Article 01 : experiment - ヘラクレスの柱
『なによりも不可解なのは、人間がこの世界を理解できるということです』
― アルベルト・アインシュタイン ―
液晶ディスプレイに並んだ三行六列の数字が、目まぐるしく変化している。
変化しているといっても、数字はすべて一桁で、とりうる値は0か1かでしかない。しかし、その数字を読み取ろうとしても、それが0か1かを判別することはできないだろう。
それは重ね合わされた状態、つまり0であり、かつ1でもあるのだから。
アルバート・シュレーディンガーは、ダークブラウンの瞳でそのディスプレイを監視していた。
ジュネーブの郊外にある欧州素粒子物理学研究所――通称CERNの標準理論検証実験室で、アルバートが三年にわたって取り組んできた研究成果を試す実験が、これからはじまろうとしている。
実験プロトコルのチェックを終え、あとは最終のトリガーを実行するだけになったことを確認したアルバートは、背後を振り返った。
その視線の先には、三人の男女がいた。
白衣を着た金髪の女性、スーツ姿の初老の男、そして淡い水色のワンピースに身を包んだパールホワイトの髪の少女だ。
少女は、肩にかかった髪を指に巻きつけて、その毛先に目をやった。宝石を思わせる青と赤のオッドアイは、期待はずれだとでもいいたげな色を帯びている。
はあっとため息をついて、少女は口をひらいた。
「ねえ、ニーナ。こんな玩具みたいな実験装置で、ほんとうに大丈夫なの?」
はい、と答えたのは、白衣の女性、標準理論研究グループ統括責任者のニーナ=ルーシー・ボーア博士だ。
たしかに、この部屋に設置されているもので目を引くのは、大小ふたつの金属リングが交差して取り付けられている重力制御装置くらいのものだ。大仰なネーミングの機械だが、直交したリングが独立して回転することで、中心の架台部分にかかる重力を低減させたり増大させたりする仕掛けにすぎない。
重要なのはその架台にセットされたデバイスなのだが、それも外見はなんの変哲もない黒い小箱だ。
「ご期待には添えませんでしたか、エリザベート四世殿下……」
「ノエル、でいいわ」
「はい、ノエル殿下。ですが、大事なのは見た目ではないのです」
少女――ノエルは、つまらなさそうにもう一度ため息をつく。
そしてスマートフォンを取り出すと、そのカメラをアルバートとその背後にある実験装置に向けた。
「殿下、恐れ入りますが、ここでは一切の撮影を禁止させていただいております」
その行為を制止したのは、スーツ姿の初老の男だった。CERN所長、マクシミリアン・プランクだ。
言葉づかいは丁寧だが、長年にわたって組織の頂点に立っている人間にありがちな、相手に服従を強いる響きをともなっていた。
だが、ノエルはそれを意にも介さないかのように、動画を撮影しはじめる。
「いいじゃない。こんなの撮っても、何が映っているかなんて、だれにもわからないわよ」
殿下の称号、つまりは王族にふさわしい貫録と気品をただよわせてはいるが、その口から発せられる言葉は、見かけの年齢相応に無邪気だった。だが、それがCERNの大口スポンサーの言葉である以上、所長という立場のマクシミリアンは不承不承ながらもうなずくしかなかった。
一部始終を静観していたニーナは、口の端をわずかに上げると、艶やかなまなざしをアルバートに向けた。
「いいわ、アルバート。始めましょう」
マクシミリアンの顔は不満げにゆがんでいたが、アルバートはそれを気にかけることもなく、ニーナの瞳を見つめ返した。
絡み合う視線は、まるで量子エンタングルメントのようだ。ひとたびペアとなった量子は、たとえ宇宙の彼方に引き離されたとしても、その関係が失われることはない。目には見えない絆が、アルバートに確信めいた予感を与えた。
――この実験は、きっと成功する。
アルバートはディスプレイに向きなおると、重力制御装置を起動した。
金属リングがゆるやかに回転を始め、その中心に設置された実験装置の重力プローブの数値が、ほぼ無重力状態になったことを示す。
ひとつ深呼吸をしてから、アルバートは宣言した。
「実験開始。18Qbit演算プロセス、メイン・ルーチン、スタート。NPU『ヘラクレスの柱』、全量子ビット、観測開始」
最適化問題を解決するアルゴリズムが、NPUによって処理されていく。もうすぐ、あれの兆候が現れるはずだ。
「ヘラクレスの柱って……あの箱のこと?」
ノエルのつぶやきに、ニーナが「ええ、そうです」と応じた。
『ヘラクレスの柱』は、地中海から大西洋への出口である、ジブラルタルとセウタの別名だ。古来より、この世界と異世界の境界だといわれている。
アルバートが発明したNPU――Non-inertial Pilotwave Unifier element(非慣性系パイロット波統合素子)に、ニーナは期待を込めてその名をつけた。
量子力学の多世界解釈を検証する。その実験装置にふさわしい名前だ。
今から六十年前、プリンストン大学の大学院生だったヒュー・エヴェレット3世が、量子力学の観測問題を解決するアイデアとして、多世界解釈を提唱した。著名な学者が注目し、また数学的にも矛盾のない理論だったが、それを実験で検証しえた者はまだだれもいない。
だからもしこの実験が成功すれば、量子理論の教科書が書き換わるほどのインパクトをもった快挙になるだろう。
ニーナの説明に、ノエルは含み笑いを返した。
「物理学者って、意外にロマンチストなのね。ねえ、知ってる? ヘラクレスの柱には……」
なにか言いかけたノエルの言葉は、不意に鳴り響いた警告音にかき消された。ディスプレイに、十八個の光点がいっせいに浮かび上がる。『ヘラクレスの柱』に配置した重力プローブの反応だ。
アルバートは、すぐにその状況を理解した。間違いない、あれがはじまったのだ。
「NPUスピン素子近傍に、微小重力発生。レベルⅢマルチバース、マーク1からマーク18の存在が想定されます」
アルバートの声は冷静だったが、状況は切迫していた。NPUのビットの値が確定するのと同時に、光点はひとつまたひとつと消えていく。すべてが消えるまえに手を打たなければ、実験は失敗に終わる。
ニーナが弾かれたように立ち上がった。
「どれでもいいわ。早く捕まえてっ!」
左上端の光点が、ひときわ明るく点灯している。アルファベットの順番に”Alice”と名付けたスピン素子だ。
アルバートの指が、すばやくキーボードをたたく。端末のGUIを無視してOSのコマンドラインから、メインフレームのSSDに展開しておいた重力観測系プログラムを呼び出す。ここからは時間との勝負だ。
「重力プローブ、ターゲット、マーク1にロック。観測システムとのリンク確立。これより、多重世界『アリス』への物理接続を試みます」
ディスプレイには、中央がくぼんだ網の目の図形が描かれている。そのくぼみが見る見るうちに深くなり、やがて漏斗のような図形になった。
「なんなの、あれ?」
ノエルの問いに、ニーナが興奮した声で応える。
「多重世界です。そのひとつに接触できるかもしれません」
ニーナの説明のあいだにも状況は進み、ディスプレイの漏斗のような図形は、反対側も同じように開いた図形にかたちを変えた。
「時空曲率、シュワルツシルト限界を突破。アインシュタイン=ローゼン・ブリッジを形成していると思われます……いけそうです」
アルバートの言葉に応えるように、向かい合ったふたつの漏斗が、開口部を広げながら接近していく。
いくつもの警告音が鳴り響き、ディスプレイの画像が赤く点滅する。
やがて漏斗は消滅し、こちら側と向こう側の平面がひとつに重なった。
そして……。
「これは……」
アルバートの指がキーボードの上で静止する。その横顔から表情は消えていた。
「どういうことだ」
ディスプレイを見つめていたマクシミリアンが、苦々しげな声で問いかけた。
ニーナは呆然としながら、首を横に振った。
スマートフォンを構えたまま、ノエルは首をかしげる。
点滅を繰り返すディスプレイと、鳴り続ける警告音。回転する金属リングの中心で起きている事態を的確に解釈することは……。
だれにもできなかった。