや、だよ」


 そうでしたね、とアヤノは寂しそうに答えた。


「でも、なんだか嫌です。そういうのって」

「アヤノは、理論に正しさを求めるんだね?」


 ぼくの問いかけに、アヤノがこくんとうなずく。

 そしてそのダークブラウンの瞳が、不安そうに、認めてもらいたそうに、上目づかいでぼくを見上げた。


 それは、まったくの不意打ちで。

 無防備だったぼくの胸を、春の到来を告げるような、暖かい風が吹き抜けた。風は、ぼくの心の水面にさざ波を立てた。波は、ながらく忘れていた感情の岸辺に打ち寄せ、引いたあとには綺麗に光る砂が残った。

 そうか、ぼくは……。



11-3 [AK ̄] 10


 ベルナルドさんと過ごす時間は、楽しくて、短かった。

 なにかを言いかけたベルナルドさんを遮るように、天井のスピーカーから終業時刻を知らせるアナウンスが流れた。

 窓の外は、すっかり闇に閉ざされている。

 もっと話をしたかったけど、ここまでのようだ。


「ありがとうございました。そろそろ失礼しようと思います」


 あたしは礼を告げて、ソファーから立ち上がった。

 とっくに回復していると思ったのに、途端に立ちくらみがしてよろめいた。机にぶつかってふらつくあたしを、ベルナルドさんが後ろから抱きかかえてくれた。


「まだ辛いのなら、休んでいていいんだよ。アヤノの好意に甘えて、無理をさせてしまったからね」

「いいえ、あたしがそうしたかったんです」


 そうか、というベルナルドさんのささやきが、耳をくすぐる。

 背中を預ける格好になっていることが、ちょっぴり残念だった。


 あたし、なにを舞い上がっているんだろう……。

 そう思って壁に目をやると、そこには偏光フィルターを通して見たときのような、ぽつんとした光点が見えていた。

 見まちがいかと思って目を凝らすと、ふたたび縞模様が浮かび上がった。


 ベルナルドさんが息をのむ。


「振動……そうか、そういうことか」


 彼の腕にぐっと力がこもり、まるで抱きしめられているようだった。

 濃密なエゴイストの芳香にめまいがする。


 すこし苦しかったけど、あたしはその腕から逃れようとは思わなかった。

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