盗人
暗闇の中で、何台ものパトカーが一箇所に集まっていた。
警官が集まり、それぞれが今夜起こったことへの対応に追われている。
時刻は深夜三時。町が静かに眠りへと落ちようとしていた間際、商店街の一角で犯罪が生まれた。面白味のないこの世の中を憂い、一攫千金を夢見た男が貴金属を奪って逃げたのである。
だが、元々一般市民だった男がまさか怪盗のようにスマートに盗み出せるはずもなく、あっという間に包囲網の中に捕えられてしまった。
「くそ……っ」
物陰の隅間から警官を窺っていた男は、舌打ちをしながら夜の闇の中へと走り出す。
小脇には宝石が詰まった黒いバッグを抱えていた。
(捕まってたまるかよっ!)
男には夢があった。
この金品を元手に、一念発起できる。彼はそう信じていた。
とは言え、強行突破でどうにかなるものではない。十メートルも進めばパトカーに遭遇するような状況が、それを如実に物語っている。
どこか適当な場所に身を隠して警官達をやり過ごす。それしか方法はなかった。
「お?」
丁字路を左に曲がると、すぐ目の前に大きな洋館が浮かび上がった。
月明かりにも衰えそうなほど弱々しい光を放つ街灯に反射しているのか、暗闇の中でその建物はやけに目立っている。
(こんな建物あったか?)
男は首を傾げながらも館に近づいた。
大きな門が出入り口を固め、まるで宮廷のような広々とした庭園が格子の向こう側に広がっている。そして、その奥に、今もなおぼぉっと灯る洋館が建っていた。
まるで、館自身が光っているかのように。
「……」
男の頭に不安がよぎる。言葉にできない異様な雰囲気を、肌で感じ取った。
しかし、もたもたしている場合ではない。
見たところ廃屋のようだし、身を隠すにはちょうどいい場所だろう。
男はそう決めると、門に手をかけた。だが赤錆びた錠前が部外者の侵入を拒む。
しかし、男にとってそれは問題にもならないことだった。懐からピッキングツールを取り出し、鍵穴に挿し込む――が、その瞬間、南京錠は音を立てて自然に外れた。
「……ま、こんなこともあるよな」
言い知れない不気味さを誤魔化すように、男はそういって門を開いた。
無造作に伸びた雑草を踏み倒しながら、男は館に近づく。
かつては目を見張るほどの草花が植えてあったのだろうが、いまはその面影も窺えぬほど、田園は荒みきっていた。
しばらくすると、マホガニー色の大扉が男を迎えた。観音開きになっている入り口は色褪せた様子もなく、まるで今も人の出入りがあるような安穏とした佇まいをしている。
ドアの取っ手を引っ張ると、古びた木の音と共に、家の中からホコリの臭いが混じった空気が鼻をついた。
「チッ」
不愉快な香りに顔をしかめ、男はほんの少し躊躇する。開いたドアの隙間から窺える館の中は真っ暗で、今現在持っているペンライト一本では心許なかった。
しかし、自分は追われている身だということは、充分理解している。
「仕方ねぇ」
男はそうぼやき、扉をくぐった。
館の中は真っ暗だった。
一歩先すら見えない濃厚な闇の中を、ペンライトが一筋の光線を弱々しく放っている。
そこへ、ふいに赤い光が割り込んできた。
男は扉の脇にあった窓に寄り添い、外を窺う。やはりというか、一台のパトカーがランプを回したまま門の前に停まっていた。さっきまで自分が歩いていた廃田園を、二人の警官が進んでいる。あとしばらくもしないうちに、彼らはこの館に辿り着くだろう。
(マズイ、マズイぞ)
今すぐにでも館の奥へ逃げ込むべきか。しかし、まだ目は慣れていない。
闇雲に進んで無事でいられる保証はなかった。
そんなことを考えている間にも、警官達は館に近づき、ついに扉の前までやってきた。
「……」
息を殺し、扉が開かれるのをじっと待つ。暗闇に乗じて飛び掛かれば、二人がかりで来られても逃げることができるかもしれない。
(来るなら来やがれっ)
生唾を飲み込み、扉を睨みつける。だがいつまでたっても、ドアが動く気配はない。
「……?」
訝しく思い、男は再び窓の外を覗いた。
扉の前に警官の姿はなく、門の前に停まっていたパトカーもいつの間にか消えている。
だが、いったいいつここを立ち去ったというのだろう。それほど長い間、自分は扉を睨み続けていたのか。
いずれにせよ、この場を凌ぎきった事に変わりはない。
警官達はこの館の探索を止めて、どこかに立ち去ったのだ。
「へ、へへ。バカが」
緊張の糸が解けると同時に、男の口端に余裕の笑みが浮かび上がった。
余裕が生まれれば必然的に欲も出てくる。
暗闇に目も慣れてきたこともあり、男は館の中を物色することにした。
それほど荒れた様子もなく、整然としたものだ。
天井に蜘蛛の巣が張り、ホコリが男の足跡をつけるほど降り積もっているが、掃除さえ行き届けばすぐにでも息を吹き返しそうな状態である。
正面から見て右と中央の廊下の奥にドアがあった。左には二階へ続いているだろう木造の階段が見える。
男は手近な所から仕事を始めるため、右のドアを開けた。
部屋の中に入った瞬間、男の目に沢山の人影が飛び込んできた。
「うわぁっ!」
あまりの人の多さに怯み、思わず後退る。だが、人影に向けたペンライトの光が、それの正体を明らかにした。
「……人形だと?」
人影と思った物は、等身大の人形だった。種類は様々で、マネキン人形を始め、日本人形や木彫り人形もある。本来ならば広々とした部屋だったのだろうが、その八割以上が大量の人形によって敷き詰められていた。
二階にあたる位置には、アリーナ席も見える。吹き抜けになっている造りや、奥にピアノらしきものがあることから、ここはピアノホールとして使われていたのだろう。もしかしたら、ギャラリーの代わりとして人形が置いてあるのかもしれない。
それにしても数が多すぎる。
「気味が悪いな……」
人形とピアノ以外に目立つものも見つからず、男は右の部屋を後にした。
ピアノホールから出ると、彼はそのまま奥の部屋の扉を開いた。
――そこは、生活臭のなくなったダイニングルームだった。中央に配備された縦長の大きなテーブルはホコリをかぶり、もう何年も使われた形跡がない。
しかし。まるで奥のカウンターから、料理が運ばれてくるのを今も待っているかのように、三つの人形が席についていた。
「……」
テーブルの上には皿が並べられ、食事を始めようという雰囲気を出している。
まるで、ままごとのような配置の仕方だった。
「なんなんだ、いったい……」
二部屋続けて人形に迎えられたことで、この家の異様な空気を肌で感じ始める。
「くそっ」
男は声を張り上げ、ダイニングルームの扉を乱暴に閉めた。
「バカにしやがって……」
ふつふつと不条理な怒りを蓄え、男は二階へと続く階段を上る。こうなれば、何としてでも金目のものを盗っていかないと腹の虫がおさまりそうにない。
二階の廊下が見えた瞬間、男は階段から足を踏み外しそうになる。足場が悪かったせいではない。目の前に広がる眺めに、たじろいでしまったせいだ。
学校を思わせるだけの広い幅と奥行きを持った廊下。その両脇に、またしても人形が並んでいた。人形展のような光景、といえば聞こえはいいだろうが、人形の種類に統一性はなく、その全てがホコリと蜘蛛の巣で飾られていた。
「ふ、ふざけんなっ!」
こうも人形の出迎えが続くと、もはや誰かの悪意としか考えられなかった。ここは廃屋などではなく、誰かが住んでいるのではないか。そして、迷い込んだ人間をこうして驚かして楽しんでいるのではないか。
「そうだ……そうに違いない」
男は声を張り上げ、そう自分に言い聞かした。そもそも、ただ人形が並んでいるだけで何も怖がる必要はない。
「俺を誰だと思ってるっ!」
手近にあったフランス人形を蹴った。変色したドレスの中で、乾いた木が割れたような
音が上がる。フランス人形はそのまま人形の陳列から飛び出し、ころころとホコリの上を首だけが転がった。
「はぁ……はぁ……」
何も怖がることはない。たかが人形一体壊れただけで、何が起こる。
男は人形の首を踏み潰すと、手近にあった扉を開けた。
その部屋にも、人形の出迎えがあった。
しかし今までと違い、たった一体しか置かれていない。間取りも狭く、この人形を飾っ
ておくためだけの部屋といっても言いすぎではなさそうだ。
「特別なのか……?」
価値のあるものなのかもしれない。
今までの人形とは明らかに違った扱いが、男をこの場に引き止めた。
人形を正面からよく観察する。
洋館には似合わない、喪服にも見える灰色の着物を纏った木彫り人形だ。
背丈は年頃の少女と同じか、それよりも少し低いぐらい。俯き加減なのと、長い黒髪が邪魔をして顔立ちはよくわからない。不自然なほどに艶のある髪の後ろには、琥珀色をした玉のついたかんざしが挿さっていた。
「ん……?」
男はもう一度、かんざしに光を当てて凝視する。
「……本物だ」
かんざしについた玉は、紛れもない琥珀の石だった。中には何か異物が入っている。おそらく、虫の化石だろう。
「は……はははははっ」
お宝との縁に、思わず笑いを漏らす。
宝石強盗をして、逃げ込んだ先でまたお宝に巡りあえた運に、喜びが溢れてきた。
男は少女の姿を模った人形からかんざしを奪い、部屋を後にした。廊下に並ぶ人形も宝石を付けているかもしれない。
男はにやけ顔を隠そうともせず、壁際にライトを差し向けた。
淡い光が廊下を照らす。だが、ふいに違和感を覚えた。
「……?」
ライトの矛先をもう一度廊下へ向ける。
それに気付いた瞬間、男の顔から薄ら笑いが消えた。
「嘘……だろ?」
ついさっき蹴り飛ばしたはずのフランス人形が、列に戻っていた。
それだけではない。確かに踏み潰したはずの頭がまたもや取り付けられている。
まるで何事もなかったかのように佇み、無機質な青い瞳が、男を見つめていた。
「畜生……誰だ、誰の仕業だぁ!」
浮かれていた気分を害された腹いせもあるのだろう。男は足を薙ぎ、人形の列をことごとく乱していった。
「出てこい! 出てきやがれっ!」
フランス人形が、マネキン人形が、日本人形が、並んでいた人形たちが男の足に蹂躙され、原型を崩していく。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ……」
どれくらいの間そうしていただろうか。男が冷静さを取り戻したときには、並んでいた人形は全て壊れていた。
「チッ……」
流れる汗を拭い、舌打ちをする。こんな気持ちの悪い館にいつまでもいたくなかった。
金目のものも手に入れたし、早いうちに出て行こう。そう思ったときだった。
ギ・ギ・ギ……
軋んだ音が、後ろで静かに響いた。
男の身体から体温が失われ、昂ぶっていた感情が一瞬で氷点下へ落ちる。
ギギギ……カラ・カラ……
軋んだ音が男に近づく。それに続いて、歯車とクランクが回るような、軽い音が響く。
「…………」
振り返ってはいけない。理屈ではなく、本能がそう告げていた。
だが、正体を確かめたいという思いが本能に逆らい、男を振り返らせる。
背後には、着物少女の人形が佇んでいた。
「は、ははは……驚かすな……」
ほっと息をつこうとしたその瞬間。
ギギギ……
音と共に、少女人形の首が持ち上がる。
髪を揺らし、首を傾げるようにして、男を見上げる。いや、正確には男を見てなどいなかった。
穿たれたような暗い対の孔が、男に向けられている。
目玉があるはずのそこには、空洞が広がっているだけだった。
「な……な、なななな」
カラ・カラ……
歯車が空回りするような軽い音が上がり、少女の人形が足を出す。
右、左と一歩ずつ、ヒトの動きで前に進む。
「だ、騙されないぞ……こ、こんなの、ただの人形だ!」
男は近づく少女を突き飛ばすと、その場から一目散に逃げ出した。
廊下を走り、一階へ降りる階段を目指す。
しかし、どれだけ走ろうとも、一向に階段に突き当たらない。
目と鼻の先にあったはずなのに、人形の並ぶ廊下のみが続き、未だ突き当たりにさえ辿り着けない。
「く、狂ってやがる……畜生、畜生!」
息を切らしながら、悪態をつく。
だがそれでも無限に続く廊下は終わりを示さなかった。
ギギ……カラ・カラ……
背後から、あの人形の駆動音が響く。
追いつかれてはいけない。得体の知れない強迫心が、男の足をさらに速める。
それでも駆動音は近づく一方だった。
「くそぉっ!」
引き離せないと判断し、男は手近な扉を開き中に飛び込んだ。
そこは、吹き抜けになったピアノホールのアリーナだった。どうしてか、一瞬でそうだ
とわかった。足元で、滑らかで力強いピアノの音が奏でられている。
「家主かっ! てめぇ!」
古びた木の手すりに手を叩きつけ、ピアノのあった位置を覗き込む。
その瞬間、部屋中を満たしていた音が、不意に途絶えた。それだけではない。まるで、演奏を邪魔した無作法者を咎めるように、ホールに敷き詰められていたマネキンの瞳が全て男へと向けられていた。
「う、ぐ……」
大量の目線に気圧されるも、身を乗り出す事をやめない。
しかし、ピアノの席には誰も座っていなかった。
「逃げやがった……?」
だが、あのマネキンで敷き詰められた部屋を、音も立てずに逃げることができるのか。
ギギギ……
「!」
軋んだ音が、扉のすぐ向こうから鳴り響いた。あの人形が追いついてきたのだ。
「か、階段……」
左右を見渡すが、どこにもホールへと下りるための道はない。
男は手すりに背を向け、扉を正面から見据えた。
ゆっくりとドアノブが回り、内側に開いていく木戸の隙間から闇が広がる。
「く……」
一枚の板の向こうから漏れる異質な空気を肌で感じ、男はじりじりと後退った。
そのとき。
バキィッ!
乾いた音が弾け、腐朽した手すりが壊れる。
「おおおっ!?」
支えを失い、男は背中から一階のホールへ落ちていった。
「ぎぐっ」
破壊音を立て、騒音を撒き散らす。大勢のマネキンが、男の下敷きになっていた。
「ぐふっ。な、め、やがって……」
マネキンを払いのけ、宝石の詰まったバッグを拾う。
「ぶっ殺してやる!」
男は運よく軽傷で済んだらしい。それが逆に、彼の怒りに火をつけた。
この家には、間違いなく生きている人間がいる。薄気味悪い人形の配列や、動く少女人形も、無人の演奏も、全てここにいる人間が仕組んだことだ。
「出て来い! 出てきやがれ!」
壊れたマネキンを踏み鳴らし、男は乱暴にピアノホールのドアを開け放った。
薄暗い廊下に出て、家主の姿を探す。演奏が途絶えてから、時間などほとんど経っていない。
「どこだっ! どこにいやがる!」
殴り破るように、ダイニングルームへと続くドアを開ける。食卓は先程と変わらず、人形達がそれぞれ配置されているだけだ。
「卑怯だぞ、てめぇっ!」
テーブルを蹴り上げ、食器や人形を床に叩きつける。まるで何かに取り付かれたように、男は目に付くもの全てを壊していった。
ギギギ……カラ・カラ……
「!?」
不意に聞こえた歯車の駆動音が、熱くなっていた男の心身を急速に冷ます。
「てめぇか……」
奥のカウンターを睨みつけながら、男は椅子を握り締めた。
やがて、暗闇の中から、長い髪を垂らした少女の人形がゆっくりと現れる。
「ざっけんなぁぁぁぁっっ!」
椅子を掲げ、力の限りそれを振り下ろす。
人形が前のめりに倒れ、幾度となく少女の頭を叩き潰す。
「……ハァッハァッハァッ」
椅子が原形を留めなくなった頃、ようやく男は殴打する手を休めた。
少女の人形は、もはや人形ですらない木屑へと変化している。
「く、くくくくく……ハハハハハハ!」
本能が危険と告げた人形を壊したことで、溜飲が下がったのか。
男は哄笑を上げ、粉々になった木屑を蹴り払った。
「バカバカしい……このぐらいで腹を立てるなんて、どうかしているぜ、俺は」
床に投げ捨てたバッグを担ぎ直し、男はダイニングルームのドアに手をかけた。
カラ・カラ……
「……あ?」
駆動音が、背後から発せられる。
無意識が、男を振り向かせた。
ギギギ……
少女の姿をした、長い黒髪の人形が、空洞の瞳で男を見上げていた。
「な、ななななっなぁぁっ!」
カラ・カラ……
人形はゆっくりと、距離を詰めてくる。
足元に散乱していたはずの木屑は、いずこともなく消えていた。
「だっ、騙されるか! くだらねぇトリック使いやがってっ!」
再びハラワタが煮え滾り、男は宝石の詰まったバッグを振りかざした。
「死ねっ、消えろぉぉっ!」
椅子の時と同じように何度も叩きつける。
そのとき、ファスナーが壊れ、バッグの中身が床に散らばった。
ホコリが積もり、割れたガラスや皿が散乱する床に、金銀が彩られる。
「ああっ、くそっ!」
中身のほとんどをぶちまけたバッグに、人形を壊すだけの力などない。
男は別の武器を求め、ダイニングルームから出て行った。
「畜生……」
暗闇の中を、手探りで進む。ペンライトは二階から落ちたときになくしてしまったようだ。
「……?」
そこで、違和感に気付く。
絶え間なく鳴っていたあの駆動音が、先程からまったく聞こえてこない。
後ろを振り向くが、人形が追いかけてきている様子はなかった。
「……」
今ならば、逃げられるかもしれない。男は、ふらつく足取りで入り口に向かう。
何の抵抗もなく、玄関の扉は開いた。
白み始めた空が、夜の終わりを告げようとしている。
「畜生……畜生……っ」
荒れた田園の草木を踏み鳴らし、男は悪態をついていた。
盗んだ宝石は、全て館の中に置いてきてしまったのだ。丸損もいいところである。
「結局、残ったのはこれだけか」
男はポケットをまさぐると、黄金色に輝く琥珀のついたかんざしを取り出した。
虫入りの琥珀。これだけでも、それなりの金にはなるだろう。
「あ……」
目線を琥珀から外す。男の正面に、少女の人形が佇んでいた。
カラ・カラ……
回転音を鳴らし、人形が歩み寄る。
「く、来るな……っ」
度重なる常軌を逸した人形の出現に、男の気力は奪われ、その場に尻餅をついた。
ギギギ……
少女の顔がゆっくりと持ち上がり、何かを訴えるように男を虚無の目が見つめる。
「こ、これか? これを返して欲しいのか」
恐怖に討ち負けた男は、まるで人形に命乞いをするように、ポケットから琥珀のかんざしを取り出した。
ギ……
まるで男の言葉を理解しているように人形の足が止まり、入れ替わりに腕を差し出す。
「か、返すよ。返すから、もう追いかけてくるなっ」
男は四つん這いになって人形に近寄ると、その手のひらの上にかんざしを乗せた。
それを境に、人形から漂っていた異様な雰囲気が霧散する。
「はぁ……ふぅ…………」
ようやく解放されたと、男は大きなため息をついた。
世の中が面白くないからといって、気軽に犯罪に手を染めるものではない。今回のことで、それがよくわかった。
男は身体を引きずるように、四つん這いのまま人形の脇を通り抜けた。
刹那、電流が流されたような痛みが奔る。
「――ッ!」
男の悲鳴が、田園中に響いた。
「なっ、な、なに……ひっ」
少女の人形がまるで縋るように男の足を掴んでいる。それだけではない。
アキレス腱が、ついさっき返した琥珀のかんざしによって横から貫かれていた。
ギギギ……
人形はそのままかんざしを自分の手前に引き抜き男のアキレス腱を切る。
「ぎゃあああああ!!」
血塗れになったかんざしを握り締め、人形はもう一つのアキレス腱もあっさりと切り裂
いた。
「ひぃっ、ひぃっ!」
男はもがくように両腕を振り回し、人形から離れるために前へ進む。
だが追撃は止まなかった。先程までの錆びたような動きが嘘のように、人形は滑らかに動き、かんざしを男のうなじに突き立てた。
「があああああっ!」
とっさに傷口を手で覆い、かんざしを引き抜く。
「やめろっ、やめてくれっ!」
なりふり構わずに懇願する男に、人形はただ、何も無い眼窩を向けるだけだった。
ギギギ……
人形の手が、怯えに満ちた男の目に向けられる。指先が眼球に触れた。
「お、おい……やめろ。やめろぉぉぉっ!」
時刻は朝五時。夕暮れのような青々とした風景に、パトカーの赤い光が何台も集まっていた。周りには一般的な住宅以外何も無い、ごく普通の道路。その真ん中に、青いビニールシートが広げられている。
「目と宝石はどこにいったんでしょうねぇ」
恰幅のいい、刑事らしき男が、ボソッと呟いた。
だが、それに答える者は、誰も居ない。
真っ暗な部屋の中に、人形がぽつんと佇んでいる。
長い黒髪の隙間から見えるその顔には、一対の眼球が取り付けられていた。




