第0話 はじまり
「……ふっ、……あっ……」
日の出を向かえて間もない、徐々に明るみを帯びてくる朝。苦悶の表情を貼り付けていた顔がゆっくりと緩んでいく。それと同時に八衛京輔は目を覚ました。
「んっ……夢か。はぁ……」
嫌な目覚め方だな、と京輔は身震いする。日が出ているとはいえ部屋に漂う凍てついた空気は紛れもないもの。その寒さに耐え、近くに置いた目覚まし時計を意識がおぼろげなまま確認する。時刻は5時40分。いつもより早い起床だった。
「……はぁ」
二度寝をしようか考える。しかし、またあの夢を見る可能性を危惧した京輔は結局立ち上がり、代わりに二度目の溜め息をつきながら部屋を後にした。
(あいつはまだ寝てるよな……)
京輔の部屋は二階の奥にある。階段を下りるには廊下に出て隣にある部屋の前を通らなければいけない。そこを通り過ぎる時にぽつりと呟く。その後、階段を下り、まずは顔を洗うために洗面所に向かった。
「おや? 早いですね」
洗面所の扉を開ける。するとそこにはちょうど顔を洗い終えたのか、タオルで水滴を拭っている光景が目に飛び込んできた。
「おはようございます。京輔さん」
柔らかなウェーブのかかったセミロングに、美しい、というよりも可愛いらしい、という印象を受ける整った顔立ち。その人物は京輔の存在に気づくと作業を止め、マニュアルをその場で読んでいるかのように平坦な声音で挨拶した。
「お、おはよう。もう起きてたのか。零音」
少々驚きはしたものの、なんとか平静を装い挨拶を返す京輔。
「はい。今朝は早めに目が覚めてしまったので」
「そうか。一緒だな」
そう言うと京輔は微笑んだ。しかし、反比例して零音の表情は曇る。
「あの、京輔さん。体調は如何ですか?」
「ん? 特に具合が悪いってことはないぞ」
そうですか、と零音。京輔は質問を不思議に思うもののあまり深くは考えず、彼女の隣で顔を洗い始める。その後ろ姿をじっと零音は見つめていたが、やがて扉を開け洗面所を出ていった。
「……おっ」
顔を洗い終え京輔がダイニングに向かうと、先ほど通り過ぎた時には気づかなかった食欲をそそる香りが鼻をくすぐる。四人掛けのテーブルにはすでに朝食が並べられていた。
「昨日の内に少し仕込みました。さあ、召しあがって下さい」
テーブルの中央にサラダを置き、零音は京輔の正面に座る。京輔もそれに続いた。
「んっ、相変わらず美味いな」
味噌汁をすすり感想を述べる。まだ手はつけていないがかぼちゃの煮物や卵焼きもきっと美味しいのだろう、と京輔は思った。
「いえ、あのお二方に比べれば大したことはありません」
謙遜ではなく本気でそう思っていることが窺える声音。
「まあ、春奏はともかく、あいつはな。仕方ない」
どの二人かは京輔もすぐに察してフォローする。
「出ましたね」
「ん?」
「相も変わらぬシスコン。お見それしました」
「おい……」
仰々しくお辞儀をする姿を見て、そんなつもりはない、と反論し零音を睨む。
「冗談です」
「……無表情で言われてもな。どこで笑えば良かったんだ、今の」
悪びれる様子の無い零音に、段々あいつの思考に似てきたな、と順応性に目をみはる思いがする京輔。
「その調子だといつかボロを出して足元をすくわれるぞ」
「それについては最大限、警戒と配慮をしているので問題はないかと」
「本当か? ちょっと前に旧式の冷暖房機に、はだ───」
「あれは当初の認識不足が原因です。再発防止に努めますのでご容赦下さい」
言葉を遮り、目をそらしながら早口でまくしたてる。無表情のままだが微かに顔が赤い。そんな零音を京輔はまじまじと見つめた。
「……何か?」
「いや、別に」
珍しくムッとする零音を見て、あいつとは違う可愛いげがあるな、と心の中で密かに京輔は笑う。
「なんというか、やっぱりお前はキリカなんだな」
その言葉を聞いた途端、顔の赤みが一気に引き、零音は表情を固くした。あまりにも急激な変化であったため京輔は自身の失言に気づくのが遅れる。
「……申し訳ございませんでした」
「ん? あっ……」
「そうですよね。ワタシは常にそうするべきなんです」
「ちっ、違う! 勘違いだ、お前はそのままで───」
「京輔さんに甘えてました。ワタシはあの方の模造だというのに……」
「零音っ!!」
ビクッと身を震わせ、零音は俯いた。
「今のは俺が悪かった。お前があの時からどんな思いで俺に接しているのか知りながら、無神経なことを……」
「いえ、ワタシの方こそすみません。急に動揺して」
冷静さを取り戻したようだが、依然として視線は下を向いている。
「別に構わない」
「……え?」
「前にも言ったろ。俺の前では堂々と自分らしくしていいって」
「はい。ですが……」
「確かに、周りの人に対しては零音として振る舞ってほしいと言ったし、何が起こるか分からないから家でもお前を零音と呼ぶって決めた。だけど、あいつの代わりなんていない」
負い目を感じることはない、と京輔は余計な罪悪感を払拭するための言葉を選ぶ。
「零音は零音で、キリカはキリカだ。それにキリカのおかげであいつは救われてる」
「……あの方の救いに?」
「キリカが零音の中にいるから、こうして零音は存在できる。それにお前は俺に言わせればもう一人の家族であり、もう一人の妹だ。だからそのままでいい」
「家族ですか……」
消え入りそうな声で呟きながらようやく顔を上げ、視線を京輔に合わせた。その様子に胸を撫で下ろし、京輔は微笑む。
「ああ、家族だ。これからもよろしくな。キリカ」
「……はい」
無表情は変わらないが彼女の目は輝きを取り戻している。
「すみません。ご迷惑お掛け致しました」
「いや、そんなことはない。俺はお前の兄なんだから」
零音の中で一応の決着はつき、先ほどと比べ憑き物が落ちたようだった。
「……どうした?」
しかし、気恥ずかしくなったのか、急にそっぽを向く。
「あー、ワタシは零音、ワタシは零音。……はい、もう大丈夫です」
恥ずかしさを誤魔化すため、わざと戯けながら自身が零音である自覚をしたと京輔に伝えた。
「……ふっ」
「何故笑っているんですか? 早く食事を終えて登校の支度をしますよ」
笑ったことを見逃さず、零音はそうまくし立てる。
「そうだな。さっさと食べて学校に行くか。零音」
「はい。京輔兄さん」
京輔との掛け合いに零音は思わず相好を崩す。そこには年相応に笑う少女の姿があった。