第89話 明日に備えて
「ようやく終わったな……」
リンとサトミはトライデルタにまだ用があるらしく、そのため二人に別れを告げ、一足先に京輔は現実世界に帰ってきた。
(……さすがに疲れた)
場所は京輔の自室。ふと壁に設置してある時計を見る。時刻は22時半を少し過ぎた辺りだった。
(そんなものか、体感的にはかなりの間あのゲームにいた気がするが……)
現実と仮想のズレに京輔は辟易する。
(まぁ、そんなことはいい。今は……)
些事は捨て置く。何故なら京輔には今回のイベントの結果をいち早く伝えたい人物がいるからだ。
「おや、まだ就寝されていなかったのですか?」
「お互い様だな、零音」
最も信頼を寄せる協力者にして『八衛零音』に宿りし、もう一人の妹・八衛キリカである。
「その様子ですと、良き成果を上げられたのですね?」
一階にあるダイニングテーブルにて、紅茶を傍らに筆記作業をしていた零音は手を止め、京輔に視線を合わせた。
「ああ、イベントは優勝してきた」
「……えっ? あっ、そうですか」
それはあまりにもあっさりと。零音は少々面食らってしまった。
「ということは鉄火無用を……?」
「そうだ。あの概念系を使って───」
しかし、その後さらに京輔に驚かされる。
「───闘技場を半壊させた」
「なるほど、では───……はい?」
少々どころではない、これには零音も目を見開き、唖然とした表情を晒した。
「えっ、ちょっ、まっ、ど、どのような成り行きでそんなことを……っ」
「おおっ、零音にしてはレアなリアクションだな」
「いや、感心してる場合ではなく、一体何があったのか説明して下さい……っ!」
「そのつもりだ。まずは……───」
零音を落ち着かせつつ、京輔はイベントでの出来事をこと細かに辿っていく。
「このたった数時間の間にそんなことが……」
「ああ、色々なことがあり過ぎて、正直、自分がどこまで把握してるのか疑わしい……」
弱音を吐く様にそう締め括る。それほどまでに濃い時間であったと京輔は語った。
「リンさんやサトミさんとの合流や春奏さんとの戦闘があったのですから無理もありませんよ」
「だが、見返りは大きかった」
「そうですね。零音様の装備である“魔法使いの心意”を取り戻せたのは中々の僥倖」
イベントの優勝賞品にして零音が身に付けていたペンダント・“魔法使いの心意”の奪還。これにより零音捜索の確かな前進となった。
「ペンダントは後でワタシが装備してみましょう。もしかしたらワタシか零音様の能力が復活するかもしれません」
「頼む。というか、今すぐにでも……」
と、そこで京輔は一瞬の眩暈と共に少しふらつく。
「うっ……」
「……京輔さん?」
零音は覗き込む様に京輔の顔を窺った。
「いや、平気だ。それより……」
「……擬似疲労ですね。仕方ありません、今日はもう休んで下さい」
傍目から見ても京輔の体調が優れないのは明白である。そしてそれを黙認するなどという愚行を零音は犯さない。
「ま、待て、この程度は疲労の内に入らない。だから……」
「駄目です。逸る気持ちは分かりますが、ここは堪えて下さい」
零音の声音は冷淡とも取れるが、本気で京輔の事を気遣っている。
「それがサトミさんが仰っていたエクレスターのデメリットなのでしょう。ならば尚更ですね」
「くっ……」
京輔がサトミと再会した時に注意されたデメリット。それは擬似疲労の増加について。
(慣れてないとはいえ、ほぼノーダメージでこれか。恐らくMPの消費量も関係しているな……)
エクレスター(キュネール・オンライン当時の姿)に変身する場合、一時的にトライデルタの姿を上書きする事になる。
(ここまでの疲労感は初めてだ……)
その際、プレイヤーは二種類のアバターを同時に使用している扱いとなり、その状態で擬似疲労も平等に割り振られるため、二倍とまではいかないが擬似疲労が増加してしまうのだ。
「……分かった。じゃあ明日頼む」
「はい。必ず」
京輔は気落ちした様にゆっくりと二階に戻っていく。その後ろ姿を零音は影に隠れるまで見送った。
「さてと、ではワタシは……」
リビングに残った零音が取り出したのは通話用携帯端末である。
(素直に出てくれるでしょうか)
通話相手を選択。お馴染みのコール音が鳴り始める。
『……はい、もしもし。こんな夜更けにどうしました?』
「こんばんは、手短かに済ませますね」
相手が通話に応じ、単刀直入と言わんばかりに零音は切り出す。
「用件は……アナタの想像通りです」
ガチャ、と即座に通話も切られた。
(……やはり勘がいい)
しかし、零音は前もってこうなる事が分かっていたかの様に全く動揺していない。
「まぁ、いいでしょう。全ては明日ですね」
長い長い仮想世界の戦いが終わったのも束の間、現実の明日はすぐそこまで迫っていた。




