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薔薇とカスミソウ~堂々と裏切られたので婚約破棄を叩きつけに行きます~

ご注意:タグをよくご覧ください。

ひとつでも受け付けないものがある方は、読まずにバック願います。

読んでからの苦情は一切受け付けません。

書かれてもスルーしますのでご承知おきください。


 桐生香澄は激怒した。

 火山の噴火の如くに激怒して、一瞬の後にすうっと冷静さを取り戻す。

 怒りすぎて冷静になるというのはこういうことかと頭のどこかで納得しつつ、さてどうしたらいいかとめまぐるしく思考を回転させる。


 彼女が今やろうとしていることは、彼女の個人的な問題だけでは片付かない裏舞台が存在する。

 ならばその裏舞台をセッティングした人物を巻き込んで、面倒ごとの残らぬように確実にコトをなす必要があった。

 香澄はまずスマホのスケジューラーを立ち上げ、ちょうどこの週末に先方へ出かける用事が入っていることを確認すると、今度は手帳をめくって()()のスケジュールを確認する。

 ちょうど重なったそのスケジュールに、よし、と彼女は意気込む。


 この計画を実行できるのは一度きり。

 チャンスは逃さず、この1回により効果的なプレゼンを行って先方を承諾の方向へ誘導しなければならない。


 スマホが震え、メールの着信を知らせる。


【今週末の打ち合わせだが、急な仕事が入ったので2時間ほど遅れる】


 少し前まで書き添えてあった『申し訳ない』だの『すまないが』だのといった前置きは全くなく、ビジネス文書でももうちょっと愛想があるだろうというほどのシンプルさ。

 決定事項の伝達といった感じのそのメールに香澄も「了解です」とだけ返しておいて、彼女は今週末に必要な書類やデータなどを纏め始めた。




 行こう、と自分より30歳年上の紳士が運転する車に揺られて1時間。

 着いた先は、普通のサラリーマンならこんなもんかなという程度の普通の一戸建て。

 エンジン音で気づいたのか、インターフォンを押さずとも先方の夫婦二人が迎えに出てくれた。


 ようこそ、お久しぶりです、お邪魔します。

 簡単に挨拶を交わして、家の中へと導かれる。


(さあて、本番はここから。失敗は絶対に許されないんだから)


 今日の香澄は、ややフォーマルな紺色を基調としたワンピースに、以前婚約者がプレゼントしてくれた18金のネックレスをしている。

 そのネックレスには小さなルビーがついており、見るからにそこそこのお値段はするだろうなという品で、これまで一度もつけたことがなかったそれをあえて彼女は今日この日に選んだ。


 きちんと片付いた、清潔感のあるリビング。

 そのソファーに腰掛けた香澄は、隣に座ったスーツの紳士が出された紅茶を飲んだのを見てから、自分も小さく口をつけた。

 そして、おもむろに話を始めようとする同年代の大人3人を順繰りに見つめ、「待ってください」と控えめに、だがはっきりと聞こえる程度の声量で口を挟んだ。

 向かい側に座る夫婦二人はなんだろう?というように顔を見合わせたが、隣に座っていた男は香澄の不躾さを咎めるように睨んできている。


「どうしたの?香澄さん」

「純也のことならすまないね、どうしても外せない仕事が入ったそうだ」

「今日のメインは両家の調整だ、純也君が多少遅れても問題ないだろう」

「そうではありません」

「ならなんだ?……まさか今更結婚は延期したい、などと言うつもりか?いいか香澄、それはマリッジブルーと言って、嫁入りを控えた花嫁にはありがちなことなんだぞ」


 わかってますよお父さん、と香澄は隣の紳士に視線を向けながらゆったりと頷く。


「延期ではありません。この婚約、完全に破棄させていただきたくお願い申し上げます」




 桐生香澄と山崎純也の婚約は、現代日本としては少々古臭いが家同士が決めたものだった。

 正確には、彼らの祖父同士が所謂戦友として大変仲がよく、お互いに息子、娘が出来たら結婚させたいものだと話していたところ、残念ながら彼らの次代は双方共に息子しか生まれず、ならばと直系の内孫に望みを託した、というものだ。

 とはいえ拘束力はそれほど強くはなく、本人同士が他に相手を見つけた場合は解消しても構わない、という条件がつけられている。


「香澄……お前、一体何を、っ」

「まさか香澄さん、他にいい人でも?」

「そうなのか香澄っ!お前、純也君という誠実な婚約者がありながら、なんて不実なことを……!」


 唾を飛ばさんばかりに怒り狂っている父親の隣で、香澄は妙に冷めた気持ちで「違います」と否定する。


(誠実な婚約者……ねぇ。これ、いくら話しても納得してくれないパターンだよね?)


 彼女としてはこの婚約関係が解消できればいいだけで、何も純也がどうだこうだと言うつもりなどなかった。

 一応解消できるだけの準備はしてきたが、それを使わずに済むならそれはそれで穏便に済んでいいかな、とすら思っていたのだが。

 どうやらそう穏便に「わかりました、解消しましょう」というわけにはいかないようだ。


「回りくどい言い方をしても理解していただけないようなので、率直に申し上げます。このまま純也さんと結婚しても、円満な家庭を築くことも跡継ぎを産むことも私にはできません。なぜなら」


 純也さんには他に大事な人がいるからです。


 告げられたその言葉に、山崎夫妻も香澄の父も唖然とした表情で口をぽかんとあけた。




「他に大事な人がいる方を夫として、何も知らない顔で円満な家庭を築くことなど私には無理です。それに、私自身に興味を示さない人との間に、子供ができるでしょうか?もし義務だけで子をもうけたとしても、父親に愛されないその子が可哀想すぎます」

「ちょ、ま、待ってくれないか!純也が、その、香澄さん以外の女性とお付き合いしていると!?親の欲目かもしれないが、あの子は生真面目で一本気な性格だ。もしそういった女性がいるのなら、あの子の方から婚約解消をと申し出てくるだろう。だが私も妻も、これまでそういった女性の話は一度だって聞いたことがない。何かの間違いでは?」

「そうだわ。もう少し待ってちょうだい。あの子が帰ってきたら、ちゃんと話をして誤解を解かせるわ」

「…………」


 かわるがわる息子の弁護をする山崎夫妻とは裏腹に、この香澄の言葉を聞いた彼女の父は口を一文字に結んだまま沈黙を貫いている。

 さすがに、娘がただの誤解ごときでここまで大事にする性格ではない、と知っているからだろう。

 ただ、まだ香澄の主張を裏付けする確たる証拠がないからか、ひとまず傍観というスタンスに落ち着いたらしい。


 その父親に、何か証拠があるんだろうな?と横目で促された香澄は、渋々持ってきた証拠のデータを披露することにした。


(さすがにこれ出すと、ご両親にクリスティカルヒットで瀕死状態にまで追い込んじゃいそうなんだけど)


 だからといって出し惜しみをしていたら、話題の当人がひょっこり帰ってきかねない。

 わざわざスケジュールを調べ、彼がいない時間を狙ってやってきたのだから、できることなら時間は有効に使いたいのだ。


 ごめんなさい、今からあなた方を傷つけます。

 そう心の中だけで詫びておいて、香澄はスマホに落とした音声データのひとつを、震える指先で再生させた。



『……悔しい……悔しいよ、純也』

『薔子……()()がどんなに辛いか、俺は……俺達だけはわかってる。わかってるが、今回は海外事業部がプレゼンした方がメリットが高い、と社長がそう判断されたんだ』

『そんなことわかってる。でも、ずっと準備してたのに……っ。そう簡単に割り切ることなんて……』


 徐々にトーンを落としていった声が不意に途切れる。


 薔子と呼ばれる女の声と、純也と呼ばれる男の声。

 いささか不鮮明な音声ではあるが、男の声と名前にはさすがに「誤解だ」と言えなくなってしまったのか、山崎夫妻は徐々に顔色を青くしながらも黙って俯いている。


 清潔感のあるリビングに不自然に響き渡る、男女の淫らな息遣いと徐々に激しくなっていく水音。

 これを聞いても、何が起こっているのかわかりませんと言えるつわものは、ここにはいない。


『はっ、あぁっ、……んんっ、ふ……もっと……もっと、強く』

『あぁ。お望みのままに……薔子』

『んっ!あぁ……』


 くぐもってはいるが、音はしっかりと拾えている。

 明らかに欲に濡れた男女の声の合間、くちゅくちゅといういやらしい水音が響き、二人が何をしているのかを饒舌に教えてくれていた。


「もうやめてっ!!」


 悲鳴に近い声で山崎夫人がそう叫んだことで、香澄はそっと停止ボタンを押した。




 夫人はとうとう泣き出した。

 それはそうだろう、これまで生真面目で一本気、曲がったことなどしないと信じて育ててきた息子の不貞の証拠が、その婚約者によって赤裸々に明かされたのだから。

 しかも状況証拠だけではない、音声ファイルという動かぬ物的証拠によって。


 すすり泣く妻の肩を宥めるように擦りながら、夫は憔悴しきった表情ながらもはっきりと、香澄にこの音声の状況を尋ねた。

 仕事の話をしていたが、これはどこで録音されたものなのか、と。


「会社の資料室です」

「な、!?」

「営業部用の資料室ですが、社員なら誰でも入室可能です。私はさっき『海外事業部がプレゼンした方が効率がいい』と言われたプレゼン資料を返しに、入室許可を取って入りました。…………まさか勤務中に堂々とあのような……っ、あのようなものを見せ付けられるとは思っていませんでしたので」


 男は、彼女の婚約者である山崎純也。

 女は、営業部のエースと名高い高梨薔子。

 薔子の実家はそこそこ歴史のある名家であり、彼女はその当主の孫娘として着物の着付けからバイオリン、お茶やお花にマナー講座、様々な習い事の上に塾とスポーツジムにも通い、文武両道才色兼備なパーフェクト・ウーマンとして期待されて、入社した。


 そんな彼女の周囲には、スポーツ用品メーカーである『Sai-Sports』の専務である西園寺恭一をはじめ、ハイスペックなイケメン達がまるで蜜に引き寄せられる蝶の如く群がり、彼女の寵を争っているという。

 香澄にしても関係のないほかの社員にしても、アホか、勝手にやってろ、と呆れ果ててつっこむ気力も度胸もないという状況だ。

 実際文句のひとつでもつけようものなら、権力者である西園寺に蹴落とされて退職に追い込まれて終わり、となるのは明白である。


 香澄も、自分が関係のない立場であったなら『オフィスで情事とかなにその公私混同』と白い目で見て後はスルーだったのだが、たまたま聞いてしまった情事のお相手が純也であったのが運のつき。

 なんてこと、と震えながらもどうにかスマホで録音することができただけ、まだ理性的だったと自分を褒めてやりたいほどだ。



 音声を聞いてまた腹が立ってきたが、ぐっと堪える。

 ここで怒り出しては、まるで香澄が純也に未練たらたらで嫉妬に狂っているかのように思われてしまう。

 冷静すぎてもいけないが、感情的になるのはできれば避けたい。

 純也本人はともかく、この目の前で憔悴しきっているご両親には本当によくしてもらった。

 夫人は「気負わなくていいのよ」と温かくあれこれ教えてくれたし、夫は優しく見守ってくれていた。

 そんな彼らを結果的に傷つけてしまっても…………どうしても香澄は、純也とこのまま何事もなかったかのように結婚するのが嫌だった。

 本音を言えば、他所の女とそんな濃厚な関係にありながらふざけんな、といったところである。


「…………聞いた限りでは、これが初めてではない親密さが伺えましたな。つまり不貞を働いたのは純也君の方、ということになりますが」


 とここで口を開いたのは、これまで沈黙を守っていた香澄の父である。

 余程強い怒りを無理やり抑え込んでいるのか、その声も握り締めた拳も震えている。


「お付き合いしているのかどうかはこの際さて置くとして、職場の女性とこのような親密な関係を持っているとなると、この子の言うように円満な家庭生活は望めんでしょう。娘の努力次第ではそれも適うかもしれませんが……夫となった男性が()()と称して他の女性とたびたびこのようなことをしていては…………お、っと」


 言葉の途中で、タイミング悪く話題の張本人がリビングに顔を出した。

 どうやら帰ってすぐであるらしく、まだコートは着込んだまま手にはパソコンの入ったバッグを持っている。


 彼はまず険しい視線を向けてくる『将来の義父』へ怪訝そうな視線を向け、そして視線を合わせようともしない『婚約者』に疑問を抱き、それから泣いている母と複雑そうな表情をしている父を見て、何事ですかと足早に近づいてきた。

 まさか自分の不貞行為がここで披露されていたなど、予想もしていないといった様子だ。


 近づいてくる純也をひたと睨みつけながら、香澄の父はクン、と鼻をきかせた。

 明らかに純也が来るまでは匂わなかった、明らかに男がつけるには甘ったるい香りに「そういうことか」と薄く笑う。


「急な仕事……ね。便利な言葉だ。職場の女性と会っていても、仕事だと言えばそれは免罪符になるからな。さて、純也君。君が今まで誰といたのかあててみせようか?営業部の高梨薔子さん……違うかな?」




 どうして、と呟かれた言葉に山崎夫人はまた泣き崩れた。

 信じていた息子の口からとうとうそれを認める言葉を聴いてしまったからだろう。


 まだ状況をよく把握できずにいる純也を前に、「ではそういうことでよろしいですね」と畳み掛けて、香澄の父は娘を促して立ち上がった。

 もう話すことはない、ということだ。


 香澄もこの重苦しい場にこれ以上いるのは耐えられなかったため、父に続いて立ち上がりテーブルの上にケースに入ったUSBスティックをそっと置く。

 その中に何が入っているのか、今ならそれを口に出さずとも山崎夫妻にはわかってもらえるだろう、とそう思ったからだ。

 そしてここまで大事につけてきた誕生日プレゼントのネックレスをはずし、バッグに入れて持ってきたジュエリーケースの中に入れて、それもテーブルの上に置く。


「お返しします」

「…………何故だ?」

「これが似合う女性は他にいるでしょう?少なくとも私にはゴールドもルビーも似合いませんし、そもそも誕生石でもありません」


 買うときに誰をイメージしたんですかと直接問わずとも、純也には通じたらしい。

 彼は顔をしかめて、ようやく現在置かれた立場を理解したように


「薔子は友人だ。君とは違う」


 と宣言した。



 もうダメだ、と香澄は絶望した。

 上昇志向の強い負けず嫌い、だがそんなところも彼の一面だとずっと影ながら応援していこうと思っていたのに。

 夫婦になるからには歩み寄って、嫌な一面も好きになろうと心に決めていたのに。


 香澄はすたすたと純也に歩み寄ると、力いっぱいその左頬を平手で張り飛ばした。

 何をと言い掛けるその反対の頬も。

 そしてすっきりした表情で、リビングの扉を開けて待っていてくれた父の傍まで行き、最後にくるりと振り返る。


「さようなら。何もなければこのまま結婚してもいいかと思うくらいには、貴方のことが好きでしたよ」




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