Article 10 : examination - 「百回目」の検証
10-1 [BH ̄] 03
ぼくがアヤノを呼び寄せたことが、よほど気に入らないのだろう。
ボーア博士の言動は、いかにも大人げがなかった。
「CERNで、なにかあるんですか?」
アヤノが落ち着いた様子で聞き返す。
CERNの状況を取材せよと言われている以上は当然のことだろうが、年若いアヤノの方がむしろ大人びて見えた。
ボーア博士は、よくぞ聞いてくれたと言わんばかりに、喜色を満面に浮かべた。
「四月からは、私がCERNの所長になるのよ」
それは、数日前に開催された、所長改選のための理事会で決定された。
三期目を狙っているといわれていたマクシミリアン・プランク所長は、高齢を理由にして立候補しなかった。その結果、唯一の立候補者となったニーナ=ルーシー・ボーア博士が、賛成多数で次期所長に指名されたのだ。
「だから、取材したいのなら、私のところに来ることね。あなたにも理解できるように、易しく話してあげるから」
ボーア博士の猫なで声には、いやみな響きが多分に含まれていた。
アヤノが眉をひそめる。しかし、それ以上の反応は見せなかった。ボーア博士よりもよほど、感情の抑え方を心得ているように思えた。それは日本人に特有の資質かもしれないが、ぼくはその姿を好ましく思った。
反対に、ボーア博士の言動は、どうにも腑に落ちなかった。
記者会見の一件で、アヤノに対して含むところがあるのは理解できる。ぼくとつるんでいることも、面白くないのだろう。
だが、それにしてもなぜそこまでアヤノを意識するのか、ぼくにはわからなかった。
意見の対立や立場の違いというよりも、もっと原始的な感情の発露……ありていにいえば、ジェラシーの存在を感じる。だからこそ、余計に理由がわからないのだが。
ぼくの思惑など気にもとめないように、ボーア博士の演説は熱を帯びていった。
「これからのCERNは、企業との連係をさらに強化して、実利を伴わない研究への予算は縮小することになるわ」
CERN設置の目的が産官学協同研究である以上、ボーア博士の言葉は既定の路線の延長だった。だが彼女はそこでとどまらずに、さらに踏み込んだ。
「研究リソースを多世界解釈の検証と多重世界の探索にシフトして、成果が期待できない研究、たとえば量子重力理論などは順次終了させていきます」
やはりそうきたか、とぼくは思った。
ボーア博士にすれば、それは『テルスノヴァ・プロジェクト』中止への意趣返しなのだろう。だが、ハイゼンベルク家はそれを、真っ向からの宣戦布告だと受け取るはずだ。このままでは、CERNが財界と政界の代理戦争の最前線になってしまう。
そんな事態は避けなければならない。そのためには、アルバートの理論や実験の誤りをあきらかにして、NPUプロジェクトを中止させるしかない。
だが、タイムリミットの三月末まで、残された日数は少ない。しかも来週は学会が控えているから、ここ数日が勝負だ。
ボーア博士が立ち去ったあと、ぼくはアヤノに非礼をわびてから、あらためて協力を求めた。
「聞いてのとおりでね、もう時間がないんだ。でも、アヤノが手伝ってくれれば、なんとかなると思うんだ」
アヤノの大きな瞳に、強い光が宿ったように見えた。
表情を引き締め、背筋を伸ばしたその姿は、美術の図鑑で見たことのある日本の有名な彫刻――阿修羅像のように凛々しかった。
端正なその口が開き、明快な答えが告げられた。
「わかりました。お手伝いさせてください」
10-2 [AK ̄] 08
ベルナルドさんはあたしを伴って、研究室のドアを開けた。
そこには数人の男女がいて、机の上にはたくさんの書類やメモが乱雑に置かれていた。
さて、と前置きをして、ベルナルドさんは切り出した。
「『九十九回が誤った結果であっても、百回目には正しい結果が出るのだ』 この言葉は、アインシュタインが口にしたということにこそ、価値がある。そして今日は、心強い味方が加わってくれた。では諸君、僕たちの『百回目』の検証をはじめようか」
ベルナルドさんの言葉を待っていたかのように、議論の応酬がはじまった。
検証の中心になるのは、シュレーディンガー博士の理論の中核をなす、波動関数の積分式だ。
英語にドイツ語、そしてフランス語が入り混じっている。日常会話ならばともかく、専門用語が飛び交う議論では、誰が何を言っているのかわからなくなる。
でも、ホワイトボードに書いては消される数式や、メモに書き散らかされる図を理解するという意味では、言葉の壁は存在しなかった。ここにいるすべての人が理解できる共通の言語――数学で、それらは記述されていた。
そして、ベルナルドさんをはじめとして全員が若い人でスタイルもラフだったから、大学の研究室にいるような錯覚もあった。
だから、あたしがその議論の輪に入るのに、時間はかからなかった。
議論を聞いていると、どうやら同じ場所を堂々巡りしているようだった。
シュレーディンガー博士が追加した、虚数項を組み込んだ定数の扱いが、議論を紛糾させる争点になっていた。
たしかに、一見したところでは、問題点をクリアしているようにも見える。
けれど、そもそも根本的には解決できないはずの問題だから、数学的なテクニックで回避しているだけのはずだ。だとすると……。
「繰り込みができなくなりそうな条件を与えて、試算してみればいいのではないでしょうか。これは数学というより、算数のレベルの解決方法ですけど、この場合はいちばん手っ取り早いと思います」
あたしの提案に、メンバーのみんなは目を丸くしたあと、いっせいに反論してきた。
「見当をつけて試算するだけでも大変な作業だ。そんな計算を何回もやっている時間はないよ」
「帰納法的なアプローチではだめだと思う。演繹法でないと限られた時間内では証明しきれない」
言いたいことはわかるし、普通ならそうだろう。けれど、あたしには結果までの道筋が見えていた。
それまで黙って議論の行く末を見守っていたベルナルドさんが、あたしに微笑みかけたように見えた。
「オーケー」と、彼は議論を制した。「アヤノの案でやってみよう。ぼくたちは『悪魔の証明』をする必要はない。式が破綻する条件を、ひとつでも見つけられればいいんだからね。ただ、試算をどうするか、だけど……」
ベルナルドさんは言葉尻を濁して、あたしを見た。
その逡巡は、あたしに対する気づかいなのだろう。でも、それは不要なことだ。この提案をしたときから、そうするつもりだったのだから。
「あたしが暗算でやります」
みんなの目が、いっせいにあたしに向いた。何を言っているんだ、とその目が語っている。でも……。
「頼むよ、アヤノ」
ベルナルドさんだけは、あたしを信頼してくれた。
「はい」と、あたしは応えた。
それから先は、数式との戦いだった。
解が得られなくなりそうな条件が思いつくたびに、数式に当てはめてトレースする。そして、ある程度のめどがついたら、メモに書きつけてメンバーにも検証してもらった。
改良された数式は手ごわくて、このまえのようにやすやすとは弱点を見せなかった。
持参したボールペンはすぐにかすれたので、ベルナルドさんからペンを借りた。
途中からは頭痛を感じたけど、あたしは計算をやめなかった。
それこそ百回目にもなろうかという試算の果てに、あたしはついにその条件を見つけた。そしてメンバーの全員が、それを証明してくれた。
ベルナルドさんが、証明終了を表すハルモス記号を、ホワイトボードに書き込んだ。
それは文字通り、シュレーディンガー博士の数式の墓標だった。
検証の成功を讃える声と、お互いの労をねぎらう言葉が、遠くに聞こえた。脳のすべてが熱を発して痛み、耳鳴りがして意識が遠くなる。
「アヤノ、だいじょうぶかい?」
ベルナルドさんの心配そうな声がした。
あたし、役にたちましたか。そう聞きかえす力は、もう残っていなかった。
「アヤノがいてくれて良かった。ありがとう……」
その言葉に、あたしのなかで張りつめていたものが、ぷつんと途切れた。
意識が途切れる寸前、あたしの頬に、柔らかで暖かなものが触れたような気がした。
「すまない」という、ささやきとともに。




